やりまくる・ここだけの女性論21


現在は男と女のセックスの関係が不調になってきているともいわれています。それが「結婚したがらない」とか「少子化」という問題につながっているらしい。
で、とりあえずセックスの問題を書いてみようと思うのだけれど、べつにそのことの社会的な意義とやらを意識しているわけではありません。ただ、そのことで、あまりまだいわれていないことがいえたら、という願いはあります。
とはいえ、どうせつれづれなるままの行き当たりばったりの書きざまだから、どうなるかはわからない。
人間にとってセックスは重要な問題かといえば、どうなのでしょうか。
なかなかうまく答えが出る問題ではないのかもしれない。
女は、基本的にはセックスがなくても生きてゆける生き物ですからね。
そして、多くの男がみずからの性欲に悩み、持て余したりしている。かといって逆に、セックスなんかしなくても平気だ、めんどくさい、という男もいる。
けっきょく、してもしなくても人それぞれだということになる。
ただ、この世の中では多くの男と女がセックスをしているという事実がある。
最近では、したがる女が増えてきて、男はしたがらなくなってきている、というような風潮があるのだろうか。
いずれにせよ、かんたんにひとまとめにしていうことはできない。
人それぞれのセックスとのかかわり方がある。
好きな女と毎晩やりまくっていられたら、それ以外のものは何もいらない、という若者もいる。それを、否定することは、誰もできない。そうだよね、人生なんてセックスしてなんぼだよね、という人たちがいてもいい。それが人生のほんの一時期のことであったとしても。
あれほどやりまくった仲なのに、逃げ出したり逃げられたりすることも多い。
男はなぜ、若い一時期にやりまくろうとするのでしょうか。
もしかしたらここに、人類が一年中発情している猿になっていった問題の答えが隠されているのかもしれない。
暇が有り余っているから、といえばようするにそうなのだけれど、原初の人類だって食い物を調達することなんかほったらかしにしてやりまくろうとしたのでしょう。とりあえず飢え死にするまではセックスする時間が残っている。夢中になれば、未来の時間など忘れて「今ここ」に耽溺しきってしまうのが人間です。
空腹に耐え切れなくなって、ようやく食い物を探しに行く。そのときはもう、食い物ならなんでもよかった。草の根でもかまわない。そうやって人類は、雑食性の顕著な猿になっていったのでしょう。飢えたからといえば飢えたからだが、それはきっと、食うことなんかほったらかしにしても夢中になれることがあったからでしょう。
ライオンやトラは、どんなに飢えても肉食にこだわる。それは、食うことよりも夢中になれるものを持っていないからでしょう。しかし人間は持っている。食うことなんか二の次の問題だったからおそろしく雑食性になっていったのでしょう。
日本人は、とくに雑食性が強いのだそうです。それはきっと、食うことよりも大事で夢中になれるものを持っているからでしょう。それが何かといえば観念的にはいろいろあるでしょうが、基本的には人間が一年中発情している猿であるということ(原始性)がはたらいているのでしょう。
人間の若いオスは、食うことすなわち生きのびることよりもセックスのほうが大事になってしまう。



そんな男を相手にする若い女も同じレベルでセックスに夢中になってゆくのかといえば、たぶんそうではない。べつにやりたくてたまらないというわけでもないが、まあ「生きのびる」ということなどほったらかしにしてしまいたいという気持ちは男よりももっと切実に持っている。
というわけで、何もかもほったらかしにしてやりまくっている男女の暮らしにだって、人間性の本質はある。
人間は、「生きのびる」ことをほったらかしにしてしまえるほどの死に対する親密さを持っている。
何もかもほったらかしにしてやりまくるなんてだらしないといえばだらしないことだが、人間はときにそんなふうにもなってしまう生き物なのですよね。
それほどに、生きてあることに対する深い幻滅を抱えて存在している生き物なのでしょう。
とくに若者は、そういう幻滅を深く抱え込んでしまっているし、そこから性衝動が発現してくる。
べつに知能指数が低いからやりまくるんじゃない。人間としての生きてあることに対するいたたまれなさからせかされながらやりまくっているのです。世の人格者や知能指数の高い恵まれた階層の者たちはバカだのなんだのと上から目線でいうのだろうが、彼らには彼らの生の深い実感があるのです。
生きてあることのいたたまれなさをそれでしか癒せないのなら、それがもっとも深く効果的であるのなら、避けがたくそうしてしまうでしょう。
とにかくそのようにして生きた結果として、「もう気がすんだ」と思えるのか、いつまでも続けようと思うのかは人それぞれでしょうが、誰もが他人にはうかがい知れないそれぞれの心の世界を持っている。
生きてあることのいたたまれなさが、男のペニスを勃起させるのです。その心が女の裸と出会って他愛なくときめいてしまう。若い男ほど、そうしたいたたまれなさを深く切実に抱えている。
いたたまれなさを忘れた大人から順番にインポになってゆく。
しかし女は、あんがい男のインポやペニスが小さいとかということも許しているのですよね。なぜ許せるかというと、女自身には発情というものがないからでしょう。やりたいのならやらせてあげる、できないのならそれでもいい、基本的にはそういうスタンスなのでしょうね。
マスコミはよく芸能人の離婚の原因を「性の不一致」などといってからかうが、どんな男女の性も不一致なのであり、それで別れるということはない。不一致であることの上に男女の性が成り立っている。
女もやりたがる存在であるのなら、人類の男のやりたがる衝動は今ほど発達しなかったし、やりたいわけでもないがやらせてあげるという女の気持ちも生まれてこず、そうなると現在の娼婦の制度は成り立たなくなる。
人間の男と女の性の関係は、やりたくてたまらない男とやりたいわけでもないがやらせてあげる女の関係として成り立っている。性は最初から不一致なのです。不一致だから、人類のセックスはダイナミックになっていった。
つまり、男が女に逃げられるとすれば、性の問題ではなく、人間そのものとして幻滅されたからだということです。セックスができようができまいが、上手かろうと下手だろうと、そのことで女は逃げたりはしない。人間として我慢がならないものがあるから逃げられるのでしょう。
いや、こんな話を延々とやっていると男としては憂鬱になってくるから、今日はこのへんでやめておきます。



何はともあれ、この世の中には男(オス)がいて女(メス)がいるというのは、人間存在の前提になっている。われわれは、雌雄を持った生き物群の中の一種族だ。そのことの重みは、確かにある。
チンパンジーは年に1、2回しか発情しないのに、人間は一年中発情している猿になった。そのことの重みもたしかにあるでしょう。一年中発情してる猿になったことが人類拡散をうながした。あるいは、人類拡散が、一年中発情している猿になってゆくことをうながした。
男が、ですけどね。
女はあくまでも、やりたいわけでもないがやらせてあげる、という存在です。
だからこそ男は女から人間性を試されているのだといえるし、自分のセックスの能力を自慢する必要も悲観する必要もないともいえる。
そして女だって、とくにやりたいわけでもなくセックスなんかなきゃないでもいい、という気分だからといって、女であることを自覚しないでもすむというわけにはいかない。それが女であることの証拠なのだから。
女が女であることを自覚しないですむ、というわけにはいかない。
男だって、どうしようもなくオスであってしまう。
雌雄を持った生き物だから、個体どうしの関係するという生態が発達してきた。おたがいにオス=メスであることの嘆きを抱えた存在だから「関係する」という生態をつくってしまう。
ひとまず、個体どうしが関係するという生態は、人類がいちばん発達しているのでしょう。
ただ雌雄に分かれているからというだけではすまない、それぞれが雌雄であることの嘆きを抱えている。
この地球では、雌雄という不完全な個体群の種が発達進化してきた。発達進化というのは、苦し紛れの悪あがきの結果として起こることでしょう。
フェミニストがいくら男も女もないといおうと、普通はみんな雌雄(=不完全)であることの嘆きを抱えて生きているし、その嘆きを契機にして人間的な文化が生まれ育ってきたのでしょう。
人間の世界には、雌雄とは無縁の完全な個体など存在しない。
とにもかくにもわれわれは、雌雄を持った種として生まれてきてしまった。それは、不完全な個体であることの嘆きを避けがたく持たされてしまっている、ということです。人間は、それを自覚している存在です。それはもう、逃れることのできないこの生の前提です。だからわれわれは、完全な個体であることは目指さない。ただもう、この嘆きが癒されればいい。人間のいとなみの自然(根源)は、完全な個体(=神)になろうとすることではなく、不完全な個体であることの嘆きを癒そうとすることにある。けっきょくのところこの世界はそのように動いていて、いろんな知性や感性の活動が起き、男と女がセックスしたりしている。
ともあれこの世の中には「完全な個体」になることを目指している人がいて、そういう人が人格者として、この世界や人間はかくあらねばならないとか、セックスのことばかり考えているのはよくないとかと言い出すのでしょうね。
しかし、人間のいとなみの自然・本質は不完全な個体であることの嘆きを癒してゆくことにあるわけで、セックスだってそのための有効な方法のひとつです。その、人間としての根源的な衝動を学問や芸術やスポーツに向けようとセックスに向けようと他人にとやかく言われるすじあいではない。
とりあえず原初の人類は、それをセックスに向けていって一年中発情している猿になった。



セックスだって、人間であることの嘆きを癒す行為です。人間は、雌雄を持った生き物として、不完全な個体であることのいたたまれなさを自覚して存在している。
だから、おたがいにまず人と人の関係になるところからはじめる。猿のように、いきなり後ろからずぶりというわけにはいかない。前戯というのは、ひとまずそういう行為でしょう。
昔の日本人なんか、さらにその前の段階として「歌を贈答する」ということをしていた。
現代人だって、口説くとか誘惑するということをする。
人と人の関係にならないとはじまらないのが人間のセックスです。女だって、人として扱ってくれない男には、そうそうやらせてあげてもいいという気にならない。相手がフーゾク嬢だからといって人間として扱わなくてもいいというわけにはいかないでしょう。
人間の「挨拶する」という生態の起源は、セックスの前段階の行為だったのかもしれない。
それほどに人間は、けんめいに人と人として関係しようとしているのです。
それをしないことには、セックスだってできない。
昔の人の酒場や郭に通う道楽だって、人と人の関係の修行だったのです。
女遊びの経験が豊富だから人との関係の仕方もチャーミングだ、という場合もあることでしょう。
まあ現代社会は、女遊びの経験が豊富だということなんてただのこずるい女たらしだということしか意味しない、というような傾向になってきているのかもしれませんが、それは、それほどに人と人の関係の文化が衰弱しているからでしょう。
女が「いい女」であることを見せびらかそうとしている世の中であるのなら、その「いい女」である部分を釣り上げる技術は、人と人の関係とはまた別のものであるのかもしれません。
人間なんてもともと雌雄であることを嘆いている存在なのに、今どきの女は、それをうれしがって見せびらかそうとするようになってきた。そうなれば男はもう、網を張って待ち構えていればいいだけです。わざわざ寄ってゆく必要なんか、何もない。つまり、人と人の関係をつくる手続きの作法が衰弱している、ということでしょう。ほんらいは、男と女の関係だからこそそれが必要だった。
男と女のあいだだからこそ、けんめいに人と人の関係になろうとしてゆくものでしょう。



現在のキャリアウーマンは、肩こりとか腰痛とか、いろいろ身体の変調に悩まされているらしい。だから、せっせとスポーツジムに通ったりするのだとか。
つまり、日常の身のこなしからしてすでにスムーズではなくなっていて、それが肩こりや腰痛にあらわれるのでしょうね。
彼女らは、一般の女よりも豊かな日常生活を持っていて、人間として生まれてきたことに満足している。まあ、人間であることの嘆きは薄いでしょう。
雌雄に分かれている生き物は存在そのものにおいて不完全であることの嘆きを抱えているから、そこから逃れようともがいて思わず体が動いてしまうという生態を豊かに持っている。彼女らには、その「思わず動いてしまう」というタッチが希薄なのでしょう。自分の意志で体を動かすというタッチだけでは、どうしてもギクシャクしてしまう。
生き物の体の動きは、基本的には「思わず動いてしまう」というタッチの上に成り立っている。コーヒーカップに手を伸ばすとき、意識は、その動きを先導しているのではなく、その動きを追いかけているだけです。そういうタッチがどんどん後退していって肩こりや腰痛になる。それは、この生を嘆いていないからです。嘆かないで日常生活にのめりこみ耽溺していっているからです。まあ、それくらいしないとハイクラスのキャリアウーマンは務まらないのでしょう。
とすれば、スポーツやセックスは、そんな日常から離れて「非日常」に入ってゆく行為であり、「思わず体が動いてしまう」というタッチを取り戻す機会になりうる。
非日常に入ってしまえば、もう自分なんか消えている。だから「思わず体が動いてしまう」ということが起きる。



そこで、人間は「自分の意志で体を動かす」ことと「思わず動いてしまう」ことの両方を使い分けて生きている、という意見が生まれてきます。キャリアウーマンをはじめとしてこの生という日常に耽溺して生きている人たちはみなそういうことでしょう。
まあ、鈍くさい運動オンチもよくそんな言い方をする。
彼らの論理では、「自分の意志で体を動かす」ことが主で、その補助として「思わず動いてしまう」というタッチを取り込んでゆけばいい、ということになります。
彼らは、生きてあることの嘆きを持っていない状態を人間存在の基本に据えている。
そうやって日常生活にのめりこみ耽溺している自分が本当の自分だと思っている。
牛丼屋のアルバイトは牛丼屋のアルバイトであることが本当の自分で、フーゾク嬢はフーゾク嬢であることが本当の自分なのか。
そうじゃない。
世間的な評価としての「いい女」であることは本当の自分ではなく、生きてあることや女であることに嘆いているのが本当の自分なのですよね。
人間というのは、もともとそういう存在であったはずです。そういう存在だからこそ、知性や感性が磨かれるし、チャーミングな人間にもなれる。
人間であることの嘆きが基本にあれば、体はスムーズに動く。
「いい女」であることを本当の自分だと思えば、体の動きもギクシャクしてきて、肩こりや腰痛が起きてくる。
人間はけんめいに人と人の関係になろうとする生き物であるし、それは、生きてあることや雌雄の存在であることを嘆いているからでしょう。その嘆きを携えて原始人は人間として成熟していった。
ほんとうは、誰だって、心の底では生きてあることや雌雄の存在であることを嘆いている。
女がみんな「いい女」であることを見せびらかす世の中になれば男と女の関係も活発になるとはいえないのです。
がんばって「いい女」になれば、見せびらかしたくもなるでしょう。見せびらかすためにがんばって「いい女」になろうとしてきた。
まあ、そういう世の中の流れになっているらしい。
それでもしかし、ひとまず誰もが人間であり日本人であるという事実は残る。
「いい女」が得をする世の中だ、ということはあるのでしょう。とすれば、「いい女」になりたいということは、自分も得をして生きてゆきたい、ということでしょうか。この世の中のうまい汁を吸って、この世の中に居座って生きてゆきたい。
この国の戦後社会はもう、人々の生活がどんどん豊かになっていって、誰もが「日常」に耽溺するようになってきたし、「生活者の思想」とか「市民主義」という知識人が旗を振るスローガンもそれを後押しした。
消費生活にしろ、働いて金を稼ぐ生活にしろ、生活を肯定し生命を賛美しながら、この社会のうまい汁を追求しようとする欲望がどんどん肥大化していった。そうなればもう、日本人の歴史意識としての、この社会に置かれてあることの嘆きとともに意識が「非日常」に向かうという心の動きは薄くなってゆくほかない。
たしかに、この社会に居座って生きてゆくのなら、「いい女」にならないと損です。今や、多くの女たちがこの路線を生きようとしている。まあ、都会には多いのでしょうね。そしてそういう女たちが、この国の女全体の意識をリードしているのでしょうか。
それでもしかし、誰もが日本人の女として生きていることも事実です。
いや、世界中どこでも、女なら、意識がふと「非日常」に入り込んでしまうという体験はしているはずです。



パトリス・ルコント監督の「髪結いの亭主」という映画は、女の「非日常性」を描いているのかもしれません。
ひとりで理髪店をいとなむ若い女に初老の男がヒモみたいにくっついて、ほとんどどこにも出かけずセックスばかりして日常そのものを非日常のお祭りに染め上げながら暮らしてゆく、という物語です。
そして映画の中では、それとは対照的なキャリアウーマンとかセレブの人妻とかが何かのはずみでこの店にやってきて、これらの外を出歩きまわっている女たちこそじつはいじましく日常に耽溺して想像力の貧困な存在だということをさらけだしてしまう演出になっている。この対照もちょっとおもしろい。
この髪結いの女は、いろいろ男の経験もしてきたが、ふと人生から降りてしまうような気分になって初老の男のプロポーズを受け入れる。そして10年間さんざん非日常のお祭りでセックスをやりまくったあげくに、ある土砂降りの雨の日の増水した川に身を投げて死んでしまう。なんだかオトタチバナヒメの話のようでもあります。
この女はもう、この世に関心があるのかないのかわからないような態度で、いつも非日常の世界にいる。そこからお客たちを眺めているからこそ、サービスもとてもきめ細やかになる。
まあうがちすぎかもしれないが、この主人公の造形は、日本人の女がヒントになっているのではないかと思いたくもなる。スケベなくせに、ちっともアクティブではない。
そしてヒモの男もまた人生から降りてしまった人間で、その心や振る舞いも、つねに浮き世離れしている。
人は非日常の世界に入り込んでセックスをする、非日常の世界に立って人と向き合うことのなやましさとくるおしさ、エロチシズムというのはこういう視線のことか、と思わせられます。
この監督は、ほかの作品でも、つねに「非日常性」を描いている。
「非日常」の世界に入り込むタッチを失ったら、男と女の関係は衰弱してゆく。現在の日本列島が、まさにそのような情況に陥ってしまっているらしい。時代の情況としてはきっとそうでしょう。とはいえ、それでもセックスの関係はいたるところに存在するし、日本人の女がすべて「非日常」のタッチを失ったわけじゃない。
やっぱり男たちはみな、その「非日常性」に置き去りにされた気分をどかしらで体験している。
日本人の女は、その「非日常性」によってずっと男をリードしてきたのだし、その伝統はいまだに生きていると思えます。
「非日常性」こそ、セックスを濃密にする。と同時にそれは、セックスのことだけではなく、人と人の関係の根源の問題でもあり、人間の知性や感性や体を動かすことのセンスの問題でもある。
セックスするということは、人類の歴史と大きくかかわっている。生きのびるために食料をどう調達してゆくかというような経済の問題よりも、こちらのほうがずっと大きいのです。
セックスは、根源的には、女が男を置き去りにして死んでゆく行為です。そうやって女の心は、「非日常」の世界に向かって消えてゆく。男はそのあとをけんめいに追いかける。男と女は、出会いからすでに、そういう関係になっているのだと思えます。
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