進化について考える・「漂泊論B」73



前回の記事において僕がいいたかったことは、生き物は「死んでゆく」はたらきが生きるはたらきになっている、ということだ。
それだけがいいたかった、といってもいい。
この「死んでゆく」ということを、生物学的なパラダイムとしてもう少し考えてみることにする。
「死んでゆく」とは、物質としての身体が劣化してゆくことか。そうなったらもう、生物学というより物理学の問題だろう。
でも生き物は、体が劣化しなくても、次の瞬間に死んでしまう可能性もある。死ぬときは、あんがいかんたんに死んでしまう。
生きてあるとは、死んでいないということであり、「死んでゆく」存在である、ということだ。
体のエネルギーを消費しながらだんだん死んでゆく。しかしわれわれは、体のエネルギーを消費しながら新しくエネルギー取り込んでいる。息をするとは、まあそのようなことだ。息を吸うための体力を消費しながら息を吸っている。
ライオンがへとへとになりながらやっとシマウマを仕留めて、新しいエネルギーをとりこんでゆく。
口を動かさないと物は食えない。口を動かすことはエネルギーを消費することであり、それはすなわち「死んでゆく」行為なのだ。
生き物は、死んでゆきながら、新しいエネルギーを獲得している。
新しいエネルギーを獲得することは、「死んでゆく」行為なのだ。



僕はこのことを、言葉遊びのつもりでいっているのではない。大真面目なのだ。
原初の生命がはたらきはじめた瞬間は、「死んでゆく」というかたちではたらきはじめたのだろうと思っている。
生きようとしたのではない。原初において、そういう衝動や動きが生まれてくることは原理的にあり得ないのだ。
「死んでゆく」というかたちで体のエネルギーを消費するということが起こったのだ。そしてその消費することが、新しいエネルギーを吸収するかたちになっていった。
最初の最初は、発生した瞬間に死んでいったのだろう。そういう現象がたぶんとても長い年月続いた果てに、ようやくその「死んでゆく」はたらきが新しくエネルギーを取り込むことでもあるというかたちになってきたのではないだろうか。
幸せならうっとりまどろんでいるだけだが、「死んでゆく」ときは苦痛が発生するから、身もだえする動きが生まれる。その身もだえする動きが、新しいエネルギーを取り込むことになり、「生きる」といういとなみになっていった。
われわれの体の中では内臓やら血管などでいろんな動きが生まれている。いや、細胞のひとつひとつが活動している。
アメーバでも、体の中の動きを持っている。
この「動き」は、おそらく「死んでゆく」ときの身もだえ(もがき)として発生したのだ。
そういうかたちでしか原初の生命体に「動き」が発生する契機は考えられない。すなわち、命のはたらきの起源。
だから、生物とは「死んでゆく」存在である、と書いた。これが、僕にとっての「生物とは何か」ということの定義である。
こんなことはおそらく生物学の本にも書いていないのだろうし、たんなる文学的な表現だと受け取られそうだが、そのつもりはない。大真面目に生き物が生きてあることの本質を考えた結果としてそういいたいのだ。
つまりこのことが、われわれの体のはたらきの基礎にも心の動きの基礎にもなっているのではないだろうか。
ライオンにとって走ることは、エネルギーを無駄遣いして「死んでゆく」行為であり、そうやってシマウマをつかまえて新しくエネルギーをとりこんでいる。
生き物が生きることはエネルギーを無駄遣いして死んでゆくことであり、それによって新しいエネルギーをとりこんでいる。
生き物はそうやってむやみにエネルギーを消費しては、むやみにエネルギーをとりこんでいる。



エネルギーを消費することとエネルギーを取り込むこととどちらが先に発生したかといえば、消費することだろう。なぜなら、この世の存在は、それ自体でエネルギーを持っている。そして、すべての物質が「劣化する」というかたちでエネルギーを消費している。
エネルギーを消費することは、宇宙の自然として最初からあることだろう。
原初の生命は、その「エネルギーを消費する」ということを、自分勝手に、ただ「劣化する」ということ以上に過激でダイナミックに起こすことによって、土や石などの無機的な存在から分かたれたのではないだろうか。
そうやって「死んでゆく」というかたちで発生した。
生命になった瞬間に、死んでいった。
生き物は生き物であることの属性として、避けがたく「生き急いでしまう」存在である。
生き急いでいるとは、急いで死んでゆこうとしている、ということだ。人間なんて、どう長く生きたってたったの100年である。
ネアンデルタールの時代は、平均寿命が30数年だった。それだけむやみにエネルギーを取り込み、むやみに消費していたのだ。そうやって彼らは生き急いでいた。



生きてあることにうんざりする。死にたい、と思ってしまう。命とはもともと「死んでゆく」はたらきなのだから、そういう気持ちが起きてくるのはしょうがないことだ。
生き物に意識が発生した契機は、身体の苦痛、すなわち「死んでゆく」という現象のはたらきを苦痛として耐えがたく感じたことにあるのだろう。その「もがき」が意識になった。
意識が豊かにはたらいている生き物ほど、大げさに苦痛を感じてしまう。
意識のはたらきの基礎は「苦痛=嘆き」にある。
生き物は、その進化のどの段階で意識を持ちはじめているのか。
ミミズに意識はあるか?
ダンゴ虫に意識はあるか。
あるという人も、ないという人もいる。
では、アメーバには意識があるか。
意識そのものの定義が人さまざまでよくわからないことであるが、とにかく自分で動いているのなら、現象的にはひとまず「意識がある」といえるのかもしれない。
生き物の体が動くという現象は「死んでゆく」ときの「苦しまぎれ」として発生した。
アメーバだって、意識があろうとあるまいと「苦しまぎれ」で動いているのだ。だから、その進化のどこかの段階で「苦痛」という意識を持つようになっていった。
生き物は、「苦しまぎれ」で生きている。
原初の人類が二本の足で立ち上がったことだって、おそらく「苦しまぎれ」だった。このことはいままで何度も書いてきたからここでは省くが、それは何も道具を使おうとかの観念的な意図による行為だったのではなく、生き物として普遍的な属性の上に起きた、進化というよりはむしろ原初に遡行するような行為だった。
人間の知能がどれほど高度であろうと、人間の心は猿よりももっと原初的なのである。つまり猿よりももっと「苦しまぎれ」の習性を持っている存在であるということだ。というか、「苦しまぎれ」の習性を深く豊かに持っているから知能が発達した。
この生は「苦しまぎれ」とともに活性化する。まあ生き物は、そのように「死んでゆく」はたらきが「生きる」はたらきになっているという逆説的な存在なのだ。



この生は「死んでゆく」はたらきなのだ。
僕はまあ、それは文学でもなんでもなく生物学的にそうなのだといいたいわけで、たとえば、生き物がなぜ子を産み育てることに耽溺するかといえば、それが自分が「死んでゆく」ことを支払った行為だからであり、そういうかたちでこの生が活性化するからだ。
生物学者がこのことに興味があろうとなかろうと、生き物はなぜ子を産み育てることに耽溺するのか、という問題はあるのだ。
それは、生命の発生の問題でもある。
そして人間は、猿よりももっと深くプリミティブに生命の発生の問題を抱えている存在なのだ。
かんたんに「人間は観念的な存在である」などといってもらいたくない。
原始時代以来、人間は、子を産み育てることに耽溺して歴史を歩んできた。女にとってそれは、自分の体がぼろぼろになってしまうことを覚悟しないといけない命がけの行為だった。それでもその行為に耽溺して歴史を歩んできた。
「子孫を残す」ためではない。子を産み育てることそれ自体に耽溺していったのだ。
「子孫を残す」ためなら、たとえばネアンデルタールは、氷河期の極北の地に住み着いたりはしない。そこは、お産も子育ても、地球上でもっとも過酷な地だった。それでも彼らは、そこで子を産み育てることに耽溺していった。
何度でもいう。それは、「子孫を残す」ことを意図した行為ではなかった。ひたすらその行為そのもののダイナミズムに耽溺していったのだ。
人間は、猿よりももっとたくさんの子を産む。ネアンデルタールの女は、30数年の生涯で10人くらいの子を産んでいたといわれている。
しかもその赤ん坊は、猿の赤ん坊よりもはるかに頭が大きくて、出産には大きな苦痛がともない、女の腰の骨が変形してしまうくらいだった。女が出産で死ぬことも珍しくなく、その社会は女の人口の方がずっと少なかった。
そしてその赤ん坊は、人間だからとうぜん猿の赤ん坊よりもはるかに未熟な存在である上に氷河期の極北の地という環境のためにかんたんに死んでしまい、育て上げることは難渋を極めた。
それでも彼らは、けんめいにその行為に耽溺していった。
ただたのしいから耽溺したのではない、人間はしんどいことでも、そのしんどいということ自体に耽溺していったりする。
そういう艱難辛苦の歴史を支払って、人間は猿よりもたくさんの子を産み育てることができるようになっていった。
子を産み育てることに耽溺するのは生き物の属性であり、その点において人間は、猿よりもずっと自然で本能的な存在なのだ。
鳥が卵を温め、ヒナに餌を与えながら飛び立てるようになるまで育て上げるのは大変な仕事である。それに比べたら、猿や馬や犬猫の出産育児はしごく簡単である。
人間は、鳥のように手間暇かけて出産育児をする。



「適者生存」などという。ダーウィンの進化論もおおむねこの論理の上に成り立っているのだろうし、それはまあ生物学の常識であるのかもしれない。
しかし、人間の子を産み育てる技術が発達したのは、生きられない子を産んで、それでもけんめいに生かそうとしたからである。「適者」が生き残ってきたのではない。人間の赤ん坊は「適者」ではないのだ。
「適者」でない存在が生き残れるようになってゆくことを進化というのかもしれない。
氷河期の極北の地を生き残るためには、赤ん坊は素早く成長した方が有利である。まあネアンデルタールの子供はそういう体質だった。早く成長して、早く老化した。
しかしそのとき、どのような子供から先にそういう体質になってゆくかといえば、おそらく生きられない虚弱な子供である。
丈夫な子供は、そうあわてて成長しなくても、生き残ることができる。
つまりネアンデルタールは、そういう生きられない虚弱な子供をけんめいに生かしながら、やがて全体が早く成長する体質になっていった。生きられない虚弱な子供の、その「苦しまぎれ」にしか早く成長するという進化=変化は現れないのだ。
最初にその体質を獲得したのは、「不適合者」だった。ここが問題だ。
「適者」が獲得するはずがないのだ。
インコのくちばしが硬く大きくなっていったことだって、おそらくうまく木の実を砕けない「不適合者」のインコから先に硬く大きくなっていったのだろう。
「不適合者」が生き残ることによって進化が起きる。「不適合者」にしか進化=変化は起きない。
「適者」は進化=変化しなくても生き残れる。「適者」しか生きられないような状況では、種の進化は起きない。
僕は長いあいだ、この「適者生存」という言葉がどうもなじめなかった。
適者が選別されて生き残り、進化が起きてくるなんて、そんなことはあり得ないのだ。
進化は、弱者が「苦しまぎれ」になってもがくところからしか生まれてこない。
「苦しまぎれ」でもがいているのは、いつだって「不適合者」である。「不適合者」が生きられる環境で、進化が起きてきたのだ。
「適者」だけが選別されて生き残ってゆく社会では、環境が悪化しても、進化することなくそのまま個体数が減ってゆき、あとは滅びるだけなのである。適合できないで必死にもがいている個体を生き残らせてやらないと進化は起きない。
ネアンデルタールは、そうやってけんめいに子を産み育てることに耽溺してゆくことによって、ときに「不適合者」の弱い赤ん坊でも生き残り、あるときそんな赤ん坊の「苦しまぎれ」が早く成長する体質を獲得し、ついにはネアンデルタール全体が早く成長する体質になっていった。
最後にすべてのインコのくちばしが大きくなってしまったのは、「適者生存」ではなく、おそらく、最初にくちばしが大きくなってしまった「不適合者」の個体ともとのままの「適者」の個体とどちらの遺伝力が強かったか、という問題だろうか。まあそれによって、「適者」でしかもくちばしが大きいという個体が生まれてきたことだろう。しかしそれでも、さらに大きくなってゆくためには、やはりその中「不適合者」による「苦しまぎれ」の進化=変化がなければ起きてこない。
「適者生存」によっては進化は起きないのだ。
いちばん弱い個体の身体が変化して、その身体が遺伝によって広がってゆく。そしてさらに環境が悪化すれば、不適合者の中からさらにくちばしの大きな個体があらわれてくる。その繰り返しで、どんどんくちばしが大きく硬くなっていったのだろう。
「適者生存」によってではない。
適合できない弱い個体でなければ、体が変化することはない。
生き物が最初に雌雄に別れたのも、おそらく適合できない弱い個体どうしの「苦しまぎれ」の結果なのだろうから、それが生き物の進化の法則なのではないだろうか。
そして、生き物の歴史になぜこのようなことが起きてきたかといえば、もともと生き物の生は「死んでゆく」というコンセプトの上に成り立っているために「苦しまぎれ」に過激でダイナミックな活性化が起きることと、そして子を産み育てることに耽溺して「不適合者」の個体を生かしてしまう存在だったからだろう。
生き物が子を産み育てることに耽溺する存在であることを甘く見てはいけない。この習性がなかったらインコのくちばしは大きくならなかったのだ。



働きアリにだって、虚弱なアリもいればなまけもののアリもいる。彼らが、何10匹かで一緒に1枚の大きな葉っぱを運んでいるとする。そういう連携協力することは遺伝子の情報として組み込まれていることか。
しかし、何はともあれ、遠い昔のあるときに現場の「なりゆき」として、虚弱なアリどうしが連携協力することを覚えていったからだろう。最初に遺伝子の情報があったのではない。現場の「なりゆき」があっただけだ。
そしてすべては、さらにその昔、不完全な個体どうしが雌雄になって生命を紡ぎはじめたことにある。
起源においては、遺伝子が連携させたのではない。虚弱な「死んでゆく」個体だったことがそうさせたのだ。
そういう遺伝子情報があるといってしまえばかんたんだが、生き物が「死んでゆく」存在であるということから、現場の「なりゆき」として引き継がれていることがある。それを、われわれは「歴史」と呼んでいる。
遺伝子の情報なんかなくても、生き物としての現場の「なりゆき」で当然そうなってゆくという「歴史の流れ」がある。
遺伝子が引き継がれるというよりも、生きてある「いまここ」の現場の「なりゆき」が引き継がれてゆくという仕組みがきっとある。
われわれ日本人が共有しているのは、「日本人の遺伝子」ではなく「日本人の歴史」なのだ。
それが科学的に間違っていようといまいと、あえていおう、「日本人の遺伝子」などというものはない、「日本人の歴史」があるだけだ
鳥がヒナに餌を与えることは、鳥の遺伝子というだけでなく「鳥の歴史」がある。鳥が背負っている「鳥の歴史」がある。「いまここ」の現場の「なりゆき」というものがある。それについて考えたい。
とはいえここでいう「死んでゆく」というタームは、文学表現のつもりはさらさらない。生物学的な、生き物とは何か、という問題なのだ。
生き物の生は、「死んでゆく」存在であるということの上に成り立っている。
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