抱きしめ合う・ここだけの女性論25


女にとってセックスをすることは、ひとつの悲劇的な体験なのでしょう。
だから、はにかんだりいやがったりしてしまう。
別にしたいわけでもないのに、ついやらせてあげてしまう。やらせてあげたくなってしまう。やられたくなってしまう。
やりたがっているんじゃない、やられたがっているだけだ、というのか、それは、自分を悲劇的な体験に追い込んで、自分を処罰している行為なのでしょう。
そういう体験だからこそしかし、強姦してはいけないのでしょう。そんなことをされたら、意識が強姦されているという現実=日常の世界に引き止められ幽閉されたまま、大きな傷を負ってしまう。とにかく、ものすごく深い心的外傷(PTSD)を負ってしまうのでしょう。
いいかえれば、日本列島の女の歴史は、男に強姦されるような歴史ではなかったということです。そんな歴史であったのなら、主婦が平気で不倫をするとか若い娘がかんたんにフーゾク嬢になるというような現象は起きていない。
日本の女は、セックスや男と女の関係において、歴史的な心的外傷(PTSD)を負っていない
人間は、誰だって他者との関係に幽閉されてしまうことなんかいやです。他者と関係することは、たがい関係の中に閉じ込められていないことを確認してゆく行為です。たがいに一方通行の関係を交換・交歓してゆくことです。
関係の現実世界から、自分すらも忘れた非日常の世界に入ってゆく。そうやって自分を処罰してゆく。人間は、生きてある現実を忘れたがっている。
原初の人類は、住みにくいところ住みにくいところへと移動しながら、とうとう地球の隅々まで拡散していった。それは、自己処罰の行為であったはずです。
人間は、悲劇的な体験を引き受けて自己処罰してゆくことにカタルシスを覚えてしまう生き物らしい。
誰だって「お得な人生」を生きたいに決まっているのに、いつのまにかあれこれ悲劇的な体験を引き受けながら、気がついたらお得ではない人生になってしまっている。まあ、そうやって原初の人類は地球の隅々まで拡散していったのであり、現在を生きるわれわれの人生だって、けっきょくそのようになってしまう。
「お得な人生」を得ることにわき目もふらずに邁進できる人なんてそうそういないし、そういう人はちょっともう病気なんじゃないかとも思ってしまう。人間はそれだけの存在ではないし、誰もがそれだけの存在になってしまうと、人と人の関係も男と女の関係もギクシャクしてしまう。
人間のセックスは、自己処罰して悲劇を引き受けてしまうという人間性の自然を浮かび上がらせる。



今どきのインテリ女がどんなに「さあ、お得な人生を生きましょう」というような女性論を展開しても、人間の世の中はそういう流れになってゆかない。
いつの世の中でも「お得な人生」を生きられない女はいるし、それに共感してゆく人々がいる。
まあおおむね、人助けしていたら「お得な人生」は生きられないですよ。だめな男に引っかかってその世話ばかりしていたら、ろくな人生にならない。それでも女は、ときに自己処罰としてそういう生き方をしてしまうのですよね。
自己処罰とは、他者を生かそうとする衝動でもあります。自分を生かすことなんか忘れて、他者を生かすことに熱中してしまう。人と人の関係だろうと男と女の関係だろうと、生きてあることを嘆いている存在である人間の関係は他者を生かそうとする自己処罰の衝動の上に成り立っている、というようなことがある。
人間には自己処罰の衝動があるからこそ、人と人の関係が豊かになる。
人間から自己処罰の衝動が消えることはないし、自己処罰から豊かな快楽が汲み上げられる。その人間性こそが人類の文化を発展進化させてきた。
人と人が関係することは、他者を生かそうとする行為なのでしょう。みずからが生きてあることに戸惑い幻滅している人間存在は、どうしてもそのようにして他者と関係してしまう。
たしかに誰だって「お得な人生」を生きたいのです。それでも人間の生きるいとなみはそのようにならず、知らず知らずのうちに自己処罰して他者を生かそうとしている。そういう人間の本性をかなぐり捨てて「お得な人生」に邁進しようとするのを「自己愛性パーソナリティ障害」というのでしょう。そのえげつなさで社会的に成功する人もいれば、人に嫌われ脱落してゆく人もいる。
人の心は、知らず知らずのうちに自己処罰して、自分=日常を忘れた「非日常」の世界に入っていってしまう。
日本列島の伝統的な文化というか人類の歴史文化は、自己愛をみなぎらせて「お得な人生」を生きようとするよりも、自己処罰して他者を生かそうとする衝動から生まれ育ってきた。「お得な人生」を生きたいくせに、どうしても自己処罰して他者を生かそうとしてしまう。女は、そのようにしてセックスの快楽を汲み上げているし、そのようにして日本列島の「おもてなし=サービス」の文化が洗練発達してきた。
ブスのインテリ女が、私は「お得な人生」を生きていると自慢し、みなさんも「お得な人生」を生きましょうと扇動しても、人間はそれだけではすまない衝動を持っている。



男と女は、抱き合うということをする。
もともと人間は、二本の足で立って向き合い、たがいの身体のあいだに「空間=すきま」をつくり合っている存在です。それによって、密集した集団の中でも体動かす空間が確保されるし、その「向き合っている」という関係が心理的な壁となってたがいのその姿勢を安定させている。それはまあ、たがいに他者を生かし合っている関係だ、ともいえます。
おそらく、人間の他者を生かそうとする衝動はそこから生まれてきている。
では、せっかくのその関係を壊して、なぜ抱き合ってゆくのか。
それは、そのときみずからの身体のことを忘れて相手の身体ばかりを感じている体験です。
つまり、そうやって自己処罰している体験だといえる。人間にとってみずからの体は、忘れてしまうところまでいかないと落ち着かない。
二本の足で立っている姿勢は、なんといっても不安定でしかも胸・腹・性器等の急所を外にさらして危険極まりない姿勢です。安定し安全である「お得な姿勢」ではないし、絶対にそうはならない姿勢です。だからもう、「忘れてしまう」以外にその居心地の悪さから逃れるすべはない。「忘れてしまう」体験として、抱きしめ合うという行為が習慣化していったのでしょう。それはもう、二本の足で立って向き合っていることの必然的な帰結だった。
抱きしめ合うことは、自己処罰する行為であり、自己処罰することのカタルシスがある。
膣の中をペニスに引っ掻き回されているとき、ペニスばかりを感じてみずからの身体としての膣の中のむず痒さとか日ごろの鬱陶しさをすっかり忘れている。
女は、みずからの身体を処罰しようとする。処罰することのカタルシスがある。だから、しんどいお産ができるのだし、拒食症とか手首を切ることが癖になるとかも、ひとまずそういう行為なのでしょう。
そして人類史における男もまた、セックスを通じて女のそうした傾向を追跡しながら自己処罰するという人間としてのこの生の作法を覚えていった。
人間の自己処罰の衝動にはいろいろやっかいなこともはらんでいるけど、それこそが他者を生かそうとする心の動きや行為になり、人と人の関係を豊かにもしているのですよね。



身体を忘れ身体が消えてゆくことのカタルシスがある。人間はもう、生きてあることそれ自体を忘れたがっており、その心の動きや行為が生きるいとなみになっている。
日本列島の「滅びる」ということを抱きすくめてゆく美意識だって、人間の本性そのものに由来しているともいえるはずです。それによって日本人がかんたんに死んでしまうという傾向にもなってきたが、それこそが日本人の生きるいとなみやセックスの豊かさにもなってきたのですよね。
人間は、そういう生と死の危ういところに立ってこの生をいとなんでいる。
そうそう割り切って「お得な人生」だけに邁進できるような存在の仕方をしていない。
「滅んでゆく」とは、「非日常の世界に入ってゆく」ということでしょうか。身体が消えてゆくことのカタルシスとともに、そういう日本的な美意識が生まれて育ってきた。
われわれは今、「お得な人生」を生きようとする行動主義と、人間の本性をのぞいて立ち尽くしてしまう内省的な生のかたちとのあいだを揺れ動きながら生きている。
セックスは、人間の本性をのぞいて立ち尽くしてしまう行為です。人類が一年中発情していつもセックスをしている存在になったということは、そういう内省的な存在になっていったということです。極端にいえば、「お得な人生」などどうでもいい、生きにくさを生きる嘆きを他者と共有しながら他愛なくときめきあっている存在でありたい、自分が生きてあることなど忘れて他者を生かそうとする存在でありたい……まあ、そのような存在になりながら地球の隅々まで拡散していったのでしょう。
内省的な存在になることは、けっして生のいとなみが衰弱するということではない。むしろ、それによって人類はより豊かな知性や感性を獲得してきた。
内省的になるとは、身体が消えてゆくカタルシスを知る、ということです。そうやって身体の物性を忘れて身体を「空間」のように扱ってゆけば、身体はより自由でダイナミックな動きになります。
それに対して「お得な人生」に邁進してゆく行動主義は、自分の身体や生きてあることに執着している状態だから、身体が消えてゆくカタルシスはありません。そうして、他者を生かそうとする衝動も生まれてこない。他者に何かをしてもらうことばかり画策するようにもなってゆく。つまり、自分が他者に生かしてもらうということが優先される。いい人ぶっても、じつはそういうコンセプトで生きているのですよね。まあ、そんなふうに生きたければそうすればいいのだが、そこに人間的な豊かなカタルシスがあるわけではない。
だいたい、自己愛が強くて「お得な人生」に邁進できる人というのは、男と女の関係を生きるセンスがないですよね。相手をたぶらかすことは上手でも、驚くほど鈍感なところがある。男でいえば、「非日常」の世界に入ってゆく女を追跡するという感性に欠落しているし、わりと勃起不全になりやすい。
女でいえば、いつも現実的・日常的で、「非日常」の世界に入ってゆくセンスを持っていないから、男に対するセックスアピールがない。
現代社会を生きていればもう、「お得な人生」を願うのはしょうがないことでしょう。しかし人間は、それだけに邁進できるような存在の仕方をしていない。



どんなに「お得な人生」を生きましょうと大合唱する世の中であっても、日本人の心の底には、「滅びる」ということを抱きすくめてゆく無意識がはたらいている。それは、たんなる諦めとか退廃とか無気力というようなことではない。それはそれでひとつの激情であり、生きてあることに対するくるおしさの感慨なのです。
ともあれ、そうした滅びの美意識というか心の動きのタッチを持っているということは、「もう気がすんだ」という感慨を抱く体験を持っているかどうかという問題です。
「もう気がすんだ」すなわち「もう死んでもいい」という感慨、それはきっと、女のセックスの体験でもあるのでしょう。日本列島の女は、縄文時代以来ずっとそういう体験をして歴史を歩んできた。それが、日本文化の「滅びの美意識」の伝統になっている。
西洋人は抱きしめ合ってキスをして挨拶をしたり「アイ・ラブ・ユー」とささやきあったりして何かと情熱的な印象だが、セックスの快楽をどれだけ深く豊かに汲み上げているかということにおいて、日本人の女の方が劣っているともいえない。
日本人の女は、その生きてあることに対するくるおしさからセックスの快楽を汲み上げている。そうして、「ああ、もう死んでもいい」という。
べつに日本人の女だけでなく、人間そのものがほんらい、「もう死んでもいい」という地平向かって生きている存在ではないかと思えます。そういう無意識を持っているから、どんなに住みにくいところでも厭わず地球の隅々まで拡散していったのだろうし、その無意識にせかされて一年中発情している存在になっていったのかもしれない。何はともあれセックスをすれば、これで生きてあることや一日のけりがついたというような気分になるわけじゃないですか。まあ、セックスをして疲れ果てれば、男も女も眠りに落ちてゆくことがスムーズになる。
人間は、疲れ果てて「もうこれで気がすんだ(=死んでもいい)」という地平を目指している。そうやって地球の隅々まで拡散し、一年中セックスをする生き物になっていった。
たしかにより良い未来に向かって「お得な人生」を生きましょうと合唱している世の中であるのだが、それでも人間はそれだけではすまない存在の仕方をしている。
まあ、男と女の関係は、それだけではすまない。



男と女が抱き合うことは、じつは「滅び(自己消滅)」に向かってゆく衝動の上に成り立っている。人間とは、どうやらそういう存在であるらしい。それは、生きてあることのくるおしさに浸されている、ということでもあります。少なくとも日本列島の古代人は、そういうことを深く自覚していた。われわれの伝統の文化というか日本列島の男と女の関係の伝統は、そういう自覚の上に成り立っている。
抱き合うことは、相手の身体ばかり感じて、みずからの身体の消失感覚をもたらす。それが、生きてあることの「くるおしさ=嘆き」とともに存在する人間にとってのカタルシスになっている。
「お得な人生」の幸せにまどろんでいたら、もっともっとときりがなくなることはあっても、疲れ果てて「もうこれで気がすんだ」という安らかな眠り=滅びの体験はやってこない。
疲れ果てるのは、「我を忘れて」何かに夢中になって(ときめいて)いった結果として起こることでしょう。日本人は、そういう体験をしながら「滅び」の美学をつむいできた。そういう体験をしていなければ、そういう美意識は生まれてこない。
そして、誰だって、「お得な人生」を目指すことなど忘れて今ここで何かに夢中になってゆく体験を選択することはあるわけじゃないですか。それは「滅び」の地平を目指す体験です。人間というのは、もともとそういう体験を選択してしまう存在なのでしょう。
日本文化はひとまず「簡素美」がコンセプトだが、そのメンタリティは、けっしてただ穏やかで停滞しているのではない。簡素美の文化が生まれてくるような激情(くるおしさ)を持っている。



日本人は、「もう気がすんだ」というところまで行ききってしまう。おそらく縄文時代以来、そういうセックスをしてきた。
テクニックが豊かだったとか、そうい問題ではありません。ただもう、男も女もセックスのカタルシスを深く体験しながら歴史を歩んできた、ということです。
万葉集の恋は、抱き合ってセックスすることの上に成り立っていた。恋の歌は、そのままセックスの歌でもあった。彼らがセックスによって何を体験していたかといえば、ただ気持ちよかったというようなことじゃないし、セックスして絆が生まれたことに満足するというようなことでもなかった。
中臣郎女(なかとみのいらつめ)の有名な一首。
■直(ただ)に逢ひて 見てばのみこそ たまきはる 命に向かふ わが恋止(や)まめ
「直に逢ひて」とは、逢ってセックスする、ということです。「たまきはる」は、心がさっぱりすること、「もう死んでもいい」と思うこと。もう一度抱いてもらうまでは私はこの恋をあきらめません、そうしないと死んでも死にきれない、と歌っているのです。
「たまきはる命に向かふ」と詠んだということは、彼らがセックスをすることは「もう死んでもいい」と思う体験だと認識していたことを意味します。古代人は、それくらいくるおしくセックスをしていた。万葉集は、彼らがいかに濃密なセックスをしていたかということがよくわかります。
日本人の女は、セックスに対する感受性が発達している。だから外国人は、日本人のポルノビデオはいやらしくエロチックだと評価しています。べつに外国のそれよりも派手で変態的なことをしているわけでもないのですが、女のあえぎ方の深みと凄みが、外国とはぜんぜん違う。



セックスをするときの日本人の女がやたらとはにかんだりいやがったりするのは、それだけ心の底にくるおしさを持っているからでしょう。
日本人は「もう気がすんだ(死んでもいい)」というところまで行ききってしまうような生きてあることに対するくるおしい感慨を持っている。日本人の女が持っているその感慨が、日本文化をリードしてきた。
今だって、日本人の女の無意識にはそういうくるおしさがあるのだが、社会の風潮はもうすっかり「お得な人生」を生きましょうの大合唱になっており、けっきょく表面的な意識はそれに引きずられていっている。
なんのかのといっても日本人の男たちは、女が持っているそのくるおしさにたじろいでしまうわけで、金を稼いで「お得な人生」を与えてやっているだろうと安心していることはできない。それでも女たちは平気で不倫をするし、いざとなったら男を捨てて熟年離婚も厭わない。
日本人はほんらい「お得な人生」を目指す行動主義ではなく、自己処罰して今ここで滅びてゆくという内省の美意識の上にそのメンタリティが成り立っている。そしてその裏に日本的な激情が隠されている。
日本の女がどう生きればいいのかということがあれこれ語られている世の中ですが、「どう死んでゆくのか」という「滅び」の意識(消失感覚)こそがこの国の伝統であり、日本の女が隠し持っているその自己処罰の激情はそうかんたんには消えないような気がします。
それに、この消失感覚こそが人類普遍の「他者を生かそうとする」衝動になっているのではないでしょうか。自分がどう生きればいいのかということなど忘れて他者を生かそうとしてゆくことのカタルシスがある。このカタルシスが、人類の歴史をつくってきたのだと思います。
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