女のかなしみ・ここだけの女性論12


「かなしみ」という言葉は、とても気になります。
女は、男よりも深く「かなしみ」を知っている。
かなしみとは何かということが、男にはよくわからない。知っているつもりの男も少なからずいるらしいが、僕にはわからない。
女の心は、どこかで男を置き去りにしてしまっている。僕の勝手な思い込みかもしれないが、どうしてもそう思える。
まあその人の考えとか性格というようなレベルのことではなく、無意識のところでの話ですけどね。
ここでいう「かなしみ」とは、たとえば青い空や木漏れ日や水のきらめきや火のゆらめきに対する原初的な感慨のようなことで、それはもう、男がしゃらくさいことをいってもたかが知れている。男が何をいっても、女はもっと深いところでそれを感じているのではないのか。
かなしみとはなんだろう?女はたぶんそれを知っている。
では女に聞けばちゃんと答えてくれるのかといえば、きっとそうかんたんに説明できる感慨ではないでしょう。言葉では説明しきれない。かなしみはかなしみであって、それ以外にはいいようがない。
生きてあることのかなしみ……たぶん女の生は、その上に成り立っている。
それはもう、どんなバカギャルだってそうなのであり、男の心は、どうしてもそこまで届かない。
よくわからないが、女という存在そのものの気配に対するあこがれが男にはある。それはたぶん、かなしみを知っているというその気配に対するあこがれです。
とにかく、男と女では、存在そのものの気配が違う。ただ体型が違うというだけのことではない。この世に女が存在するということそれ自体へのあこがれとときめきが男にはあるのです。
いったいこれはなんだろうと、いつも思います。
女が存在そのものにおいてそなえている「かなしみ」の気配に対するあこがれが男にはある。すべての人類の男の無意識の中にそれがあるように思えます。
「かなしみ」というのは、なんなのでしょうね。
その答えを男の僕には書くことができません。ただ、人間存在は「生きてあることのかなしみ」の上に成り立っており、女の「品性」というのはそういう「かなしみの気配」にあるのだろうな、と思うわけです。その気配が、女を輝かせる。女の心は「かなしみ」を形見にして華やいでゆく。



女の心は、この社会からもみずからのこの生からもはぐれてしまっている。女が持っている死に対する親密さは、男にはありません。ほんとはそれが人間存在の普遍的な感慨なのだが、現在の文明社会では、男はどうしても、社会に従属して生きる存在として育てられてしまう。男の心は、社会に従属しながらこの生にも執着している。まあいまどきはそういう傾向の女もたくさんいるわけで、そこからこの生の延長としての天国やら極楽浄土やら死後の世界という観念が紡ぎだされてゆく。
この国に天国や極楽浄土の観念が根付かなかったのは、この国の女たちがそんなこと以前にすでに死と和解してしまっているからで、男もそれに引きずられながら、この国ではもう、誰もが無意識的には宗教以前のところですでに死と和解している。まあこの問題は、かんたんにはいえない歴史の大問題であるのだが、とにかくそういうことだろうと僕は考えています。
女がそなえている「かなしみの気配」は、死に対する親密さを水源にしている。そしてじつは、そこから女の心は華やいでゆく。
男の心よりも女の心の動き方が華やかで輝いていますよ。どんな地味な女であってもです。
女の心は、この生からはぐれてゆくように華やいでゆく。いや、女ほどでなくても男にだってそういう部分はあるわけで、人の心は、というべきでしょうか。
男と女では、生きてあることに対するかなしみの深さが違う。男は、女が持っているその気配を追いかけている。女はその部分において、男よりも格上なのです。
男は、根源において女に対する負い目を抱いている。女に対する負債の意識が、どこかしらにある。だから、いいとししたオヤジが若い娘にたぶらかされ入れあげたりもする。それはまあ悲惨なことではあるが、妙に人格者ぶって若者につまらない説教をはじめるオヤジよりはましでしょう。ほんとに程度の低い説教なのですよね。この俗物め、と思います。おまえの安っぽい人生論を人に押し付けるな、といいたくなります。けっきょくそうやって自分を正当化したがっているだけなのですよね。その薄汚い自分を、です。そしてこれはもう、今どきのおばさんが書くくだらない女性論と同じだろうと思います。大人は、若者に嫉妬してすぐそういうこととを企みたがる。そりゃあ年をとってくれば、誰だって焦りますよ。心の底のどこかでは自分がすっかり汚れてしまったことに気づいているし、死ぬことが怖くなってきてもいる。それを認めたくないし、押し隠そうてしながら大人たちは、若者対してあれこれ画策してゆく。



女は、死に対する親密さとともに出家する。出家した女の心は華やいでいる。
人間なんか、「生きていてもしょうがない」と思いながら心が華やいでゆくのですよね。女は、そういうタッチを男よりももっと鮮やかにそなえている。それが、女の品性と輝きなのではないでしょうか。
女は死にたがっている存在です。それは女の自然であり、その「かなしみ」を否定することはできません。
人間なんてもともと死に対する親密さから生きはじめる存在です。その「かなしみ」にこそ、たぶん人間の尊厳があり、女の品性と輝きがある。
いい女であることや幸せであることを自慢する女よりも、死にたがっている女のほうがもっと鮮やかに女の品性と輝きをそなえている。
このていどのことを書いても、ただ書いているだけ、という書きざまに過ぎないのだけれど、とにかく僕としては、すべての女の「今ここ」に女の品性と輝きがあると思うわけで、「いい女」や「幸せ」になるために努力することによってかえってそれを失っているということも多いのでしょう。そんな「正義」を手に入れようとがんばることなんかただの政治的な行為であって、かえって女の精紳の荒廃をもたらすのではないでしょうか。
悪いけど、僕からすると、「女性の品格」とか「おひとりさまの老後」とか「野心のすすめ」とかの著者のおばさんたちの精神の荒廃は、そりゃあもうひどいものだと思います。女の品性と輝きなんか、どこにもない。
いい女や幸せになることに女の品性や輝きがあるのではない、それは、「今ここ」の女であるということそれ自体の「かなしみの気配」とともにある。



男は男であることに追いつめられている。
女も女であることにうんざりしている。
人の心は、この生からはぐれてゆく。
変に女扱いされても困るという気分はたいていの女の心の底にあるのだろうし、男だって「おまえもただの女か」とか「女が見えてしまっていやになった」などといったりする。
男も女も、じつはおたがい人間として接し合おうとしている。そうしてあるとき、ふと男と女になる。
なぜならおたがい、自分が男であることも女であることもひとつの受難であるのだから、そういうことをむやみにさらしたくないし、つつかれたくない。
だから人は、裸を隠して衣装をまとう。
スカートを穿けばひとまず女であることをさらしているが、それでもそれは、女であることの受難を生きていることの告白にもなっている。
女であることの受難を自覚したところから、女であることの人生がはじまっている。
だから、人間として女と接することのできる男のほうがもてる場合も多い。
女にしても、最初からスケベ根性満開で寄ってこられても困る。もともと男に「やらせてあげる」だけで自分から性欲をたぎらせている存在ではないから、そんなふうに寄ってこられると拒否したくなる無意識を持っている。
人間だってもちろん雌雄の生き物だが、生き物として存在していることの嘆きを抱えているから、まずは生き物の雌雄としてではなく、人と人の関係として出会ってゆく。
この世の中には「いい女」であることを見せびらかしたい女もたくさんいることだろうが、「いい女」であることの受難というのもあるわけじゃないですか。
「いい女」であることの受難を自覚できないというのも何か不自然です。
見せびらかしてたくさん男をつかまえたものが勝ちだ、ということでしょうか。
プレゼンテーションの時代ですからね。
しかし、女がそうやって見せびらかしてくる時代だから男の寄ってゆこうとする衝動がしぼんでゆく、ということもある。
僕はべつに、女がおしゃれすることを否定しているのではありません。おしゃれすることだって女の受難です。衣装は、自分に張り付いてくる視線をさえぎる装置であり、ほんとに洗練された着こなしは、見つめられることを拒否している。
見つめられたくておしゃれをするんじゃない、見つめられることの居心地の悪さを宥めようとしておしゃれのセンスが磨かれてゆく。だから、その居心地の悪さを知らない女のおしゃれはいつまでたっても野暮ったい。



二本の足で立っている人間のメスは、オスから見つめられている存在であり、本能的に見つめられることの居心地の悪さを持っている。
原初の人類は一年中発情している猿になり、オスはもう一年中メスに寄っていった。そしてメスは、自分が発情しているわけでもないが、いつだって根負けしてやらせてやるはめになる。人類は、そういう関係を何百万年も続けてきたのです。
二本の足で立っていると、女の性器は外の世界から遮断されたまま鬱陶しさがたまってしまいがちになる、そしてその鬱陶しさは膣の中をペニスでかきまわされるとすっきりする……ということもあったのでしょうか。
女だって、自分が女であることを処罰してさっぱりした気分になりたいと思っている。だから、男が寄ってくれば、ついやらせてあげる。まあ今だって、これが基本的な男と女の関係だろうと思えます。
おしゃれは見せびらかすことじゃないし、女が見せびらかす存在になると、男の寄ってゆこうとする衝動が減殺されて、男と女の関係が衰弱してゆく。
現在のこの国は、わりとこのような状況になっているのではないでしょうか。
都会には、アンチエイジングのプチ整形とかフィットネスクラブ通いとか高価なファッションとか化粧とか、いろいろがんばって「いい女」になろうと励んでいる人たちがいるらしい。それはそれでけっこうなのだが、男に見せびらかすためという目的ならちょっと不自然で、ほんとにすべての女がそんな意欲ばかりたぎらせている世の中になったら、男と女の関係は停滞してゆくばかりでしょう。
それでも、女は女として生まれてきたことの受難を自覚するほかない存在であり続けるのだろうし、すべての人間が、人間として生まれてきてしまったことの受難をどこかしらで自覚している。なんのかのといっても、人間社会ではそういうところで男と女の関係が生まれてきているのだろうし、その関係をギクシャクさせる社会の風潮というのがあるのでしょう。
たとえそういう世の中であっても、この世のどこかで自然でスムースな男と女の関係がいとなまれているのでしょう。
「いい女」であることを見せびらかされても、男の気持ちは萎える。もっといい女は、いい女であることを受難だと思っている。



ボーボアールは、「女は社会によって女にさせられるのだ」といったらしいが、今どきの「いい女」になろうとがんばっている女たちは、自分から進んで「社会によって女にさせられている」のかもしれない。
民主主義とか人間賛歌とか生命賛歌の世の中ですからね。とうぜんそういう心模様の女も登場してくる。
しかしもともと人類の男と女は、おたがいに男としての受難、女としての受難を自覚し、まず人と人の関係になってゆき、そこでそうした受難が癒され、はじめて男と女の関係になってゆくことができた。
女が隠そうとする存在であるのは、それだけ女であることの嘆きが深いからで、それが女の本性なのでしょう。
なのに、今どきのようにいきなり「いい女」を見せつけられたら、男はたじろいでしまう。見せつけられるのと、自分が見つけてゆくのとは違いますからね。
女は隠そうとし、それでも男はそこに女を見出してゆく。人類の男と女は、基本的にはそういう関係で歴史を歩んできたはずです。
しかし今や、男の女に寄っていこうとする衝動が後退し、女は利用価値のある男をあれこれを物色している。べつにそんな女ばかりというわけでもないのだろうが、そんな女がオピニオンリーダーになってしまう近ごろの情況は、やっぱり少し変です。
人類の男と女の歴史は、そんなふうに流れてきたのではない。
女の隠そうとする衝動は、生きてあることのかなしみとともにある。
しかし男と女の関係は、ほんとにややこしい。
女は、男を置き去りにして存在している。もともと男に引き寄せられてしまう存在ではないのだから、利用価値のある男しか相手にしてもらえないのはとうぜんかもしれない。
その代わり、金さえ払えば、どんな男でもやらせてもらえるフーゾクという場も存在する。
と同時に、亭主なんかもう生理的に受け付けない、という関係も、いまどきはいっぱいある。もともと男を置き去りにしている存在なのだから、そういう心模様になってしまうのもまた、女の本性なのでしょう。
女は、女であることをさらしつつ、女であることの受難を自覚している。
女のかなしみは、見られている存在であることのかなしみであり、生きてあることそれ自体に対するかなしみでもある。戦後社会の平和と民主主義と人間賛歌・生命賛歌と、さらには経済成長も加わって、いまや女のかなしみも薄くなってきているのでしょうか。いや、薄くなったはずもないのだが、時代に踊らされて生きていればそんなことも忘れてしまう、ということでしょうか。
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