嫉妬に狂う・ここだけの女性論28


「自己愛性パーソナリティ障害」という心理学の用語がある。戦後の日本人はもう、誰もが自己愛性パーソナリティ障害を負ってしまっているのでしょうか。
「お得な人生」を歩みたいというのは、ひとつの自己愛でしょう。戦後社会はそういうスローガンで流れてきたのであり、そういうスローガンに染められて誰もがそれを願うようになっていった。
「お得な人生」を歩んでいるんでいるか否かによってその人の評価が決まる風潮になっている。
そうして、ますます「お得な人生」を願うようになってゆき、その自己愛が肥大化していった。
まあ、自分の人生を自分で決定しつくってゆくということは、自己愛がなければできることじゃない。そういう自己愛の「女の人生」論が戦後社会で花盛りになっていった。
そして自分の人生を自分で決定しつくってゆくためには、男や他人に流されてはいけない。男や他人は飼いならし支配してゆく対象であらねばならない。
自己愛とは、「お得な人生」を歩みたいという願いであり、他人を支配下に置こうとする衝動でもあります。
いまどきは、いい子のふりをしながら親を飼いならしている子供だっていますからね。そういうテクニックを、子供のうちから身につけてしまう社会です。そのテクニックは、きっと大人になっても役立つことでしょう。
そのテクニックは、自己愛の強い子供ほど発達している。
この社会では、自己愛の強い人間のほうが有利なのです。なぜなら、誰もが「お得な人生」を願い、「お得な人生」を生きている人間が評価される社会だから。
この自己愛の問題はやっかいです。「パーソナリティ障害」という症状をきたした人だけの問題じゃない。現代人の誰もが共有しているし、自己愛のかたまりのような人間がオピニオンリーダーとして評価される社会の構造になっている。まあ、今どきの「女性論」もその類でしょう。
というわけでとりあえずここでは、そういう自己愛の強い女の対極として、「美しい女」という概念を置いているわけです。



女の自己愛としての嫉妬心のことも考えておく必要があるのでしょうか。
それは、男を飼いならそうとする衝動の挫折体験でしょう。
自己愛=嫉妬心の強い女もいれば、そうでもない女もいる。
男の心がほかの女に移ってゆけば、そりゃあだれだって愉快なことではないが、それならそれでしょうがないとあきらめる女もいるし、男に対する憎しみよりもたんなる女同志の競争心になることも多い。
しかし男の心が、完全にほかの女に移ってしまえば、殺してしまいたいほど憎むことにもなったりするのでしょうか。そうして、憎みながら、男にまだ執着している。憎むほど執着している、というのか。
そういう執着心のことを嫉妬というのでしょうね。
かといって、男を捨てて未練などさっぱり断ち切ってしまうことができるのも女の生態であるし、その執着心という嫉妬が女の本性だともいえない。
なんなのでしょうね。「あなたなんかほかの女に惚れられほどの男じゃない」とけなしてくるのがよくあるパターンでしょうか。それが嵩じて憎しみと執着になってゆく。
相手を飼いならし自分のものにしておきたいというのは、女だけのものではなく、男だってその意欲があきれるほど強い人がいくらでもいる。
いつの時代も、女に寄っていきたがる男とその意欲が希薄な女という本性の違いや社会的立場からいって、男が心変わりして浮気するケースのほうが圧倒的に多い。だから女はいつも嫉妬するがわに立たされてきた。まあそういうことであって、それが女の本性だともいえないでしょう。
いまどきは、嫉妬に狂った男が女を刺し殺すという事件はいくらでも起きている。
じつは、自己愛は男のほうが強い。



嫉妬心は、女の本性だとはいえない。一夫一婦制の世の中においては、男であれ女であれ、浮気されるがわはそれなりに心穏やかではいられない、ということでしょう。
一夫一婦制という社会制度が、嫉妬心や憎しみを生んでいる。
日本人が一夫一婦制を意識するようになってきたのは、平安時代以降のことです。
万葉集には嫉妬の歌はほとんどないし、平安時代の『源氏物語』に出てくる女たちにも嫉妬の感情は希薄です。嫉妬するくらいなら出家する、というのがこの物語の女の美意識だった。
ただ、『蜻蛉日記』などのように、自己愛の強い女が一夫一婦制を意識して一人の男に執着するという話が語られるようにもなってきた。
そして中世の能では、『鉄輪(かなわ)』に代表されるような、嫉妬に狂って怨霊になるという話があらわれてくる。これが、女の本性を表現しているなどとよく評されたりするのだが、あくまで異常なこととして語られているだけです。異常事態だから、怨霊になってしまう。
江戸時代の『四谷怪談』だって、化けて出てくるほどの異常な事態の話として語られているだけであって、それを女の本性だといいたがるのは、近代の制度的な意識にすぎない。
嫉妬心の最初は、『蜻蛉日記』の作者のように、いざ顔を合わせるとふだんの待っている心とは裏腹につい男を邪険に扱ってしまうというかたちであらわれ、それがやがて男を殺さずにいられないほどの憎しみにいたる……という過程でイメージされているから、怨霊の憎しみが本質だということになってしまうのでしょうか。
いずれにせよそれは、男も女もないことで、相手が自分の思うようにならないことの苛立ちから出発しているのでしょう。その自己愛は制度的な意識であり、男だって、怨霊になってしまう人間はいくらでもいる。



嫉妬するくらいなら出家してしまう、というのが女の本性に近いような気がします。だから、『源氏物語』が普遍的な文学として評価されているのでしょう。
男を自分のものにしようとするのが女の本性ではない。それは、近代の制度的な意識にすぎない。男だってそこまで執着されてうれしいはずがないし、それが女の本性であるのなら、男が女に寄ってゆくということは起きない。女の方から男に寄ってゆくというのが人間の自然になっているはずです。そんなことが女のセックスアピールになっているのではない。女はいざとなったら男を置き去りにして「非日常」の世界に向かって出家してしまう存在だから、男はつい引き寄せられてしまうのです。
人生には、「別れ」はつきものです。女が「出家してしまう=非日常の世界に入ってしまう」ことは、女とは「別れ」を身体化している存在だということです。つまり、女の本性としては嫉妬などしない、ということです。
万葉人も、弥生人も、縄文人も、おそらく原始人も、女は嫉妬しなかった。彼らは、「別れ」を身体化していた。
「別れ」を身体化しているのが女のセックスアピールです。
それに対して男は女に寄ってゆく存在だから、女ほどには「別れ」を身体化していないともいえます。ほんとうは、男の嫉妬心のほうがずっとすごい。



西洋の男の多くは、妻に浮気をされると、身も世もなくうろたえ落ち込んでしまうらしい。
西洋の方がはるかに一夫一婦制の歴史が長く、しっかりと定着している。
そして男が妻の浮気に耐えられないから、結婚しないというライフスタイルが多いし、離婚も多くなる。
アラブ世界が一夫多妻制で女の人権を認めないような制度になっているのも、それだけ男の嫉妬心の方が強いからでしょう。
世の中には、女のために一夫一婦制にしてやっているんだという意識の男も多いのだろうが、それはちょっと違う。女の浮気に耐えられない男のためにあるのです。
では、女はたくさんの男とセックスしたがっているのかというと、それも違う。
できることなら、男のいない世界に逃げ込みたい。しかし、男が寄ってくるという生態の生物世界に置かれた存在であるかぎり男との関係は受け入れるしかないし、自分の中にも男にときめいてしまう心の動きもある。
まあ、「ひとりでいたい」という気持ちは女のほうが強いのでしょう。そこにいて、その世界にあらわれた男にときめいてゆく。やらせてあげてもいい、という気持ちにもなる。
男は、女の「やらせてあげてもいい」という気持ちが怖いのですね。
べつに男に執着しているわけでもないのに、つい「やらせてあげてもいい」という気持ちになってしまう。女をひとりにしておくと、どうしてもそうなってしまう。だから、一夫一婦制とか一夫多妻制にしていったのでしょう。男同士の競争の意欲を担保する制度としてそういうかたちになっていった。
男は、妻に浮気をされると、存在の根拠を失ったような心地になる。男のほうがずっと相手は自分のものだという意識が強い。完全に「取られてしまった」という気持ちになる。
一方女は、相手の女だって「やせてあげただけ」だと知っているから、「取られてしまった」とは思わない。だから執着心の強い女になると、そうかんたんには引き下がらない。まあ、男ほど傷ついてはいない。男は、完全に傷ついてしまう。
おそらく、女の嫉妬心の方が底が浅い。怨霊になるなどありえない。しかしありえないからこそ、それがおもしろい話になるのですよね。
男はもう、男がそんなになってしまう話など身につまされてしまって、心からおもしろがることができない。



男を飼いならそうとする意識が強い女ほどむやみな嫉妬心を起こす。
近代社会には、そういう自己愛の強い女がたくさんいるのかもしれません。
男は、女のあとを追跡している存在だから、かんたんに女にだまされます。だから女は、亭主を飼いならそうとする気持ちが強くなるし、亭主が浮気をしても「女にだまされた」と思う。
女にとって男なんてほんとにだましやすい生き物だし、だから飼いならそうという気持ちにもなる。
しかしそれは、女の本性ではない。
女は、おそらく本性的には、出家してひとりになりたがっている存在です。
女の心は、すでに男から別れて「非日常」の世界にある。
人と人の「別れ」は、女のほうが受け入れる能力を持っている。したがって、女の方が嫉妬心が強いということは論理的にありえないのです。
女は親しい人が死んだらものすごく悲しむが、自分が死んでゆくことに男ほどはうろたえたりしない。
女は「別れ」に憑依してゆく心を持っている。悲しくたって、悲しいこと自体がカタルシスなのですよね。それが、ここでいう「出家する心」です。
「別れ」に憑依してゆく心は、嫉妬心とは正反対です。
原初の人類は、猿としての能力と生態を喪失しながら二本の足で立ち上がっていった。その喪失感は「別れ」の体験であったはずです。そのとき、その「別れ」に憑依していったからこそ、二本の足で立つという姿勢が常態化していった。「別れ」に憑依してゆくことは、人間の根源的な心の動きであるのかもしれない。女は、そういう心の動きを胸の奥に豊かに宿している存在であって、嫉妬することが本性ではない。



しかし、その「憑依する」という直截な心の動きが嫉妬心にもなったりする。
社会の構造が、女のそうした心の動きを刺激して嫉妬心を起こさせる。
女は身体生理的に人間の本質的な部分と生で向き合ってゆくことができる能力を持っている。そうして憑依し、一挙に相手の本質をつかまえてしまう。そうなればもう、観念的な存在である男をだまして飼いならしてゆくことなんかかんたんです。
それでも、昔の女はひとまず自主規制していた。それが、男の世話をするということであり、男の社会のことにあまり興味を持たなかった。
縄文人の女は、男と一緒になって山道を旅しようとはしなかったし、平安時代の宮廷の女は、和歌や仮名文学という自分たちの世界を持っていた。
日本列島では、歴史的に女はあまり男の世界とかかわろうとはしてこなかった。
江戸・明治以降だって、女は、家事のことだけでなく、社会に対する興味よりも、芸能などの娯楽や花鳥風月の自然に意識が向いていた。まあ、子供のころから、女の子の遊びと男の子の遊びは違う世界にあった。
これらのことは、女が差別されていたということ以前に、女のほうで男の世界に入ってゆくことを自主規制していたということもあるはずです。



現代のように、女もまた男と同じように金や社会との関係に意識が向いて同じ土俵に立ってしまえば、どんどん男をだまして飼いならそうとするようになってくる。
男をだまして飼いならすことなんか、かんたんなことです。しかしそれは、飼いならすことに失敗して嫉妬に狂うということも体験しなければならなくなる、ということも意味します。
いつの時代にも嫉妬に狂う女はいたが、現在においては、それが意識下での社会全体の男と女の関係の生態になってあらわれているようにも思えます。
女たちも社会参加して女同士で競争する。それはもう、男をめぐって女同士が争う三角関係の修羅場と質的に通じていることかもしれない。女の嫉妬心が深く広く潜行している。
まあ、女たちが男を飼いならしにかかっているというような傾向はきっとあるのだろうと思えます。
男をだまし飼いならすテクニックのレベルなんかもう、水商売も堅気の世界もない。
そうして、女だけの世界も、非日常性としての女のセックスアピールも希薄になってきている。
独身OLだろうと主婦だろうと、女同士の競争と嫉妬という現象がいろんなところにあらわれてきている。
男をだまし飼いならそうとするから、女同士のよけいな競争心や嫉妬心を持たないといけなくなる。
すべての女たちが、というつもりはさらさらないが、そういう社会的な風潮はありそうに思えます。
堅気の世界にも、男をだまし飼いならすことが上手な女が増えてきた。いいとか悪いということはよくわからないが、そういうことばかりしていると、いつも女同士の競争に身をさらしていないといけなくなる。そうして自分の中にいつも嫉妬心のようなものが疼いている。女同士の「いい女自慢」とか「幸せ自慢」の競争は、男をめぐる三角関係の心の動きと同質だというか……いや、なんだか不毛な話になってきてしまいました。昔の、嫉妬に狂って化け猫や幽霊になるというありえない話のほうが、よほど健康的です。
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