おしゃれのセンス・ここだけの女性論13

最初の女性論のテーマに戻ります。

ひところブームになった『女性の品格』という本は、ひとまず女としての品のあるたしなみのようなものを書いているのだろうが、しかしあの著者の女性は、どうしてあんなにも着るもののセンスがダサいのでしょうね。あんまり「品がある」とはいえない服ばかり着ていた。
服装だってひとまず女のたしなみであり、品性の問題でしょう。
エリートのインテリらしいけど、だからといってダサくてもいいというわけではもちろんない。そういう人種の中にだって、もちろんセンスのいいおしゃれな女性はいくらでもいる。
昔の社会党の党首であった土井たか子女史は、怖い顔をしたおばさんのくせに、とても服装のセンスがよかった。それに比べてその後継者の福島瑞穂さんは、ものすごく金をかけておしゃれをしているのだろうが、「なんであんなに」とあきれてしまうくらいとんちんかんでひどいセンスの服ばかり着ている。
それはそれで、それも「品性」のあらわれですよ。
まあ半分は生まれつきというかお育ちの問題でもあるから、なかなかむずかしいのかもしれないが。



女のおしゃれは、見せようとする自意識が前面に出てきてしまうと野暮ったくなる。
女は、見せようとしないでも「すでに見られている」存在なのです。その「すでに見られている」という視線に対する居心地の悪さをどう処理して自分の体を落ち着かせるかということが、女のおしゃれの基本でしょう。
人から「見られる」という体験が不足して育ってきた女性は、どうしてもその欲求不満で「見せよう」としてしまうのでしょうかね。
ブスでもセンスのいい女性はいくらでもいるが、ブスほどセンスが悪いという男たちの評価も、一面の真実ではある。
だから、自分がブスだと思うのなら、見せびらかそうとする自意識をさらけ出してしまうことにはじゅうぶん注意をしたほうがいい。残酷なことではあるが、美人の見せびらかそうとする態度よりももっと下品な印象を与えてしまう。勘違いした中年のおばちゃんがぎらぎらした服やアクセサリーをしているのと、つまりは同じ動機なのだから。
そうまでしないと人に見てもらえないし、見られることの居心地の悪さがわかっていない。それはもう、半分女であることを失っている事態でもある。
「見られている」ことの居心地の悪さを前提として持っているのが女のはずです。これはもう直立二足歩行の起源以来の歴史を語らなければいけなくなってしまうことだからここでは省きますが、とにかくそこから女のおしゃれがはじまるのだろうと思えます。



たとえば、流行の服は、ひとつの街の風景です。街の風景に溶け込んでまうことは、ひとまず「見られている」ことの居心地の悪さを処理する作法です。人間はそうやって風景の中に消えてしまおうとする衝動を持っているから、流行のファッションが存在する。
つまり「自分=身体」を消してしまおうとする衝動ですね。
人間は、けっして自分を見せびらかそうとしている存在ではない。見せびらかそうとするのは、あくまで時代的社会的な病理です。
自分を忘れてこの世界や人にときめいてゆくのが人間です。だから、人間としての自然において、見せびらかそうとする衝動を持っていないのです。見せびらかそうとしないで消えてしまおうとしているから、流行のファッションが存在するのです。
それはまず一部の目立ちたがりが見せびらかそうとして着はじめるのだろうが、誰もが着るようになってゆくのは、街の風景になって消えてしまいたいという衝動を誰もが持っているからでしょう。
ほんとにおしゃれな人は、最初は見向きもしない。でも流行になってしまったら、無視することはできなくなる。土井たか子のセンスのよさは、さりげなく流行を取り入れているところにあり、福島瑞穂はもう、わが道をゆくオーバーランのファッションです。あれじゃあ、街の風景の一部になれない。
おしゃれな着こなしとは、美しい街の風景のことです。
女は、男よりももっと消えてしまおうとする衝動を持っている。それは、それほど「自分=身体」に対する幻滅を深く抱えている存在だからです。
消えようとすることこそ、女のファッションセンスです。衣装は、自分の身体を消してしまう道具であると同時に、もうひとつの自分の身体でもある。センスのいい女性は、そこのところをちゃんと心得ている。
つまり人間にとっての衣装は、自分がこの世界や人にときめいていることの形見であり、そうやって流行のファッションが街の風景として広がってゆく。
ファッションセンスのいい女性は、自分を見せびらかそうとなんかしていないが、ちゃんとこの世界や人にときめいていっている。人に見られることを鬱陶しがりながら、人にときめいている。そこに、女の品性と輝きがあらわれる。
『女性の品格』の著者や福島瑞穂さんは、自分を見せびらかそうとするばかりで、ちゃんと世界や人にときめいていない。なんというかまあ「街の風景」にときめきその一部として消えてゆこうとする実存感覚、すなわち女としての「品性」を持っていない。それが、ファッションセンスとして表れている。



平安時代は、都が奈良盆地から京都に移ったことからはじまっている。
たぶんそれはもうとても大きな変化で、そこで古代が終わり中世がはじまったともいえます。
たとえば、平安時代の宮廷の女性たちは、なぜあんな十二単などという重たげな服装をしていたのでしょう。それだって、奈良盆地の宮廷の風俗とはずいぶん違うはずです。
それは、男に着せられたのではない。彼女らのファッションセンスだったのです。それほどに幾重にも衣装をまとわないと彼女たちの身体に対する嘆きは癒されなかった。
平安時代の宮廷の女たちは、身体の「穢れ」というものを強く意識していた。
奈良盆地の乾いて明るい広々とした「まほろば」の風景、それに対して京都の盆地は、空気が湿潤で、しかもすぐ目の前に山が迫っています。その環境に置かれていることの閉塞感から、穢れが強く意識されていった。
しかも、まわりの男たちは政争に明け暮れ、ものすごく迷信深くなっていった。これだって、京都という土地柄の閉塞感もあったのでしょう。奈良盆地にいたときの古代のおおらかさはどんどん失われていった。
というわけで平安時代の宮廷社会では、穢れをそそぐ行為としての女が出家するということがとても増えていった。出家しなくても女たちは、ときどきお寺に籠るとということをしょっちゅうするようになった。
それはあくまで身体の「穢れ」をそそぐための行為です。そういう意識から十二単というファッションが生まれてきた。



それはべつに男から着せられ閉じ込められていたのではなく、女が、みずからの女としての受難の表出としてそういうふうな着方をしていっただけのことのはずです。
女がしいたげられている時代だったのではない。
あのころの女たちは、われわれが考える以上に男と対等の立場だった。ただ政治をしたがらなかったというだけのことで、亭主への不満は日記に書きまくるわ、男に引き止められてもさっさと出家してしまうわ、男の言いなりになっている存在ではなかった。おそらく、そうやって女流文学が花開いていったのでしょう。
女たちが政治に興味がないのだから、女たちを抑圧支配する理由なんかありません。それにもともと日本列島は、女が男をリードしてゆくことが伝統の社会だった。
男たちは、漢文を教養として朝廷づとめをしていた。しかし、女の好きな和歌の教養も持たなければ女から相手にしてもらえなかった。男が威張っていたら、そんな必要は何もなかったし、仮名文学など生まれてこなかったでしょう。
また、女が政治をしたがらなかったということは、それほどに女としての受難を自覚していたということを意味するはずです。女はもう、いつでも「非日常」の世界に消えてゆこうとしていた。多くの女が男に負けない教養を持っていたが、政治なんかしたがらなかった。権力闘争や出世競争に明け暮れる男たちを眺めながら、おそらくそれに幻滅していた。
とにかく、和歌を贈答しないとセックスの関係に持ち込めないということは、そこでいったん人と人の関係になるということでしょう。あなたを人として認めるからやらせてあげる、ということでしょう。金や地位や男前があっても、それだけではやらせてあげない。人としての知性や感性を見せてください、そして私の知性や感性もちゃんと確かめてください、という手続きだったはずです。
庶民の男と女だってそういう「歌垣」という手続きを持っていた。
いつの時代であれ、たがいの男あるいは女として生まれてきてしまったことの受難の自覚が癒されなければ男と女の関係ははじまらないのです。



女は、自分が「いい女」であることをほめたたえてほしいんじゃない。女として生まれてきてしまったことの受難の自覚を癒してほしいと願っている。膣の中にペニスを埋め込むセックスだって、ようするにそういう行為のはずです。
まず人と人としてときめき合うことがなければ、男と女の関係なんかはじまらない。
やらせ女だって、ちゃんとそこに反応しているのです。平安時代の男と女もまた、ただやりまくっていたように見えて、われわれ現代人よりもずっと切実な人と人の関係の作法を持っていた。自分が「いい女」であることを見せびらかすようなことは、誰もしなかった。だからこそ、男が寄っていかずにいられない生態を生み出す社会の構造になっていた。
十二単の女が男のおもちゃだったと思うと間違う。女たちは、そうやってけんめいに女として生まれてきてしまったことの嘆きを押し込めていたのです。
ともあれ日本列島は、たがいに人と人としてときめき合う文化を豊かに持っていたからこそ、男と女がかんたんにセックスしてしまう生態にもなっていたのですよね。
日本の男の勃起したペニスは硬い、といわれている。それは、それほどに他愛なく女に引き寄せられてしまう衝動を歴史の無意識として持っている、ということです。そしてそれはまた、女が女として生まれてきてしまったことの嘆きを深く持っていてそこに引き寄せられてしまう、という関係性の文化風土になっているからでしょう。
「いい女」であることを見せびらかされても、男は逆に萎えてしまう。いつからこんなになってきたのでしょうかね。戦後という時代の哀れな末路であるのかもしれない。
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