命をすり減らしながら進化してゆく・「漂泊論B」71


<はじめに>

御訪問、ありがとうございます。
僕は、ふつうに社会人生活をしていれば、定年を迎えてひと仕事すませた気分になれるような年まで生きてきてしまいました。それなのに、どこをどう間違ったのか、自他ともに人並みと認められるような生活とは、もう20年以上縁がありません。そのあいだ、何をしてきたのかと問われても、ひと口に答えることはできませんが、ずっと考えてきたことがひとつだけあります。それが「人間とは何か」ということです。
人間とは何か、生きてあるとはどういうことか、その根源というか普遍に迫りたい、どうしても知りたいと思ったら、現代都会人の表層的な心象だけ考察して終わりというわけにはいきません。たとえば、今のわれわれ日本人は戦前の日本人の直系のせいぜいが二代目三代目の子孫で、生き物としてはまったく同じとしか表現のしようもないでしょうが、それでも戦前の祖先の生活や心象についてはよほど想像力をたくましくして思考実験をくり返してみない限り、ほんとうのところどうだったのか、なかなか見えてきません。
で、もっともっとと根源を問うてゆくうちに、とうとう直立二足歩行の起源に辿り着いてしまいました。
このブログは、直立二足歩行の起源やネアンデルタール人にまでさかのぼったところからはじめた、いわば人類論です。2006年の12月に書きはじめ、あちこち寄り道したり脱線したりしながらも、「人間とは何か」という一貫したテーマで書き続けてきました。
お手本のテキストもなく師も同伴者もいない孤立無援の作業だし、真実を確認することのできないテーマがほとんどだから、ときには足踏みしたり虚しくなったりしてしまうこともあるけれど、どこかで誰かも同じ問いを同じように途方に暮れながら宙に向かって問い続けているのではないか、という希望も捨ててはいません。そんな誰かに是非読んでもらいたいし、できればコメントももらって語り合いたいという気持ちを抑えきれず、思い切ってブログランキングに登録しました。興味を持ってくださる方は下のマークのクリックをお願いします。そうすることで少しでも多くの人の目に触れ、できれば建設的な反論や、論理的な穴や甘さの指摘などもしていただけるようになったら、望外のよろこびです。
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<本文>

命をすり減らしながら進化してゆく・「漂泊論B」71



いまや、世界中のあちこちで女の首相や大統領が生まれてきている。女が集団運営の主導権を握るのは原始社会のかたちであり、それが人間性の普遍であるのなら、このムーブメントはさらに続いてゆくのかもしれない。
とはいえ、男みたいな女が大統領になっても現実が変わることもないだろう。
男と女は違う。
男は「寄生する性」である。
女は「寄生させる性」である。
いままでは、たとえば国家が税金を取り立てて国民に寄生してゆくかたちで成り立っていたが、これからの国家は国民に寄生させるというかたちになってゆくのだろうか。
女の本性は、男を放し飼いにすることにある。
これからの国家は、国民を放し飼いにするようになってゆくのだろうか。
いままでは国民が野垂れ死にしないようにするのが国の責任だったが、これからは心安らかに野垂れ死にができるような環境をつくってゆくことがつとめになってゆくのだろうか。
ニートやフリーターとか婚活しそこなった女とか、野垂れ死にする「おひとりさま」は避けがたく増えてゆくことだろう。
べつに野垂れ死にが悪いわけではない。溝口健二の「西鶴一代女」という映画を見てみるとよい。



原始社会の女たちは、男を放し飼いにしていた。男を放し飼いにしながら、女どうしが連携していた。その流儀が崩れて、一夫一婦制が生まれてきた。
人類の集団運営の基礎は、食料を確保することでも、ひとりひとりが生き延びることでもない。原始的な社会においては、能力のあるものは自分ひとりで生きた方がずっと効率がよかった。つまりそんなことが第一義のものであるのなら、能力のあるものほど自分ひとりで生きようとしただろう。
人間の集団運営の基礎は、子供を産み育てることにある。しかしそれは、根源的には、生き延びるためでも子孫を残すためでもない。
女は、その行為によって命を縮めるのである。それでも女は、その行為に夢中になってゆく。
人間はみな、自分は死んでゆく存在であると自覚している。みんな死んでゆくのだから、新しく子供を産み育てていかなければ集団は滅びてしまう。人間は集団の中に置かれて生きてある存在であり、集団が存在しないことには生きられない。他者を生かすためには、集団が存在しなければならない。
根源的には他者を生かそうとする衝動として集団を存続させようとし子供を産み育てているのであって、自分が生き延びるためではない。
人間が子供を産み育てるのは、自分の命をすり減らして子供という「他者」を生かす行為なのだ。
人間は、自分が生き延びようとする衝動は持っていないが、他者を生かそうとする衝動は豊かに持っている。
自分が生き延びるためなら、女は子供なんか産まない。それは命を縮める行為であり、生き延びようとする衝動なんか持っていないから子供を産むことができるし、他者を生かそうとする衝動を持っているから子供を産むことができる。
なぜ他者を生かそうとするかといえば、その行為によって命のはたらきがダイナミックに起こるからだろう。命のはたらきのダイナミズムは、命をすり減らすことなのだ。
人間は他者にときめいてゆく存在である、他者が存在しなければ、ときめくことはできない。ときめくという快楽は、命を燃焼することであり、エネルギーを消費することであり、命をすり減らすことだ。
人間は、そういう快楽にせかされて生きている。
人間にとって他者を生かすことは命をすり減らすことであり、命をすり減らすことが快楽になっている。
生き延びないことが快楽であり、生き延びないというコンセプトこそが人間の生きる行為になっている。そのようにして人間は、危機を生きようとする。危機が人間の棲み家である。
人間は危機が棲み家の存在だから、他者を生かそうとする。他者を生かそうとするかたちで人間の連携が成り立っている。



人と人は、同じ存在ではない。自分は死を受け入れて危機を生きているし、自分にとって他者は生きさせようとする対象である。この非対称性の上に人間的な連携が成り立っている。
男と女が抱き合う。そのとき男にとっての現実世界は自分の前に「女の体が存在する」ということであり、女にとっての現実世界は自分の前に「男の体が存在する」ということである。
そしてこの行為の観念的な本質は、男にとっては「抱かせてもらっている」行為であり、女にとっては「抱かせてやっている」行為である。そういうかたちで、そのとき男と女は連携している。
一緒に抱き合うことのよろこびを共有している、などという「共生」の自覚は、たんなる制度的な観念であって、自然状態における男と女の実感ではない。このような制度的価値意識に耽溺しながら男はインポになってゆく。
抱き合う行為から勃起してゆくことも快楽を汲み上げてゆくことも、じつは孤独でエゴイスティックな実存感覚の上に成り立っているのであり、その孤立感を共有しながら人と人は連携しているのだ。
男と女がセックスをして、快感を共有している、などということがあるはずがないではないか。そのとき男と女の快感は異質なのであり、女の方が何倍も深くそれを体験している。
このとき両者は、同じ現実を共有していない。その共有していないということが、人間的な連携を生む。
そして、「セックスをやらせてやる」という女の態度は、とうぜん他者を生かそうとする態度であり、そのとき男だって、女があえいでなんぼ、という気持ちでその行為に励んでいるわけで、これだって女を祀り上げようとする行為にほかならない。
また「土を掘る人とその土を運ぶ人」いうような作業は、非対称性の関係である。このとき両者の目の前の現実は、まったく別のものである。このとき土を運ぶ人は、土を掘る人を生かそうとしているのだし、土を掘る行為も、結果的に土を運ぶ行為を助けている。
人間の他者を生かそうとする心の動きは、「助けようとする」というより、他者を「祀り上げようとする」心の動きなのだ。
お母さんと小さな子が手をつないで歩いている。このときお母さんと子供の道の広さの感覚は、まるで違う。人はその感覚を、自分の身体を物差しにして紡いでいる。そのときお母さんは「狭い道だから車に気をつけないと」と思っているし、体の小さな子供にとっては広々とした道に感じている。だから、お母さんが手を引いてやらないと危ない。
人が人を介護することは、たがいに違う現実と向き合っている、というとの上に成り立っている。
それに対して人が人を支配することは、同じ現実を共有している、という意識を待たせることの上に成り立っている。
子供が駄々をこねるのは、自分の遭遇している現実がお母さんにも通じると思っているからだろう。支配者の意識だって、まあ似たようなものだ。そのようにして支配することが正当だと思っている。
人間的な連携はたがいの遭遇している現実は違うものだという「非対称性」の意識の上に成り立っているし、人間的な支配はたがいに同じ現実を共有しているという「対称性」の意識の上でなされている。
原始社会は前者の意識の上に成り立っており、現代の共同体(国家)の制度は後者の意識のもとでつくられてきた。
原始人が十把一絡げの意識で集団をいとなんでいたと思うのは早計で、われわれ現代人の方がずっと支配者によって十把一絡げにされてしまっているし、ひとりひとりも十把一絡げのつもりで支配し合ったりむやみになついていったり憎み合ったりしている。
人と人が同じ現実を共有しているなどという市民意識や共生意識は、現代社会の制度的な倒錯した観念のはたらきであって、普遍的な人間性でもなんでもない。
そういう倒錯した市民意識や共生意識でインポになったりボケ老人になったりするのだ。



男はもともと女に放し飼いにされていた存在だから、市民意識とか共生意識は女よりも薄いはずである。今でも男は、放し飼いにされていたい気持ちを持っている。それでどうして男のくせに市民意識だの共生意識だのという制度的規範を振りかざしたがるのか、まったく不思議である。
女の方が先に家を持って定住していたのだから、共同体(国家)の発生のもとになる制度的な規範意識に目覚めたのも女の方が先だったはずである。
女が主導権を持っていた原始社会が共同体(国家)に変質いったのだから、女の意識が変わっていったことが最初のきっかけになっているにちがいない。女が主導権を持っていたのだから女が変わらないかぎり変わりようがないし、社会の構造が変わったことによって男が主導権を持つようになってきたのだろう。変えたのはあくまで女であって、男ではない。
女が男を変えていった、ともいえる。
すべては、原始的な乱婚社会から一夫一婦制に変わっていったところからはじまっているのではないだろうか。
氷河期明け以降、女がそれぞれ自分の家を持ち、自分の家の中で子供を育てるようになっていった。女の家どうしがくっついているあいだは女どうしが連携して男を放し飼いにするシステムが機能していたが、やがて放し飼いをやめて、それぞれの女がひとりの男を家に引き入れるようになっていった。
男が家に入り込んで女を独占しようとしたのではない。男はもともと放し飼いにされていたい生き物なのだ。
女が引きずり込んだ。
種馬として確保しておこうとしたのだろうか。



人間以外の生き物にとって子を産み育てることは生きてあることのたんなる「なりゆき」で起こることだが、人間の女は、自覚的にそういうことをしようとする衝動を持っている。
原始時代の人間にとってそれは成功と失敗が相半ばすることで、氷河期のネアンデルタールやクロマニヨンなどは半分以上の子供が大人になる前に死んでいった。
だったら、積極的に「産みたい」という気にもなれなかったかもしれない。そのころまでは人間だってやっぱり、「なりゆき」で生まれてきてしまったらそれなりにがんばって育てる、という意識だったのかもしれない。
医療が発達した現代ならそういう目算も立つが、氷河期までは、そうかんたんに「子供を産んで育てたい」という願いを持てる環境ではなかった。そういう願いはあっても、環境が許さなかった。
たとえばお産の失敗で子供が産めない体になってしまうとか死んでしまうとか、母体そのものも安全が保証されているわけではなかった。
猿と違って脳の大きな人間の赤ん坊を産むことは、いわば命がけの行為だった。
しかし環境がよくなりお産の技術も進歩した氷河期明けのある時期から、誰もがそういう願いが持てる状況になってきた。
生き物のメスは、セックスをしたいという衝動を持っていない。それはもう、人間の女だって例外ではない。
子供を育てることのよろこびは、おそらく生き物の本能としてそなわっていることであり、人間の女はさらに深く豊かにそのよろこびを体験する。
他者を生かそうとするのは、生き物の本能である。人間の生は、その本能のダイナミズムの上に成り立っている。誰もが他者を生かそうとする衝動を持っていないと、人間なんか生きていられない存在なのだ。
人間は、根源において「生きられない」存在であり、「生きられない」状況を生きようとする衝動を持っている。
だから、氷河期の命がけのお産でもいとわなかった。
女が子供を産みたいと願うのは、セックスをしたいということとはまた別のことであり、女はセックスがしたいという衝動など持っていない。
生きられない赤ん坊を生かすことのよろこびを体験したいだけだ。
まあその体験をするための担保というか種馬として、ひとりの男を確保しておくようになっていったのだろうか。
女にとって男は、そういうことのための存在であって、根源的にはセックスがしたいわけではない。
セックスがしたいのは男の方だけなのだ。
そのとき男たちは、放し飼いにされながらできるだけたくさんの女とセックスがしたかったが、いつの間にか女のペースに引きずられていった。けっきょくセックスができるならひとりの女でもよかったということだろうか。
人類社会の「美人」というような基準も、このころから芽生えてきたのだろう。そして「恋愛」は、ひとりのパートナーを選ぶための習俗にほかならない。
それまで人類は、ひとりのパートナーに決めるということはしなかった。
ひとりに決めたのは、女の方だった。そのとき女は、子を産んで育てようとした。
それは、女にとって「生き延びる戦略」ではなかった。子を産むことは、自分の体を痛めつけることだ。古代においてもそれは、まだまだ命がけの行為ではあったはずだ。しかし人間は、そういうことをしたがる生き物なのだ。
つまり、自分は生き延びることを断念して、他者を生かそうとした。生き物はみなそういう衝動(本能)を持っている。これが、生き物の根源的な生きてあるかたちなのだ。



生き物は「生き延びる戦略」など持っていない。
すべての生き物において、この生は死んでゆくためのシステムである。
死んでゆくことが、この生のいとなみなのだ。
いままでに生まれてきた生き物は、みな死んでいるのであり、死んでゆくことがこの生をまっとうすることだ。
生き物の仕事は、生きることではない。「すでに生きてある」存在を生き物という。「すでに生きてある」のだから、今さら生きようとする衝動が発生することは原理的にあり得ない。
われわれは、死ぬまで「すでに生きてある」状態であり続けるだけである。
そして生きてあることの次の段階は、死んでゆくことである。
この生は、死んでゆく装置なのだ。
生きるという行為は、エネルギーを消費する行為である。エネルギーを消費するとは、命をすり減らすことであり、死んでゆくということ以外の何ものでもないだろう。
この生は、死んでゆくいとなみである。



生物学の一般的な常識では、「生き延びる戦略」として「子孫を残してゆく」ことが生き物の生のいとなみであるかのようにいわれている。
だが実際においては、子孫を残すことは、自分が死んでゆくことと引き換えになされる行為なのである。自分が死んで他者を生かそうとする行為だ。
人間以外の生き物は、生まれてきた子供を自分の子孫だなどとは思っていない。それはあくまで「他者」なのだ。
生き物にとって子供を育てることは、「子孫」を残す行為ではなく、「他者」を生かす行為なのだ。
僕はいま倫理を語っているのではない。純粋に生物学的にいってそうだ、と言っているのだ。
生物学において、「子孫を残す」という問題など存在しないのだ。
生きることはエネルギーを消費することであって、死んでゆくことなのだ。子供を産んで育てることは、もっとも過激にエネルギーを消費する(=死んでゆく)行為であり、そのエネルギーを消費するということによろこびがあるのだ。
生き物はエネルギーを消費しないと生きられないし、エネルギーを消費することは死んでゆくことである。



人類の歴史において、無数の犬死が堆積している。ネアンデルタールの子供たちは、半分以上が大人になる前に死んでいった。生まれてすぐに死んでゆこうと、そんなことは、生物学的にはたいした問題ではない、生物であることの証しは、「死んでゆく」ということ以外には何もないのだ。
生き物に子孫を残そうとする衝動などないし、子孫を残すことが生き物であることの証しではない。そんなことは生き物の「エネルギーを消費する=死んでゆく」行為のたんなる結果であって、生き物は意識的にも無意識的にもそんなことを目指しているのではない。
「子孫を残す」なんて、人間の勝手な制度的価値観を当てはめているだけで、そんなことは、げんみつには生物学の問題ではない。
そんな通俗的パラダイムで生物学を語ってもらっては困るのだ。
現在の生物学では、子孫を残さない働きアリも働きバチも生き物としては生まれながらの「捨て駒」だと考えられているのだとか。彼らは、滅私奉公で巣の繁栄に協力する。そうすると、結果として自分は繁殖しなくても、じぶんの妹である女王バチ(アリ)が成功することで自分と共通の遺伝子を残す確率がアップするので、自分がうまくやって子孫をたくさん残すことと結果的には同じになる。まあ、そのようなコンセプトというか動因で働きアリや働きバチに進化してきた、と説明されているらしい。
しかし生物はたぶん、子孫を残すシステムではないのだ。生物にとって子孫を残すことなどどうでもいいことだからこそ、働きアリや働きバチという進化が起きてきたのだろう。
ただもう、他の個体(他者)を生かすことはもっとも過激にエネルギーを消費することであり、その「命をすり減らす=死んでゆく」いとなみに生き物としての本能がはたらいているからだろう。
生き物は、自分が生きようとしているのではない。たがいに他の個体を生かそうとし合っているだけだ。そのときにこそもっとも過激でダイナミックなエネルギーの消費が起きる。
猿だって、基本的には、ボス以外のオスの個体は子孫を残せない。しかし猿は群れになっていないと生きられないし、群れの一員であるということ自体で他の個体を生かす存在になっているのであり、それで猿として生物学的な意味は完結しているのだ。
働きアリや働きバチのことを「子孫を残す」というパラダイムで説明しなければならないわけなどないのだ。生物学者はそうした存在を「捨て駒」というが、他の個体を生かす「捨て駒」だからこそより過激でダイナミックにエネルギーの消費がはたらき、そのようなかたちに進化していったのだろう。
働きバチや働きアリは、生物学的に例外的な存在であるのではない。それ自体でまったくもってまっとうな生物のかたちなのだ。
生物の定義は「エネルギーを消費する存在」ということにあるのであって、あまりあれこれよけいな定義付けをするべきではない。
人間の女が子供を産むことだって「捨て駒」になることであって、生物学的には「子孫を残す」行為ではない。人間社会の制度的観念的な意味において「子孫を残す」行為になっているだけのこと。
生き物がセックスをすることは、生物学的な意味においては「子孫を残す」行為ではない。生物学的な意味においてメスにはセックスをしようとする衝動はないのであり、したがって生物学的な意味においてセックスをすることは子孫を残すための行為ではない。



人間の女が子を産み育てる行為だって、根源的には子孫を残そうとする衝動がはたらいているのではなく、それがより過激でダイナミックにエネルギーを消費する行為であり、そのことにカタルシスを覚えるからだ。
生き物とは、エネルギーを消費しよう(死んでゆこう)とする存在である。
だから女は、子を産み育てることに耽溺してゆく。
人類の歴史で、女が子を産み育てることを、命がけであってもなんとか無事に果たせるようになってきたのはつい最近のことで、おそらく氷河期明けの6、7千年前くらいからのことだ。それによって一夫一婦制の男と女の関係になり、共同体(国家)が生まれてきた。
そのとき男は、女が子を産み育てるための「捨て駒」になった。放し飼いにされていたはずなのに、女の家に鎖で繋がれるようになった。
人類の「所有(私有)」という意識は、一夫一婦制が生まれたところから肥大化してきた。
私有財産の発生が、国家の発生につながっていった。
国家の発生以前の原始社会には、私有財産も階級もなかった。そして女にとっての男も、私有財産ではなく、放し飼いにされていた。
「子孫を残す」などという問題意識で生物学を語りたがるのは、「子孫」を「私有財産」のように考えているからだろう。遺伝子がつながるといっても、そんなことを生き物が意識しているはずがない。遺伝子がつながるという結果は起きるが、そんなことを目的にしているわけではない。
生き物にとって子供は、あくまで生かそうとせずにいられない「他の個体=他者」であって、「子孫」ではない。つまり、そうやって過激でダイナミックなエネルギーの消費が体験できる対象であるだけのこと。
生物学的には、生き物が生きるいとなみはエネルギーを消費する(=死んでゆく)ことであって、それ以上の意味なんか何もない。
この「エネルギーを消費する」ということを基礎にして、生物界のさまざまな現象が起きている。
原始社会の女が子を産み育てようとしたことだって、エネルギーの消費が過激でダイナミックに起こる体験を目指しただけであって、子孫を残そうとしたのではない。
だからネアンデルタールは、ひとまず乳離れして自由に歩き回れるようになればさっさと集団に渡して、すぐ次の子を産み育てる仕事に向かった。乳離れして自由に歩き回れるようになればもう、自分のものでも子孫でもなかった。
原始社会では、子を産み育てるということだって、みんなで協力してやっていた。それは、それほどに困難な事業であったし、誰も子供を「私有財産」だとも「子孫」だとも思っていなかった。
ただもう、子を産み育てることに生きてあることのカタルシスがあったからだ。
エネルギーを消費して死んでゆくということのカタルシス、これが生き物の生きるいとなみであり、進化という問題もここにおいて語られてしかるべきなのではないだろうか。
生き物が生きてあることに、「子孫を残す」という問題など存在しない。


10
氷河期が明けて、人類の女が積極的に子を産み育てるということにトライしてゆく時代になってきた。それによって人口爆発が起き、一夫一婦制が生まれ、共同体(国家)が生まれてきた。
一夫一婦制になったことによって、「私有財産」を意識するようになり、「子孫」という概念が生まれてきた。
何度もいうが、根源的には、生き物は子孫を残すために子を産み育てるということをするのではない。それがもっとも過激でダイナミックにエネルギーを消費する行為だから夢中になっているだけである。
過激でダイナミックにエネルギーが消費されてゆくことによって「進化」が起きてくる。それはもう、生物学においても人類の文化史においても同じなのだ。
人類史のメルクマールになった共同体(国家)の発生の前夜には、生き物としてのエネルギーの消費がダイナミックに起こる時代があった。
日本列島の歴史においては、それが弥生時代だった。ここでは、そのダイナミズムと天皇の発生についてについて考えている。
天皇は、あるとき支配者として登場してきたのではない。民衆の側にそういう存在を祀り上げてゆくダイナミズムがあったのだ。
それはまあ、働きバチや働きアリが、ひとつの幼虫にせっせと特殊な栄養を与えて女王バチ(アリ)に育て上げてゆくことととてもよく似ている。
天皇制の発生は、生物学的な問題なのだ。
そのとき日本人が政治意識に目覚めたのではない。
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