男を飼いならす・ここだけの女性論27


女が漂わせているそれぞれの気配というのがあって、男はそれを無意識のうちに感じ取っている。それが通俗的な気配であるのなら、いくら顔かたちがよくてもだんだんしらけてくる。
日本人はことに、日常を厭う傾向がある。それが「憂き世」ということであり、生きてあるという日常それ自体を嘆いている。
日常の気配とは、ようするに俗っぽいということです。「ぬかみそくさい」とか「世間ずれしている」などともいう。
非俗というと何か宗教者の代名詞のようだが、あんがいただのポーズとか社会的な合意に過ぎないことだったりする。
それは、「美しい女」の「非日常性」にこそもっとも純粋なかたちであらわれる。だから「女神」というイメージというか概念が生まれてきたのでしょう。
ビーナス、聖母マリア観音菩薩、日本列島はアマテラスという女神の国だということになっているし、男は、「美しい女」の「非日常性」を神聖化する。
美しいものに対する感動として「この世のものとは思えない」などといったりする。
「美しい女」は、「この世のものとは思えない」気配をどこかしらに持っていて、ふとしたしぐさや表情にそれが表れる。男はあんがいそういうことを感じていて、それでますます引き寄せられていったり、それがないとだんだんしらけてきたりする。
「美しい女」は、自分がこの世に生きてあるということに対する困惑や羞恥心を持っていて、それがふとした表情やしぐさにあらわれる。
いくら「いい女」を気取って見せても、この世に居座って平気でいるその俗っぽさはちゃんと表情やしぐさにあらわれるし、男はそれを見逃さない。というか、いやでも感じてしまう。そんな女にプロポーズなんかできないですよ。ただのセックスフレンドならいいけど、一緒に暮らしてそんな女に飼いならされたくはないでしょう。
プロポーズするときの男は、あるていど女に飼いならされることを覚悟します。女にそのつもりがなくても、男は本質において女に引き寄せられる存在だから、どうしても飼いならされてしまうのですね。飼いならされてしまうということを本能的に知っている。
しかしその飼いならされることが、生きてある日常にとどめ置かれることであるならうんざりでしょう。そりゃあ、非日常の世界にいざなってくれる女のほうがいいに決まっています。
人間は、根源において生きてある日常を嘆いている存在なのだから。



男は、避けがたく女に飼いならされてしまう。だからこそ、男を飼いならそうとする意欲の強い女からは逃げたくなってしまう。
まあ、結婚してだんだん飼いならそうとする意欲を持った女になってゆくということもあるのでしょうか。男は飼いならすことができる生き物だということがわかってくるのでしょうね。
飼いならさないと生活が破綻するという現実的な危惧もあるわけだし。
ひところ盛り上がったフェミニズム運動は、男と対抗しようとするムーブメントだったのでしょうか。それがあるていどの成果を達成してひとまず収束し、現在は男を飼いならそうとする段階に入っているらしい。
しかし、「いい女」であることを見せびらかせば男を飼いならせると思ったら間違いでしょう。女が意図して飼いならせるのではない。男が勝手に飼いならされてしまうのです。そういう一方通行の関係にならないと、飼いならされるということは起きない。つまり、意図しないでも飼いならしてしまうような吸引力が女にはあるわけで、「いい女」であることを見せびらかして飼いならそうとしていったら逆効果なのです。
女は男を飼いならしてしまう存在だけど、飼いならそうとしているのではない。しかしこの国の現在は、飼いならそうとする動きが起きてきていて、それが男女の関係の不調をもたらしている。他愛なくときめき合い、セックスをし、結婚してしまうというような関係が少なくなってきている。
男だって、女の非日常の世界に入ってゆくイマジネーションが欠落してきているのでしょうか。
女が男を飼いならそうとするようになるきっかけは、一緒に暮らして男に幻滅したからとか、生育過程ですでに男に対するルサンチマンを持ってしまっているとか、まあいろいろあるのでしょう。
結婚してからのことはともかく、未婚女性にもすでにその衝動があるとしたら問題です。女にそんな衝動をもたれたら、男女の関係は不調になってしまうに決まっている。平気で男をたぶらかす小ずるい女が増えるとか、男が結婚することから逃げたくなるとか、セックスの関係になってくるとか。
ほんもののいい男を知っている女なら、男を飼いならそうとする衝動は持たない。つまり、つまらない男ばかりの世の中になったから、女の中の男を飼いならそうとする衝動が肥大化してしまった、ということでしょうか。
戦時中の若い娘たちは、いさぎよく戦争に参加してゆく男たちを無条件で尊敬しあこがれていた。良くも悪くもそうだった。しかし戦後社会の男たちは、日常世界の欲望にまみれてどんどん俗っぽくなってゆき、しだいに女たちから幻滅されるようになってきた。
男なんか安楽な生活をするための道具であって、男そのものにはなんの魅力も感じない。極端にいえば、日本中の女がそんな気分を共有する情況が生まれてきたのかもしれません。ホリエモンなどはそのもっとも有効な道具で、きっともてることでしょう。
この男と一緒なら貧乏してもかまわない……女にそう思わせることができる魅力的な男なんかほとんどいなくなってしまったし、そんな発想をする女もまたいなくなった。
どちらがいいとか悪いということもないのだけれど、現在にはそういう情況があるのでしょう。時代のなりゆきなのだからしょうがない。
しょうがないけど、そういう情況だということは自覚しておいてもいいでしょう。それをさしおいて、古代社会の男と女の関係はただ単純で未熟だったというような解釈をしてしまうのはばかげています。
現在の男女の関係が古代や戦時中よりもまともで洗練されているなどということはいえない。



まあ「いい女」であることを見せびらかそうとするなんて、男を飼いならそうとしているのと一緒です。そんな態度で婚活なんかしたって、そうそううまくいくはずがない。
その頂点にいるマスコミ知識人の女たちは『女性の品格』だの『おひとりさまの老後』だのといってのさばり、それに追随する女たちがたくさんいる。そのような本がたくさん売れるということは、そのような本が世間の女たちの意識をリードしているというより、世間の女たちの意識を上手に掬い上げているということなのでしょう。
女の生き方や人生を説いた本は昔からあったけど、今がいちばんさかんなのでしょうね。
昔は人生なんてなりゆきにしたがってゆくものだったけれど、今は女自身が自分でつくってゆくものになっているらしい。そのためには、どうしてもそのノウハウを説いたガイドブックが必要になる。
男との関係のなりゆきで人生が決まってゆくのではなく、男を飼いならして自分の人生を切りひらいてゆく。男を飼いならさないと、自分の人生は切りひらけない。男も家事を手伝え、というのはいちばんわかりやすい例で、フェミニズムは今も機能しているし、フェミニズムの一部は男を飼いならそうとする思想にもなっているらしい。
僕はべつにフェミニズムの研究者ではないし、その全容なんかよくわからないのですけどね。しかしこの国の現在は、諸外国に比べて、女が男を飼いならしにかかっているという傾向はとくにあからさまのような気がします。
なんといっても、男が女に飼いならされて歴史を歩んできた国ですからね。ただそれは、男が一方的に女に引き寄せられ飼いならされていったのであって、女が飼いならそうとしてきたのではない。
女は、男を飼いならそうとした瞬間から男に対する吸引力を失ってゆく。それが鬱陶しくて若い男たちはなかなか結婚する気にならない。
そして、飼いならすことなんか面倒だといって結婚しない女もいれば、飼いならすことができないといらだって結婚しない女もいる。
なんだか知らないが、女が男を飼いならしにかかる世の中になってきた。
男と女の関係が近くなりすぎたのでしょうか。
男からいい女だと認められたいと願ってなぜ悪い、という理屈もあるのでしょうが、そんな願いなど持たなくても男は勝手に引き寄せられてしまう存在であるわけで、そんな願いを持たなくてもいいように女を磨くのでしょう。
女なら、そんな願いを持たない存在になりたいという思いはあるでしょう。そんな願いを持つなんてみじめです。
誰からも認められなくてそんなことはどうでもいいと居直っているのもみっともないけど。いずれにせよ、そういうことに無関心になって「非日常」の世界に入ってゆくのが「美しい女」の心模様に違いありません。
「非日常」の世界に入ってゆくとは、自分のことを忘れてしまうということです。自分のことを忘れて何かにときめいている、夢中になっている。そういう状態のときに「認めてもらいたい」などという心の動きが成り立つはずがない。
人間は日々世間とかかわりながらも、それを嘆きつつその一方では「非日常」の世界に向いているのであり、向こうとしているのであり、そういう心模様を失ったら人間の自然だとはいえないし、「美しい女」ともいえない。
戦後の高度経済成長の時代が現在のような男と女の関係をつくってきたのでしょうか。
誰もが「生活=日常」に耽溺している時代の男と女の関係、ほんとに、そんなものが欲しかったらホリエモンのところへ行け、ということです。
それでも人間は、人間として、心は存在そのものの嘆きとともに「非日常」の世界に向いてゆくようにできているし、生きてあることのカタルシスはそこにこそある。



現在の日本列島の女たちの、男を飼いならそう(=支配しよう)とするそのなれなれしさはいったいなんなのか。
自立した女、などという。
自立して自分の人生をぜんぶ自分で決定してゆこうとするなら、他人や男は自分が飼いならしている対象でなければならない。飼いならすためには、「女性の品格」を持たねばならない。飼いならして「おひとりさまの老後」のネットワークをつくってゆかねばならない。
もしも自分の人生が、他人や男との関係に流されたり、そこから逃れたりするものであるのなら、飼いならそうとする衝動も飼いならす能力も持つことができない。
人は、出会いと別れを繰り返しながら生きてゆく。自分の人生を自分で決定することなんかできない。それは、そのつどの出会いと別れによって決定されてゆく。
どんな生き方をしようと、人それぞれでしょう。
こういう生き方がすばらしいからこういう生き方をしましょう、というような書きざまの女性論に、どうして多くの女たちがしてやられてしまうのか。『おひとりさまの老後』なんて、自分が「いい女」だと思いたくて認めてもらいたくてうずうずしているブスのインテリ女が書いているだけじゃないですか。あの本に女の本質の何が書かれてあるのですか。現代社会を生きる女の欲望と制度的な幻想を撒き散らしているだけじゃないですか。
悪いけど、「美しい女」は、あんなものに感動なんかしませんよ。あんな作為的な「ハウツー」で生きているわけではないですからね。
べつに、しょうもないブスのインテリ女がお得な人生を歩んだからといって、すばらしいというわけでもないでしょう。そのていどの女でしかないということのしょうもなさもあるでしょう。あの女のどこにセックスアピールや女の普遍性としての「美しい女」の気配があるでしょう。
「美しい女」は、「美しい女」でありたいとなど願わないし、「美しい女」だと自覚しているわけでもない。それは、男が評価することです。そのへんのところは真空状態になっているのが「美しい女」です。
あの女にはそういう真空状態がなくて、自分の心をつねに自意識=自己愛で武装しながら、平気でお得な人生を生きている自慢話を垂れ流している。そしてその自意識=自己愛のえげつなさ険悪さはもう、ちゃんと顔にあらわれている。歳をとると、顔にあらわれてきてしまうのです。
自分も女であるくせに、不幸な人生しか生きられない女を差別するようなことを書いて何がうれしいのか。自分のお得な人生を自慢して見せびらかすことばかりしてやがる。
幸せであろうと不幸であろうと、すべてが女の人生です。どちらがすばらしいなどということはない。みんなそれぞれの出会いと別れの「なりゆき」を生きてゆくしかないのだから。
人が人として生きることの真実というのは、いったいどこにあるのでしょうか。僕としては、あんなしょうもないブスのインテリ女から学ぶことなんか何もありません。



この国ではもう、誰もが「お得な人生」を羨んでいるだけなのでしょうか。
戦後社会は、お得な人生を歩みたいという自意識=自己愛を増殖させてきた。
しかし人間の歴史は、お得な人生を歩みたいという欲望によって流れてきたのではないし、その欲望によって文化が発展進化してきたのでもない。
原始人は、生きてあることそれ自体を嘆いていた。だから、心は避けがたく生きてあることを忘れてゆくような方向に動いていった。その「我を忘れてときめき夢中になってゆく」という心の動きが文化を進化展させてきたのです。つまり、人間の知性や感性を発達させてきた。
どんなにお得な人生を歩もうと、生きてあることに対する嘆きは二本の足で立つという不安定な姿勢を常態にしている人間存在の属性であり、そこからはもう誰も逃れられない。
生きてあることを忘れようとするのが人間の本能です。その本能によって、豊かな「我を忘れてときめき夢中になってゆく」という探究心や好奇心すなわち知性や感性を獲得していった。
その「嘆き」こそが人間を豊かにする。日本列島の伝統的な文化は、その「嘆き」を基礎にして洗練発展してきた。
原始人が地球の隅々まで拡散していったことにしても、より住みにくいところ住みにくいところへと移動していったことの結果です。彼らは、その住みにくい土地に住み着くことの「嘆き」を引き受けながら、人間的な知性や感性を進化発展させていった。その「嘆き」こそが進化発展の契機になった。
人間は、生きてあることの「嘆き」を引き受けてしまうし、生きてあることの「嘆き」から逃れられない存在です。そうやって「死」を意識する存在になっていった。
生きてあることの「嘆き」を引き受けないことには、二本の足で立っている姿勢を常態化することはできないのであり、生きてあることの「嘆き」を引き受けることが人間であることの属性(=自然)です。
人類の知性や感性は、「お得な人生」を追求して進化発展してきたのではない。生きてあることの「嘆き」を引き受けながら進化発展してきたのです。引き受けたからこそ、探究心や好奇心が旺盛な存在になっていった。
「お得な人生」を願うことは、人間の本性でもなんでもなく、たんなる戦後社会のスローガンにすぎない。
もともと日本列島は、誰もが生きてあることの「嘆き」を引き受けながら歴史を歩んできたのです。そこから日本的な文化が洗練発展してきたし、そこに立って他愛なくときめきめき合う人と人の関係や男と女の関係を紡いできたのです。
良くも悪くも、江戸時代の農民は他人の「お得な人生」を羨むというような心の動きが希薄だったから、権力の圧政を受け入れてしまったのであり、あのひどい太平洋戦争に参加させられた人々にも、そういう心の動きは引き継がれていた。
生きてあることを嘆きながら「滅びる」ということを抱きすくめてゆく、それが、日本的な美意識であり、それが「あはれ」であり「はかなし」であり「無常」です。
しかし戦後社会は、そういう歴史意識をかなぐり捨てて徹底的に「お得な人生」を追求していった。その結果として、『おひとりさまの老後』などといって「お得な人生」を自慢し見せびらかしたがる自意識過剰のブスのインテリ女がのさばる情況が生まれてきた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一日一回のクリック、どうかよろしくお願いします。
人気ブログランキングへ