子孫を残す、という問題・「漂泊論B」72


生物の定義はエネルギーを消費することにある、と書いたのはまずかったのかもしれない。
すべての森羅万象はエネルギーを消費しながら成り立っている。
では「子孫を残す」ことを生き物というのか。
しかし、空気が固まって氷になり、氷が溶けて水になり、その水が蒸発してまた空気になることだって、子孫を残すことだろう。人間だって死んだら土に帰る。土は人間の子孫か。
生き物が水を飲んで、その水は生き物の体に一部になる。生き物は水の子孫か。
どうして「子孫を残す」と言わねばならないのか。
働きバチは先天的に子孫を残さない体になっている。それは、例外か?なぜ例外というのか?人間だって不妊症の女や無精子症の男はいくらでもいる。彼らは例外か。そんなことはあるまい、生き物は生き物だ。
僕は文科系の人間だから、言葉の表現にものすごく引っかかる。
なぜ「子孫を残す」というのか。そんなことはすごく傲慢な言い方だと思う。
正直に言おう。すごく不愉快なのだ。
子孫を残さない働きバチを「例外」というのは、「生き物は子孫を残す存在である」と定義しているからだろう。そういう定義を取り外せば、それは例外でもなんでもない。
「子孫を残す」という言葉など使っちゃいけないのだ。そんな言い方を平気でするから、俗物の二流の生物学者が「子孫を残す戦略」などというとんでもないことを言い出すのだ。
だったら生物学をリードする一流の研究者たちが、そういう言い方が生まれないような言葉の使い方を考えるべきだろう。
すべてはこの世界の森羅万象だし、僕自身は森羅万象なんかすべてはなりゆきで「勝手にやってくれ」という思いだが、森羅万象を研究する科学者の存在は、それはそれで尊敬もしている。
それでもなぜ「子孫を残す」と言わねばならないのかという思いは残る。
彼らが平気でそんな言い方をすることが、めぐりめぐって世の中をどれほど追いつめているかということを、彼らは自覚していない。
「子孫が残る」という問題は、エネルギーが伝達するというのか、まあそういう問題だろう。
そして僕は、ここで「エネルギーを消費する」というのは「死んでゆく」ということだと断ったはずである。
ただ、「死んでゆく」というとほんとに死んでゆくことになってしまうから、べつのいい方をするしかなかった。死んでゆくというかたちのエネルギーの消費が生きるいとなみになっている、といいたかったのだ。
僕にとっては、自分を生き物であると自覚した場合、「子孫を残す存在」ということよりも「死んでゆく存在」であるということの方が、はるかに切実で確かな問題である。
生き物が「子孫を残す存在」であると定義できるのなら、僕はもうその問題をとっくに解決している。しかし実際には、自分の中で何も解決していない。生き物であることの根源を問うなら、生き物が子孫を残す存在であるなんて、ぜんぜん思わない。子孫が残ることなんか、氷が解けて水になるようなことだ。水が蒸発して空気になるようなことだ。生き物が生き物であるゆえんがそんなところにあるなんて、ぜんぜん思わない。
とりあえず生き物が生き物であるゆえんは、「体を動かす」ということであり「死んでゆく」ことにあると考えている。生き物の体がここから別の場所に移動することは、ここから消えることであり「死んでゆく」ことだ。
「死んでゆく」機能を持っているのが生き物であるゆえんだと思っている。なぜ「死んでゆく」かといえば、より過激でダイナミックにエネルギーを消費する存在だからだろう。
床の間の壺は、ほおっておけば百万年でも存在し続ける。でも生き物は、すぐに死んでしまう。それは、とても不思議なことだ。
それはきっと、むやみにエネルギーを消費してしまう存在だからだろう。車のエンジンと一緒で、エネルギーを入れても入れても消費してしまう。
では車のエンジンと生き物とどこが違うかといえば、さしあたり、それを「自覚している」かどうかということだろうか。車のエンジンは自分でエネルギーを取り込むということはできない。でも、生き物はそれをする。木や草だってそれをする。木や草に意識があるはずもなかろうが、それでもそれは、現象的には「自覚している」ということなのだ。
その「自覚している」ということがどんどん発達して人間の「意識」になっている。
人間ほどエネルギーを取り込み消費するということを自覚している存在もないし、人間ほどむやみにエネルギーを取り込み消費する存在もないにちがいない。
たとえ木や草だろうと微生物だろうと、生き物はほかの存在よりむやみにエネルギーを消費する存在なのだ。そしてむやみに消費することがエネルギーを取り込む働きにもなっている。
生き物が生き物であるということは、避けがたく生き急いでしまう、ということだろうと思う。
それもこれも、つまるところ「死んでゆく」存在だからだろう。
そしてここではその「死んでゆく」ということを「(過激でダイナミックに)エネルギーを消費する」といってみたのだが、「自覚的にエネルギーを消費する存在」というべきだったのかもしれない。そしてこの「自覚的に」ということは、さしあたって「意識」のあるなしとは関係ないし、「自動的」といってもよいのだが、「自動的」というのもちょっと抵抗がある。僕の言葉の感覚からすると「自覚的」と言った方がしっくりする。
なぜ子孫が残ってゆくか、という問題はあるにちがいない。しかしそのことを一皮むけば、たんなるエネルギー伝達とか消費の物理学の問題であるのかもしれない。
そして生物学的に「子孫が残る」ということ一皮むけば、「死んでゆく」という問題だろうと思える。
僕の浅薄な知識では、すべては「死んでゆく」存在であるということからきているように思える。
死んでゆくから子孫を残そうとするとか、そういうことではない。「死んでゆく」という機能が、生き物が生きるいとなみの根源になっている、ということだ。
子孫を残すことなんか、たんなる物理学の問題なのだ。この世のすべての森羅万象は物理学の問題に帰せられるのかもしれない。
あえて言おう。「子孫を残す」ことなんか、生物の定義にはならない。そんなことを言っていたら、いずれ物理学に全部解決されてしまうかもしれない。進化の問題だって、僕は、根源的には物理学の問題だと思っている。
この世界には、現象的には死なないように見える微生物も存在するのかもしれない。それでもそれは、「死んでゆく」ことが生きるいとなみになっているからだろう。
僕は「死んでゆく」ということ以上の生き物の定義なんか認めない。
女王バチのフェロモンは、全部不妊のメスの働きバチにしてしまう。死ぬ直前に産み落とした未授精卵だけ、数匹のオスになる。そして働きバチは、一匹の幼虫に特殊な栄養を与えて、次の女王バチを育て上げる。
これらのことが何を意味するかといえば、「子孫を残す」ことなんか生物の定義にはならない、ということだ。最初から働きバチとして生まれてくるのでも女王バチとして生まれてくるのでもない。それらはみな、生きてある「いまここ」の現場で起こっていることだろう。
ハチからしたら、勝手に「子孫を残す」ことを生物の定義にしてくれるな、といいたいところだろう。
生き物は子を産み育てるということをするが、それは生物学的にいって「子孫を残す」という行為ではない。純粋に「いまここ」を生きるいとなみであり、すべては「死んでゆく」ことに向かって起きていることだ。
「死んでゆく」ことが生き物のいとなみだから、子孫を残さなくてもぜんぜんオーケーなのだ。働きバチの存在の仕方でも結果的に自分の子孫を繁栄させるかたちになっている、という生物学者の説明なんて、何をこじつけをいってやがる、と思う。
お姉さんの子は自分の子でもある、なんて、人間だけが考えることであって、生物学の問題ではない。
生物のいとなみは子孫を残すことではない。「いまここ」のいとなみとして子を産み育てるということをするだけだ。それは、生物学的には「死んでゆく」という行為なのだ。「子孫を残す」という行為ではない。
「子孫を残す」なんて、物理学の問題なのだ。生物学の問題ではない。
これからはもう、生き物の定義として「エネルギーを消費する」とはいわない。「死んでゆく」ということにする。僕にとってはどちらでも同じことなのだが、とにかく「死んでゆく」ということこそ生物学の問題だろうと思う。
女王蜂が生まれることだって「死んでゆく」という現象の上に起きている問題じゃないか。遺伝の問題でもなんでもないだろう。
生物の世界に遺伝という現象が起きているとしても、生物は、根源的には遺伝の上に成り立っている存在ではない。そういうことを、もともとは普通の一匹の幼虫が「女王バチ」になる、という現象が教えてくれる。それは、現在の女王バチがもうすぐ「死んでゆく」ことを察知した働きバチによって育てられる。
それは、事実として遺伝子の問題でも「子孫を残す」という問題でもない。
女王バチが女王バチを産むのではない。働きバチが女王バチに育て上げるのだ。
遺伝子の構造を調べるとか、遺伝子をどう操作するかとか、そういう問題は、将来、ぜんぶ物理学の問題になるのだろうと思う。というか、物理学者の方がずっとそれらの問題を解き明かす能力があるのだろうと思う。
生き物の生きるいとなみは、「いまここ」をけんめいに「生きる=死んでゆく」ことであって、「子孫を残す」いとなみではないのだ。そんなこと、あたりまえじゃないか。
「子孫を残す」ことなどしなくてもできなくても、生き物は生き物なのだ。
「働きバチだって結果的に自分の子孫を繁栄させている」だなんて、なにをくだらない解釈をしてやがる。生き物にとってそんなことはどうでもいいのだ。そんなことは物理学的な森羅万象の問題であって、生物学の問題ではない。
働きバチが協力連携し合うのは同じ女王バチから生まれた姉妹だから、と生物学ではいわれているのだとか。くだらない。ハチにとっては姉妹もくそもあるものか。みんなメスだということの方がずっと大きな問題なのだ。メスの本性・本能としてそういう行動習性を持っている、というだけのことだろう。生物学がそのことを問題にしないで「姉妹だから」ということで片づけているなんて、すごい怠慢だと思う。
僕なら「姉妹とは何か」ということより「メスとは何か」と問う。
姉と妹の遺伝子は同じで「隣のミヨちゃん」の遺伝子とは違う、といいたいのか。違うとすればみんな違うし、同じだといえばみんな同じ人間のメスだ。それぞれの生物学的な意味は、それぞれが一個の孤立した個体である、ということにある。
働きバチどうしだって同じさ。それぞれが一個の孤立した個体どうしとして連携協力し合っているのだ。
人間の姉妹だって、離ればなれに育てられればアカの他人だろう。姉妹だから気質が似ているといっても、もっと似ているアカの他人はいくらでもいるし、実際問題として現実の姉と妹がどれほど気性が違うかという例は、いくらでもある。姉と妹だから違ってしまったのではない。そうなるような「関係」の中で育ったからだ。アカの他人の姉どうしの方がよほど似ていたりする。
とにかく、メスどうしの連携協力する関係はどのような状況から生まれてくるのか、ということの方が僕はずっと気になる。
生き物の生は、「子孫を残す」というかたちではたらいているのではない。「いまここ」の「死んでゆく」というせっぱつまったはたらきなのだ。そういう問題意識を持っていない生物学者なんかぜんぶアウトだと思う。
しょせんは文科系の戯れ言かもしれないが、ひとまずそう言っておく。
「子孫を残す」ことが生き物であることの定義だなどといわれると、むかむかする。
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