女の世界・源氏物語の男と女11(終わり)


生きてあることのかなしみやいたたまれなさは、直立二足歩行の開始以来の人間であることの与件です。この生はそうした「嘆き」にまとわりつかれてある。日本人は、そうした「嘆き」や「まとわりつかれている」ということにことのほか敏感な民族です。何かに「まとわりつかれている」と思いながら生き、そこからの「みそぎ」として死んでゆく。
「みそぎ」は、日本人の生きる作法であると同時に、死んでゆく作法でもある。「みそぎ」によって日本人の心は華やいでゆく。
政争をするにせよ仲良くするにせよ、相手にまとわりついてゆけば、自分もまた「まとわりつかれている」という思いをもたねばならない。
日本人が深くお辞儀をして挨拶することは、「あなたにまとわりつきません」という態度なのです。たがいにまとわりつかない関係を保ちながらときめきあってゆくのが、この国の人と人の関係の作法です。そういう関係を保たないと生きられないのが日本人です。
まとわりついてゆけば、たちまち自分もまとわりつかれてしまう。まあ、それが、平安時代の宮廷貴族の権力争いだった。
そして現代人もまた、「自分という意志や欲望」にまとわりついたあげくに、「死後の世界に亡霊となってこの世をさまよっている自分」にまとわりつかれ、けっきょく死との和解を失ってしまっている。「絆」だとかなんだとかといって、まとわりつき合って、まとわりつかれ合っている。
たぶん源氏物語が登場してきた時代とポストバブルの現在は同じ状況なのだろうと思います。いい気になって「自分という意志や欲望」にまとわりついていったあげくに、死との和解を失い、さまざまな「もののけ」にまとわりつかれるという病理現象を引き起こしている。
「閉塞感」というのは、ようするに「まとわりつかれている」という感覚でしょう。
今どきの若者たちの世界では「LINE」というインターネットを使った陰湿ないじめが流行ったりしているそうだけど、誰もが「もののけ」になって人にまとわりつき、誰もが「もののけ」からまとわりつかれているとおびえてしまう情況があるからでしょう。
もののけ」は、平安時代だけのことじゃない。平安時代以来日本人はずっと「もののけ」にまとわりつかれているのです。
だからこそ、そこからの「みそぎ」として、「もののあはれ」の感慨を掬い上げていかないと生きられない。
現在の日本人は、そういう「みそぎ」の感覚を持ちえているでしょうか。



人間なんかもともと「まとわりつかれている」ことの「けがれ」を洗い流す「みそぎ」をしながら生きている存在です。
原初の人類は、密集しすぎた集団で他者の身体に「まとわりつかれることのけがれ」をそそぐようにして二本の足で立ち上がっていった。
人間が二本の足で立っていることは、「もののあはれ」の感慨を掬い上げることです。
何かが流行するということは、何かにまとわりつかれるということであり、とうぜんそこからそれを引きはがすカウンターカルチャーが生まれてくる。
現代のカウンターカルチャーは、おそらく若者たちによる「かわいい=ジャパンクール」の文化だろうし、それはきっと「もののあはれ」の感慨の上に成り立っている。
今どきの若者のたちは、大人にまとわりつかれ支配管理されているから、そのことの鬱陶しさを切実に抱いている。「もののあはれ」の感慨を持たないと生きられない。
人と人は必要以上にくっついてしまう生態を持っているのだが、そこからくっつきながら離れているという関係になってゆく。それが、「今ここにおいて消えてゆく」という作法であり、そこから「もののあはれ」の感慨が生まれてくる。おたがいに自分を消しながら向き合っている。
源氏物語の女たちが男を拒否し怖がったのも、消えようとする衝動です。男にまとわりつかれそうになると、反射的本能的に消えようとしてしまう。女は、そういう「もののあはれ」の世界を生きている。
現在のこの国で結婚しない男女が増えてきているということにしても、「もののあはれ」の感慨が深くなってきている時代だともいえる。人にまとわりついてゆきたくないし、まとわりつかれたくない。それはもう、まとわりつき合って経済成長に邁進してきた戦後社会の反動でしょう。



現在もまた「もののけ」にまとわりつかれている時代であり、それによって人々が死の問題を解決できなくなってしまっている。そういう時代の空気に浸されながら、そのカウンターカルチャーとして「かわいい=ジャパンクール」の文化が生まれてきた。
何はともあれ、死の問題を解決できなくなっている、ということがいちばん大きいのでしょうね。人間はその問題の上に生きている存在なのだから。
そしてそれは、「死後の世界」など語ったってだめなのです。日本人は、それによってなお混乱し、「幽霊を見た」などという話になってしまうだけなのだから。
「今ここにおいて消えてゆく」という「もののあはれ」の感慨から生きはじめ、そして死んでゆくのが、日本列島の伝統的な生と死の作法なのです。すでにそういう解決の文化を持ってしまっているからこそ、死後の世界など信じさせられると、なお追いつめられてしまうのです。天国や極楽浄土なんか説かれても、日本人の心は、この世界をさまよう亡霊のところまでしかたどり着けないのです。そういうことはもう、この千年の歴史が証明しているのではないでしょうか。
日本人が天国や極楽浄土すなわち死後の世界の概念で死の問題を解決していた時代など、一度もないのです。信じたければ勝手に信じればいいけど、日本列島には、信じることによってますます解決できなくなってゆくという歴史風土があるだけです。
日本人はというか、原初以来の人類は、「今ここにおいて消えてゆく」という「もののあはれ」の感慨とともにある死生観で解決してきたのです。「もののあはれ」という言葉を意識しようとしまいと、世界中の誰もが「今ここにおいて消えてゆく」ことの心の華やぎともに生きて死んでゆくのです。そしてそういう人間が人間であることの体験を後にも先にもないほど高度な美意識として昇華していったのが源氏物語です。



平安時代の貴族の男たちは、宗教者が妄想する「あの世」観に引きずり回されてますます死の問題が解決できなくなっていった。そういう時代のカウンターカルチャーとして女たちによる「もののあはれ」の心の世界の文化が生まれてきた。
では現在の幸せ自慢・いい女自慢の女性論がカウンターカルチャーになりえているかというと、男と同じようにこの社会に居座って既得権益を得ようとしているだけですからね。カウンターカルチャーでもなんでもない。死の問題を解決できない世の中の風潮に加担し、しがみついているだけです。
社会に居座ろうとして生きていれば、社会から離脱する事態である死が受け入れられなくなるのはとうぜんです。そうして、死んでも社会の周縁をさまよう亡霊にならねばならなくなる。
人類の歴史は、この生からはぐれてしまうというかたちで死の問題を解決してきたのです。
「女三界に家なし」というように、この国の女は、心がこの生からもこの社会からもはぐれていってしまう傾向があった。それが「もののあはれ」の伝統であり、そういうカウンターカルチャーは、「かわいい=ジャパンクール」の文化にあるのであって、幸せ自慢・いい女自慢の女性論にあるのではない。
つまり「かわいい=ジャパンクール」の文化は、みごとに現在の幸せ自慢・いい女自慢の女性論のカウンターカルチャーになりえている。
源氏物語論』の吉本隆明だって、紫式部が自分やこの社会に居座ろうとしながら源氏物語を書いていたという論調で終始しています。ほんとにどうしようもなく卑しく愚劣な視線です。いまどきのゴミみたいな女性論以上でも以下でもない。そういう視線しか持てない俗物だから、「もののあはれ」がわからないのだし、誰もがそういう視線になっていったのが戦後社会です。
吉本が標榜する「大衆の原像」とか「生活者の思想」などというものは、まさにこの生やこの社会に居座って生きていこうとするものであり、女が持っている自分やこの生やこの社会からはぐれていってしまう「もののあはれ」の心模様などわかるはずもありません。
女の心模様などなんにも感じないで、自分の観念世界の物差しだけで女を眺めて生きてきた男に、源氏物語や「もののあはれ」の世界などわかるはずがない。これは、女にもてたとかもてなかったというような問題ではありません。人間としての基本的なありようの問題であり、まあ戦後社会は誰もが自己撞着してゆく社会であったのであれば、ようするに吉本は、時代に踊らされしがみついていただけの男でしかなかった、ということです。もちろん吉本シンパだって同類そのものであり、そういう人種が大量発生してきたのが戦後社会だったわけです。
そうして今、一部の大人の女たちが、昭和戦後の男たちから一周遅れでこの社会に居座った自己撞着の女性論を垂れ流している。
この連中には、「もののあはれ」なんかわかりませんよ。
もちろん僕だって、女ほど確かな「もののあはれ」に対する実感を持っているわけではないが、それについて考えようとする態度くらいは持っているし、小林秀雄本居宣長よりも先まで考えたという自信がないわけではありません。すくなくとも、この二人の言っていることをコピペ・引用して、「もののあはれ」とはこうです、といってすませるような怠惰なことはしていないはずです。引用するくらいかんたんなことだけど、したくなかったし、その先を考えたかった。



そりゃあまあ、源氏物語論を「もののあはれ」で語るのは不利ですよ。本居宣長というビッグネームと比較され、そんなことくらいは本居宣長がとっくにいっていることだ、決め付けられるだけかもしれない。
しかし前に書いたように、僕としては、すくなくともこの言葉の解釈に関しては、本居宣長小林秀雄がいっていることだけではまだまだ不満なのです。
もちろん、源氏物語の読みでは負けない、というつもりなどさらさらありません。僕なんか、現代語訳でしか読めないレベルです。でも「もののあはれ」という言葉の解釈に関しては、それじゃあまだだめだ、という思いはどうしてもあります。
本居宣長は、「もののあはれ」について、こういっています。
「よろずの事の心を、わが心にわきまへ知り、その品にしたがひて感ずる」
あるいは
「物の心をわきまへしるが、則(すなわち)物の哀れをしる也。世俗にも、世間のことをよくしり、ことにあたりたる人は、心がねれてよきといふに同じ」
僕は、本居宣長は「もののあはれ」がよくわかっていない、などいうつもりはない。凡人の僕などよりはずっとたしかにこの言葉の内実をつかまえていたのだろうが、説明のしかたがこれだけでは不満なのです。
宣長はまた「物の心を知り、事の心を知る」というようなことをいっているが、「もののあはれ」の「ものの」は、以前にここで書いたように、「物」でも「事」でもないのであり、「まとわりつく」というニュアンスの言葉なのです。「あはれ」にまとわりつく、すなわち「あはれ」を深く知り深く感じることを「もののあはれ」という。ここのところは、宣長は意識していないはずです。彼はこのことに気づかなかったから、たとえ僕よりもちゃんと「もののあはれ」のことがわかっていても、うまく説明できていないのです。
もののあはれ」=「あはれそのもの」といっておいても間違いはないのであり、「あはれ」とは何か、ということがいちばんの問題なのです。「もののあはれを知る」とは、「あはれそのものを知る」ということであり、「今ここの死」を体ごと深く体験する(=実感する)、ということです。この世界のすべての現象は「今ここの死」として存在している、と「感じてゆく=認識してゆく」ことを「もののあはれ」という。
もちろん本居宣長だって「それは世界の感じ方のことだ」といっているわけで、まさしくその通りなのだが、「まとわりつく」というニュアンスと「今ここの死」というニュアンスを引き出せなかったら、何をいってもけっきょく説明不足になってしまうということです。
悪いけど、本居宣長よりも僕のほうが「もののあはれ」という言葉の正味の姿に接近していますよ。すくなくとも、本居宣長をコピペして「もののあはれ」といっているのではない。
そして源氏物語はやはり、普遍的に女が存在そのものにおいて抱いている「もののあはれ」の深い感慨を描いている文学だと思います。
吉本隆明の読み=解釈なんて、ほんとにどうしようもなくちゃちで下品です。



ラグジュアリーすなわちこの生に対する執着と上昇志向は、共同体の本能です。
そしてそれに対するカウンターカルチャーとして「もののあはれ」の感慨の文化が生まれてくる。カウンターカルチャーは、いつの時代もつねに女の「もののあはれ」の感慨とともに生まれてくる。
もののあはれ」のカウンターカルチャーを抱えているのが、日本および日本人の可能性と限界です。
人間が死を思う生き物であるかぎり、人間から「もののあはれ」の感慨はなくならない。「もののあはれ」のカウンターカルチャーは、いつの時代も死との和解の表現として登場してくる。
「寅さん」の映画だってひとつの「もののあはれ」を表現したカウンターカルチャーであり、そうやってラグジュアリー志向のバブルの時代にも生き残ってきた。おそらく宮崎駿のアニメだって同じでしょう。たとえば、宮崎アニメの少女たちはつねにラグジュアリーを拒絶しているところに凛とした愛らしさがある……とかなんとか。
女の輝きは、「もののあはれ」の感慨とともにある。女の心は、「もののあはれ」の感慨とともに華やいでゆく。具体的にどうかということはよくわからないのですけどね。まあ、みんな輝いていますよ。男にとっては、女であるというそのことが女の輝きなのだろうと思います。
男は女を追いかけるようにできている。
その女がどんな人格であろうと、女であるというそのことに「かなしみ」の気配が宿っている。男はそれを追いかける。女であるというそのことが「もののあはれ」です。
そして女は、男を拒否する本能を持っている。男を拒否することが、女の中の「もののあはれ」です。女は、男は拒否しつつ男を受け入れる。男を拒否しているからこそ、男を受け入れることに深い快楽がともなう。
女は、どんなにちんちんが小さい男が相手であろうと、どんなに愚劣な男が相手であろうと、男を受け入れるというそのことから深い快楽を汲み上げることができる。
女が自分から男に寄ってゆくのは、自分がいい女であることを確かめたいからであり、そういう自己撞着・自己正当化の衝動から来ているのでしょう。いまどきはそんな嘘くさい女がいっぱい増えてきている世の中かもしれないが、それでも男たちは、女が女であることの不思議に驚きときめいている。
女は、どこかしらに、男なんかなしでもかまわない、という気持ちがある。女と本気で付き合えば、男はそういうことを思い知らされる。
女も男を求めている、なんて、もてない男の幻想です。女と付き合う男なんかたいてい、女から置き去りにされながら「こんなはずじゃなかった」と思い知らされ、女とはいったい何ものなのだ、と途方に暮れてしまうだけです。
だから、このシリーズの結論はありません。
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