ややこしい・ここだけの女性論24


人間は観念でセックスをする存在である、といった心理学者がいます。
何をくだらないことをいってるんだか。
しかし、こういう考え方は、現代社会そのものの病理でもあるのですよね。
いい女になればいい男をつかまえることができる。いい男をつかまえるための方法があり、それを磨けばつかまえられる……そんなふうに考えるのも、まあ観念で生きて観念で恋愛していることであり、現代人は、それが人間の人間たるゆえんだというか、人間とはそういう存在だと思っている。
それが当たり前であり、それが正義だと思っている。
よく考えたら、怖いし気味悪いことです。
どうして男と女が無邪気にときめき合い、無邪気に勃起して無邪気にセックスすることができないのでしょう。少なくとも原始人は、そうやってセックスをしていたはずです。
その心理学者がいうように「観念でセックスをしていた」はずがない。そんなものは、ただの文明病です。そんなことを人間の本質であるかのように語るなんて、ほんとに脳みそが薄っぺらです。
いい女になる方法やいい男をつかまえる方法なんか磨かなくても、豊かに人にときめいてゆく心があれば、その人の人生はその人の環境で成り立ってゆくでしょう。
他愛なく勃起できれば、観念なんかなくてもいいのです。人間は、猿よりも他愛なく勃起してしまう生き物なのです。



われわれは、現代人の男と女の関係を基準にして古代人や原始人の男と女の関係は未熟・未発達であったかのように考えがちです。ほんとに現代人の男と女の関係は高度で普遍的本質的だといえるでしょうか。
現代の男と女の関係なんて、本質から離れてぐちゃぐちゃになっているだけかもしれない。
現代人がSMなどの変態的なセックスをすることを例に挙げて「人間は本質において観念でセックスをする存在である」などといわれています。
そんなことをいったって性器と性器をくっつけることなんか生き物そのもの行為であり、そこに生き物としての衝動がはたらいていないとはいえないでしょう。
SMというのは、観念を壊して生き物に戻ろうとするプレイです。ふだんからこの社会の制度性や人間関係に抑圧を感じている人は、サディストになってその抑圧から解放され、はじめて「オス」になることができる。政治家とか会社の重役のように人を支配することのストレスがたまっている人は、逆にマゾヒストになってストレスから解放される。どちらだって、生き物に戻ろうとする行為であって、観念そのもので勃起できるわけではない。いったん観念を壊さないと勃起できないのです。



支配であれ被支配の抑圧であれ、制度的な観念世界を生きていると、だんだん勃起できなくなってくる。
人間は猿と違って一年中発情している生き物であり、猿よりももっと根源的な生き物のかたちに戻ろうとする衝動を持った存在なのです。そういう衝動によって、一年中発情している生き物になった。
しかし現代は、男と女の関係も人と人の関係も制度性という観念に侵食されて、人としての自然な状態では機能しなくなってしまっている。
普通にただ抱き合って勃起してセックスできるのが、人間性の本質でしょう。べつに変態セックスに人間の本質があるのではない。原初の人類が一年中発情している存在になったのは、観念を獲得したからではなく、猿よりももっと他愛なく勃起してしまうようになったからです。
古代の日本列島の男と女のあいだには、男が他愛なく勃起してしまう関係性があったのです。その関係性は、現代よりも未熟未発達だったのではなく、より純粋で本質的だっただけのことでしょう。
変態行為に走る大人のセックスのほうが他愛なく勃起してしまう若者のセックスよりも本質的だとか人間的だともいえないでしょう。
人間は、猿よりももっと他愛なく勃起してしまう生き物なのです。古代社会には、そういう関係性が生まれる構造があった。
古代人の男と女の関係性のほうが、より純粋で本質的で人間的だったのです。
それは、けっして未熟未発達だったのではない。古代人だって、その時点で人類史700万年の男と女の関係の歴史を背負っていたのです。未熟未発達だったはずがない。



人類の男と女の関係の歴史は、生きてあることの「嘆き」とそれを忘れてしまう「非日常」の世界を共有してゆくことにあった。おそらく、原始人だってそうだったのです。それが、人間という生き物の本質的な生態なのです。
その作法において、古代は、人類史の頂点に達していたともいえる。まあ、人類史700万年の洗練があったのです。
古代人は、他愛なく勃起してしまっていた。それは、そうなるような洗練された社会の構造があったからです。
人と人が他愛なくときめきあうことは人類の起源であり、究極でもあるのでしょう。
多くの現代人が勃起の不調に悩まされている社会に、男と女の関係の本質や高度な洗練があるわけでもないでしょう。
男なら、他愛なく勃起したいでしょう。若者はたいてい他愛なく勃起している。そうして社会の制度性(=観念)に染まってゆくにつれて勃起が不調になってくる。
社会の制度性の中での人と人の関係がなんであれ、それをそのまま男と女の関係に当てはめてしまうことはできない。
男の勃起は、「非日常」の世界にはいってゆく体験です。人間は、「非日常」の世界に入ってゆきやすいような、生きてあること(=日常)に対する「嘆き」を抱えた存在です。知らず知らず、気付いたら入ってしまっている。この心模様の上に、原初以来の人間の生態が成り立っている。
我を忘れて何かに夢中になってゆくのは、「我=日常」を忘れて「非日常」の世界に入ってゆく体験です。「やりがいのある仕事を見つける」などというが、それだって、社会的に有意義かどうかということ以前に、人間は「夢中になる=非日常の世界に入ってゆく」体験を必要としている存在だからでしょう。夢中になれるのなら、社会の役に立とうと立つまいと、どうでもいい。
われわれの恋愛やセックスが、社会の役に立っているはずもないが、人間はどうしても夢中になれることを必要としている。「生きてあること=日常」を嘆いている存在だからです。そして他愛なく「非日常」の世界に入ってしまう体験を文化として持っている存在です。その「嘆き」と「他愛なさ」にこそ、人間性があるのではないでしょうか。



古代の女たちは、男が他愛なくときめき勃起してしまうような「非日常」の感性と気配を豊かに持っていた。
彼女らは、生きてあることにも女であることにも嘆いている存在だった。男たちは、その気配を追いかけた。
女は、「嘆き」を引き受け、そこから「非日常」の世界に入ってゆく。
女の愚痴を聞くことはそれなりにしんどく鬱陶しいことだが、女はもう本能的に「嘆き」を引き受けてしまう。セックスにせよ子を産むことにせよ、「嘆き」を引き受けながら「非日常」の世界に入ってゆく体験なのでしょう。
女にとって「嘆き」を引き受けることは、ひとつの自己処罰です。
しかし男だって女の自己処罰から学んでみずからにも課しながら人類の歴史をつくってきた。



縄文時代の多くの人々は、山の中で暮らしていた。男たちの多くは山道を旅しながら女の集落を訪ね歩くという生活をしていたわけだが、女たちはそれに合わせて山の中に小集落をつくっていった。女たちがみな下の平地で暮らしていれば、男たちはそこまで下りていったことでしょうが、女たちははもう、とても住みにくいはずの山の中にあえて住み着いていったのです。そうやってすみにくさの「嘆き」を引き受けながら、旅する男たちとの出会いの「非日常」の体験にときめいていった。
男たちは、山の中に集落をつくってくれる女たちに頭が上がらなかっただろうし、とても大事にもしたのでしょう。
たとえば、10人の男たちが10人の女が住んでいる集落に訪ねていったとしましょう。まあ、そんな小さな集落ばかりだったのです。その10人の中には、若い女もいれば、若くない女もいる。美人もいれば、そうでない女もいる。しかし男たちは、若い女や美人を取り合いするということはしなかった。なぜならみんな旅に疲れ果てていたから、女なら誰でもよかったし、あるていど歳を取った女はきめ細かなもてなしをしてくれるから、かえってそちらのほうがよかったということもあったのでしょう。むしろ若くない女のほうに人気があったのかもしれない。
若い女の取り合いをして歳を取った女をないがしろにするというような、そんな失礼なことはしなかった。そんなことをしていたら続くはずがない。今どきの、カップルになるのは1割くらいという合コンとはちょっと違う。
何しろこの習俗は1万年続いたのですからね。そのあいだに洗練していった男と女の関係性はあったはずで、この関係性がその後の日本列島の歴史における男と女の関係性の基礎になっているのでしょう。
たぶん、きめ細かなおもてなしができる女のほうに人気があったのでしょう。だから、そのあとの弥生時代の男と女は、ほとんどが姉さん女房の関係だったといわれています。
そりゃまあ美人もいいことはいいが、日本列島の男は、女の非日常の感性や気配に対する関心がとても強いという伝統がある。
逆にいえば、日常性=社会性の強い女を前にすると、たとえ美人でも何か辟易するところがある。だから、現在のキャリアウーマンをはじめとする「いい女」が、本人たちがアピールするほどには男の性衝動や結婚相手の対象になっていないのですよね。
おそらく縄文時代の男たちは、女の顔かたちにはあまりこだわらなかった。それよりも、女のセンスを見ていた。つまり「非日常的な感性や気配」、そしてこのセンスは、山の中で暮らしている女たちほど洗練していた。客や男に対するもてなしの作法はもちろんのこと、縄文時代は、土器作りをはじめとして山間地の文化のほうがレベルが高かった。漆の精製や稲作だって、山間地からはじまっている。
その暮らしにくさが、美という非日常の世界に対するセンスを育てていった。山の中は、非日常の空間ですからね。
縄文時代は、男も女も生きてあることの嘆きを共有している社会だったのであり、誰もが「非日常的な気配や感性」に対する関心を深く抱いていた。
飛鳥美人」とか「平安美人」などといって、何か歴史を通じて顔かたちの美人が男の関心の中心であったかのように解釈されがちだが、日本列島の文化風土においての女の美しさの第一は、あくまで「非日常的な感性や気配」にあったのです。それは、顔かたちの美人か否かにしか関心がないのよりずっと高度で洗練された美意識であるはずです。
源氏物語」だって、顔かたちの美女を描いた話のように受け取られがちだが、そうではなく、女の「非日常的な感性や気配」の美しさを描いているのです。それが、日本列島の「美しい女」のイメージの伝統です。



『女性の品格』とか『おひとりさまの老後』という「いい女」になるための指南書はあくまで現実=日常の「いい女」路線の話であって、そこに「非日常的な感性や気配」に対する美意識があるとは思えない。あんなふうに「いい女」であることを見せびらかされても、男たちの心は動かない。ひとまず「私はいい女である」という自己満足が得られるだけでしょう。
その、自己満足さえ得られればいい、というタイプの女が増えてきているのかどうか。まあ戦後世代である現在の大人の女たちに多いという傾向はあるのでしょう。
自己満足こそ、この社会(=日常)に居座るための基本であり、自己満足を追求してきたのが戦後社会の歩みだったともいえる。
今どきのインテリ女が書く女性論なんてそのていどのもので、自己満足を追求してしまったら、女としてはもう魅力的じゃない。
それでもこの世の中には、存在そのものにおいて輝いている女はいるし、それは必ずしも顔かたちの問題じゃない。
もちろん、性格とか品格などという問題でもない。
女であるがゆえの「悪意」や「幻滅」や「怠惰」を持っていたっていいのです。「いい女」
になろうとがんばったりアピールしようとする勤勉さのほうが、よほど男を辟易させます。
女は自分を処罰して生きている存在であり、そこから女ならではの「非日常的な感性や気配」が生まれ育ってくるし、そうした資質はすべての女が持っているはずです。それはもう、すべての女から感じることができる。それが洗練されてい
るかどうかということはともかくとして。
男なんて、他愛なく女に引き寄せられてしまう生き物です。女が女であることそれ自体に引き寄せられてしまうのです。
そうやって他愛なく勃起してしまうのが人類史の伝統です。
古代の女たちは、女であることの属性を、洗練されたかたちでそなえていた。だから、男たちは、他愛なく引き寄せられ他愛なく勃起していった。なぜ他愛なく引き寄せられていったかといえば、
その「女であることの属性」は「人間であることの属性」でもあったからです。彼らはあっさりとセックスの関係になっていったが、それはもう、男と女の関係以上に人と人の関係であったのです。人と人の関係にならなければ、男と女の関係にもなれない、というか。
つまり、たがいに人間であることの嘆きを共有しながら原初のオスとメスの関係に遡行してゆく、ということでしょうか。そうやって男たちは、他愛なく勃起していった。
日本人の男の勃起したペニスは硬い、とよくいわれるのだけれど、それはきっと、日本文化の伝統が原初のオスとメスの関係に遡行してゆくタッチを持っていて、歴史的にそういうトレーニングを積んできているのでしょう。
まあ、戦後社会になって、女の非日常性も男の他愛ない勃起力も一気に崩れかけてきているが。
雌雄の生き物の世界では、ほとんどはオスがメスに寄ってゆくという関係の上に成り立っています。
メスも寄っていったら、オスが寄ってゆくという生態があいまいになってしまうし、メスの吸引力も希薄になってゆく。オスの寄ってゆこうとする生態は、メスの吸引力の上に成り立っている。そういう関係がなければ男のペニスはちゃんと勃起しないのです。
現代社会では「いい女」は増えたが、女としての男を引き寄せる力は減衰しているのではないかと思えます。若者の世界のことはよく知らないが、大人の男女の世界ではそのような傾向があり、それが「戦後」という時代だったのです。
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