不倫の風景・ここだけの女性論23


セックスのときの男は、女のあとを追跡している。
いちおう男は、女をよろこばせもだえさせるのが男のセックスの甲斐性だと思っているのだが、それ自体女のあとを追いかけている証拠なのですよね。そうやって女を支配しているつもりでも、ほんとうは女のあとから女を追いかけているにすぎない。
そして女は、男の愛撫に反応しているだけのようでいて、けっきょく最後は男を置き去りにしてどこかに行ってしまう。オルガスムスとともに消えていってしまう、というのか。
フェミニストの女性たちは、「世の中の男たちは女は女らしくということを押し付けてくる」というのだが、男としては女が魅力的でないのなら生きる甲斐もなくなるのだから、そりゃあ「魅力的であってくれ」と願いますよ。そういう愚かな男の振る舞いも、それはそれで男がどれほど切実に女のあとを追いかけているかということのあらわれでもあるのですよね。この国の歴史的な意識というか伝統的な文化のかたちとして、女から置き去りにされながら「待ってくれー」と叫んでいるだけだ、という部分もあるわけです。
日本列島の文化風土は、そうやって男が女のあとを追うようにしてつくられてきたのだと思います。
「女は女らしく」といっても、フェミニストの女たちがいうほどかんたんな問題ではない。彼女らは、自分たちの都合のいいように勝手にそう解釈しているだけです。
日本列島の男たちは、女を支配しようとしているようでいて、必ずしもそうともいえない。どこかしらで「女から置き去りにされている」という気分を共有している。
この国の歴史においては、男も女もたがいに相手を所有し合っていなかった。それはきっと、人類の文明史においてはかなり異例のことのはずです。
その一因として、日本列島では共同体(国家)の発生が大陸よりも数千年遅れ、まだ1500年しか経っていないということがあります。そのあいだずっと原始的な乱婚社会を続けてきた。
乱婚とは、男と女が相手を所有し合わない、ということです。
それに対して世界の文明圏では、すでに5000年以上前から、男が女を所有する一夫多妻制か、おたがいに所有し合う一夫一婦制かの制度がつくられています。
アラブでは一夫多妻制、ヨーロッパでは一夫一婦制ということでしょうか。
とにかく「所有する」という関係になると、おたがいがくっついてしまいます。
しかし日本列島ではどちらも所有しない離れた関係でセックスしてきた。そうして、男が女のあとを追跡するという関係になっていった。
「女三界に家なし」とはつまり、男が女を所有することを断念している、ということでもあります。日本列島の文化は、そういう原始時代の痕跡を色濃く残している。



日本列島で一夫一婦制が定着してきたのは、平安時代以降のことです。これによって社会的にはおたがいが相手を所有し合うという関係にもなってきたが、それでも原始的な乱婚の関係性が残っていて、裸になればもう「相手を所有することなんかできない」というセックスをしてきた。だから「女三界に家なし」という。
日本列島で最初に男に対する「所有」の意識を表現した文学は何かといえば「蜻蛉日記」でしょう。亭主は私のものなのになかなか寄り付かなくて淋しいとか悔しいと嘆いている書きざまで、西洋的であると同時に現代的でもある女の意識なのでしょう。あるていど生活が満ち足りた階層の女が、このような傾向になりがちです。蜻蛉日記の作者である藤原道綱の母は、貴族階級の奥さんですからね。
源頼朝の妻である北条政子も、亭主を自分だけのものしようとむきになっている女だった。
べつに女がほかの男のところに行ってしまうというのでなくても、女が「非日常」の世界に入っていってしまうという心配がなければ男は追いかけようとしなくなる。
だから、亭主が寄ってこないとやきもきすればするほど夫婦の関係は不調になってゆく。
「亭主元気で留守がいい」とはよくいったものです。日本列島では、所有し合わないのが原則です。
そういう絆の淡さの中で男と女がセックスしている。
西洋では、おたがいが所有し合ってしまう。そうなると、絆の淡さを飛び越えてときめいてゆくとか追跡するという関係性が薄れてくる。安定しているが、ときめき合っていない。まあ、だからこそときめきの表現としての「アイ・ラブ・ユー」をつねに交し合うという習慣を持たねばならなくなる。彼らは安定が基本になって所有意識が強いから、浮気をされることに耐えられない。西洋の男なんかもう、女房に浮気をされると、ものすごく傷ついてしまうらしい。これは、蜻蛉日記の作者や北条政子と同じ心理なのでしょう。そして、現在のこの国の裕福の家の奥様方にも多くいるはずです。
アラブには妻が浮気しないための強い制度(そんなことをしたら殺されてしまう)があるが、男の女に対するときめきは薄い。そして女は、自分を庇護してくれる男の所有になり、セックスをやらせる。男の日常の一部になる。アラブの女には、男を置き去りにしてしまう非日常の世界はない。



なんのかのといっても、日本列島の男女は、相手を所有しているという意識が希薄なところが伝統です。社会的に所有し合っても、男と女としては所有し合っていない。だから、人妻の不倫が流行ったりする。外でセックスしても、社会的な妻や母の役割をちゃんとしていればそれでいい、という気分になれる。パートづとめをして家計を助ければ、不倫をしてもいいという大義名分を得たも一緒なのでしょうね。
日本人の女は、男を所有していない代わりに男からも所有されていない。そういうことが、人妻の不倫の流行になってあらわれている。
そして、所有の関係がないということは、女は自分の意志で男にやらせてあげるということもしない、ということです。西洋の女なら男を所有しているのだからそういう関係も成り立つが、自分の所有ではない男に自分の意志でやらせてあげるということは成り立たない。
鳥にしても他の哺乳類にしても、基本的にメスは、オスが寄ってくるからしょうがなくやらせているだけです。日本人の女も、これと同じです。セックスの関係になるときによく、男が寄ってきて逃げられないなりゆきだったからやらせてあげた、という自分に対する言い訳を持とうとします。男を所有していないから、そういうかたちでしかセックスの関係が成り立たないのです。
だからそんなときの日本人の男は、自分が寄ってゆくという態度をとるのがエチケットになる。不倫がばれても、「女が寄ってきたから」などという言い訳はけっしてしてはならない。
今どきの不倫の人妻だって、ほとんどが「男が寄ってきたから」という言い訳を持っているはずです。
そして日本列島の女は、男に所有されていないからこそ男を引き寄せる存在になりえている、ということになります。



おたがいに所有し合っているのなら、どちらも自分から寄ってゆく契機を持っているが、どちらも相手を所有していないのなら、男が寄ってゆく関係しか成り立たないのです。所有していないからこそ男は熱く寄ってゆくし、女は男を所有していないから自分から寄ってゆく契機を持たない。
日本列島の人妻は平気で不倫をするといっても、男が寄ってゆくからいけないのです。引き寄せられてしまうからいけないのです。日本列島の女は、基本的には男に寄ってこられたら拒めない存在の仕方をしているし、基本的には男に寄ってゆけない存在の仕方をしているのです。そのはずなのです。
「なりゆき」にしたがうのが、日本列島の作法です。
おたがいに相手を所有しないで、その場の「なりゆき」にしたがう。ひとまず、そういう文化風土になっているのです。
その場の「なりゆき」で男は引き寄せられてしまうし、女は拒まないで「なりゆき」にしたがう。まあこれが、原始時代以来の人間の自然です。
おたがいに相手を所有しない社会では、自分の意志とか自己責任などというものは存在しない。男と女の関係だけでなく、日本列島ではもう、社会の構造そのものがそのようになっている。誰もが「なりゆき」だったといい、誰も責任をとろうとしない。汚職だろうと人妻の不倫だろうと同じことです。日本列島の男と女はそういうセックスの仕方をしてきたのであり、良くも悪くも日本文化はそういう構造になっています。
べつにセックスの仕方が日本文化を決定してきたというのではなく、セックスの仕方もまた日本文化そのもののかたちを持っている、ということです。



ここでいう「所有」とはつまり、「支配」と言い換えてもいいです。
現在のこの国の社会は、人と人の関係に対する意識が、世界基準の「所有(=支配)し合う」作法と日本列島の伝統の「所有(=支配)し合わない」作法がごっちゃになってしまっているのだと思えます。それを上手に使い分けている人もいれば、混乱してしまっている人もいる。そしてどちらかに傾きすぎると生きにくくなってしまう、ということでしょうか。
相手を所有(=支配)しようとしすぎる人は嫌われるし、所有(=支配)し合わない作法しか持っていないと無能だとかだらしないということになってしまう。
戦後社会は世界基準に従いながら動いてきたのだけれど、それでも日本列島の伝統が消えてしまったわけではない。世界基準と日本列島の伝統があまりにも違いすぎる。ときには逆立してしまっている。そのことの混乱や生きにくさがいろんなところに出てきているのでしょう。
人類は、文明発祥とともに「所有(=支配)」という関係を覚えていった。しかし日本列島では、そういうこととは無縁のきわめて原始的な人と人の関係の文化を伝統風土として持ってしまっている。
まあ日本列島の男と女の関係の文化は、きわめて原始的であると同時に、長く続けてきたからそれなりに洗練されてもいるのですよね。
男と女がたがいに相手を「所有(=支配)し合わない」という関係の文化風土がある。そして戦後社会においては、所有(=支配)し合おうとする関係の意識が肥大化してきた。ひとまずそれが世界基準だからそれが正義になってゆくのだけれど、それでもそれだけではすまない文化風土の伝統がこの国はある。
奥様が亭主や子供を所有(=支配)しようとする意識を膨らませて家族主義を振り回したり、キャリアウーマンが男を所有(支配)しようとして「いい女」であることを見せびらかしたりしても、この国では、かえって男と女の関係や人と人の関係は衰弱してゆくだけだったりする。
そりゃあ今だってどこかに、たがいに相手を所有(=支配)しようとしない自然な男と女の関係や人と人の関係はあるし、日本人なら誰の心の中にもそういう意識が流れているのだろうと思います。
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