ありえない・ここだけの女性論22


たとえフーゾク嬢が相手であろうと、日本人のセックスはすべてが「情交」であって、たんなる「性交」ではない。
心が通い合っているというのではないが、たがいに非社会的で非日常的な気分になっている。「憂き世」という気分を共有している。
おたがいが非日常の場に立っているから、心と心の距離はむしろ遠い。その遠さを感じながら抱き合っていることの困惑とか羞恥とかなやましさのようなものがある。とにかく、セックスをするということに対する非日常的な感慨がある。日常の連続ではないことをやっているという感慨がある。
日本の女には、何かその気配に非日常性が色濃く漂っている。
最近の女子高生などは、友達どうしで話をしながら道を歩いているときはもう、まわりの世界なんかいっさい関心がないらしい。これはまあ、世界共通の思春期の娘の傾向かもしれないけど、この国のコギャルはとくにそうでしょう。この非日常性。
電車の中で化粧をすることにしても、そりゃあ無作法といえば無作法かもしれないけど、非日常の世界に入り込んでしまえるからできることでしょう。
この国には、女が非日常の世界に入り込んでしまう伝統がある。そこから男を見つめることのときめきやはにかみやなやましさがあるのだろうし、その気配が男を欲情させる。
好きな男と一緒に歩いたり話したりしているときの娘の表情には、何かそういう非日常的な心のゆらめきが漂っている。好きな男でなくてもそういう気配を漂わせていることもあるから、男はつい誤解してしまう。演技であからさまにそういうふりをする娘もいるのだろうが、何か天然自然にそういう気配を漂わせている娘がいる。



セックスが非日常の世界に入り込んでゆくいとなみでないのなら、する甲斐もない。
日本列島の女はことにそういう気配を濃密に漂わせているから男のペニスも勢いよく勃起する、という伝統になっている。そしてそれは、日本列島の文化そのものが女にリードされてつくられてきたということを意味するはずです。
まあ「勃起」などという現象は、哲学でいうところの「命がけの飛躍(パラドキシカル・ジャンプ)」であり、非日常というその断絶した世界に飛び込んでゆくことによって起きている。そのとき、起きるはずがないことが起きているのです。言い換えれば、それほどに危ういことだから、ひとつ間違うと若い男でも何かのはずみでとたんに勃起できなくなったり、中年以降の勃起不全症候群ということにもなったりするのでしょう。
「非日常」の世界は、この「日常」とはまったく別の世界のことです。電車の中で化粧をしながらまわりの乗客のことなどまったく気にならないというのはありえないことだけれど、ギャルたちはもう、その「ありえない」世界に入り込んでしまっているのですね。
良くも悪くも、この「ありえない非日常の世界」に対する視線を持っていることが日本列島のメンタリティの風土なのでしょう。
いや、このような「他界・異界」に対する視線は人類普遍のもので、原始人はみなその視線で生きていたはずだが、文明発祥以降の共同体の制度はこの視線をさえぎるようにしてつくられてきたのですね。そうして、この「他界・異界」が日常の無限遠点にあるかのように修正されていった。そうやって神とか霊魂とか死後の世界などという概念が生まれてきた。
でも日本人は、基本的に神や霊魂や死後の世界を知らない民族なのですね。その代わり「非日常」の「他界・異界」に対する原始的な視線を濃密に持っている。それがすなわち、ギャルによる電車の中で化粧をするメンタリティになっている。



西洋の人々は、日常の延長としての無限遠点をイメージしながら神や霊魂や天国や死後の世界は「ありうる」ことだなあ、と思う。
でも日本人は、いきなり「今ここ」の「非日常=他界・異界」に入り込んで、「ありえない」というそのことに魅せられてゆく。
日本人は、神や霊魂を「ありうる」こととして信じているのではない、「ありえない」こととしておもしろがりありがたがっている。
「ありえない」というそのことが日本人を魅了する。
日本人の男からしたら、女の裸なんて、おっぱいのふくらみも腰のまるみも「ありえない」かたちです。その「ありえなさ」にときめき勃起している。
日本人はそうやって「ありえない」ことに魅せられてしまうから、「ありえない」はずの他愛ない都市伝説があっという間に広がってしまったりもする。
たとえば古事記に出てくる神々なんて、「ありえない」キャラクターばかりです。だから、当時の人々がそれを信じていなかったかというとそうではなく、その「ありえなさ」に思い切り魅せられ信じていったのですね。
日本人はもう、そんなことばかりして歴史を歩んできた。
外来文化だって、「ありえない」ことだからこそ、おもしろがってかんたんに飛びついてゆく。
「ありえない」ことと遭遇する体験を「発見」というのでしょう。それが世界共通の普遍的な学問や芸術のかたちであり、この体験によって人類の知性や感性が発達してきた。
学問や芸術は、本質的に非日常的なものなのでしょうね。
その非日常の「ありえなさ」に日本人は魅せられてゆく。しかし、だからこそ「ありえる」存在の国家などというものには無関心で、ただもう「憂き世」と嘆きながらやすやすと支配され続けてきた。
能には、この世に未練や恨みを残した亡霊や悪霊の話がよく出てきます。それが能の主題であるともいえる。ではこれらのものを人々が信じていたかといえば、それらはすべて「ありえない」ものであり、「ありえない」ものだからこそ深く魅せられていった。彼らはきっと、幽霊を見るという体験をしたでしょう。そういう幻覚は普遍的に起こることです。しかしそれは、「ありえない」ものだと思っているからこそ大きく心が動くのですね。そのあたりの心の動きは、なやましく玄妙です。本気で信じてしまったら、たいして怖がりもしないし、ときめきもしない。
まあ日本人は、この世界やこの生そのものを「ありえない」ものだと思っている。そうやって「あはれ」とか「はかなし」とか「無常」といってきた。



「ありえない」ものに魅せられる心は女のほうが豊かに持っているし、日本列島の男だって女に引きずられながら「ありえない」ものにときめいてゆく歴史を歩んできた。
日本人は、その「ありえなさ」に美を感じる。
たとえば今どきのギャルの「かわいい」のファッションなどは、一般的な美の基準からは「ありえない」色の組み合わせや重ね着の仕方をしているし、女子高生が鞄にじゃらじゃらといくつもぶら下げているマスコットのようなものだって、まあ「ありえない」混沌・混雑でしょう。
でも彼女らは、そこに、大人たちも外国の少女たちも真似できないような確かな「かわいい」の世界をちゃんと表現して見せている。
いったいこの「かわいい」の仕組みというのはどうなっているのだろうと、やっぱり傍のものは考えざるを得ません。
ほんとに、「ありえない」かたちで「かわいい」を浮かび上がらせて見せる。
これはたぶん、彼女ら特有の「非日常」に入ってゆく視線です。彼女らは、「ありえない」ものに魅せられている。
江戸時代の町娘の髪飾りだって、櫛やらかんざしやらあれこれくっつけて、じゃらじゃらしていた。そういう伝統なのでしょうね。



今どきの若い娘たちはもう、本能的にこの社会を「憂き世」と感じながら「非日常」の世界に入ってゆく。
政治が悪いとか、学校が悪いとか、たぶんそれだけのことじゃない。もう、世の中の大人全体、時代そのものに幻滅している。何か中世の「厭離穢土」とか「末法思想」とか、そんな気分があるのでしょうか。
そうして、ただもう踊り狂えとか遊び狂えというような無常感がある。「いい女」としてこの社会に居座ってゆこうとしている大人のキャリアウーマンたちとは、かなり世界観が違う。
とはいえ現在では、そんなギャルたちもやがては社会の一員に組み込まれてゆくという制度的な仕組みがしっかり出来上がっている。中世の民衆には、一生社会のうまい汁なんか吸えないという絶望があったが、現在は絶望というほどでもなくチャンスはある。だから、同じ「憂き世」という感覚でも、現在の若者たちのそれは、社会に参加してゆくと消えてしまいやすい。
多くの若者が社会人になったとたんに急速にそのみずみずしい感性を失ってゆく、という例は多い。
まただからこそ、ニートやフリーターが増えたり、会社に入ってもすぐ辞めてしまうというようなことが起きてくる。
若者たちは、けんめいに若いままの感性を失うまいとしているのでしょう。そうして、失わないためには会社を辞めるしかない、というところに追いつめられる。
日本人は、「非日常」に向かって「滅びてゆく=消えてゆく」ということを抱きすくめてしまうメンタリティがある。
現在のこの国では、若いままの感性を失わないためにはもうワーキングプアであるしかないのでしょうか。一部の特権的な能力を持った人はともかく、全体的には何かそうなるしかない仕組みになっているらしい。



日本人の心は、「ありえない」ものに魅せられてしまう。その感性でギャルの「かわいい」の文化が花開いている。そんな彼女たちがやがては社会の一員に組み込まれてゆくとしても、時代は少しずつ日本人の歴史意識に沿ったかたちに戻りつつあるのでしょう。
男と女がセックスをする社会である以上、この国ではどうして女が持つ「非日常性」に引きずられて動いてゆくのだろうな、という気がします。
「日常」に耽溺して「いい女」であることを見せびらかそうとする女がキャリアウーマンにも主婦にも大量発生してきたといっても、きっと一時期のあだ花なのでしょう。それで「いい女」のキャリアウーマンが自分の目にかなうレベルの男を釣り上げることができるかというとなかなかそうもいかなくて、けっきょく婚期を逃してしまうということも多いし、めでたく結婚しても、セックスレスの家庭内別居のようにもなったりする。
「いい女」であることを見せびらかして結婚したのなら、そのあともずっと見せびらかし続けないといけないし、「いい女」であることにかげりが見えてくれば、とうぜんセックスの関係も不調になってゆくでしょう。
女にとっての結婚なんか、「もういい、気がすんだ」という感じでこの社会から降りてゆくことでもあるのですよね。そりゃあ、いつまでも「いい女」競争が続けられるはずもない。20代のうちにさっさとそんな競争から降りてしまう女も多くなってくることでしょう。
女は、自分の美しさをほめたたえてもらいたがっている存在ではない。美しい女ほど人間として扱ってもらいたがっているし、もともと男と女は人と人の関係として「セックス=情交」しているのですよね。
男は、べつに「いい女」に向かって勃起しているのではない。女が女であることのその「ありえなさ=非日常性」に向かって勃起しているのです。
男は、日常に耽溺してこの社会に居座っている「いい女」よりも、この社会から降りて「非日常」の世界に入っていってしまう女を追いかけている。
まあ男にとってのセックスなんて、非日常の世界に入ってゆく女のあとを追跡しているようなものです。そしてその生態というか関係が、時代の動きにも歴史の流れにもなってゆくところが日本列島の伝統的な風土なのだと思います。
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