非日常のお祭り・ここだけの女性論17


女は「非日常」的な存在です。
この世界に対しても男に対してもみずからの生に対しても、どこかしらではぐれてしまっている。そこに女のかなしみがあるのでしょうか。
今どきはちょっと違うとしても、もともとはそういう存在なのだろうと思えます。
男がどうして女に寄ってゆくのかといえば、その「非日常」の気配に引き寄せられてゆくからです。
もちろん生き物としての性衝動が根源にあるのは当然のことだが、そんな衝動は、ほとんどの動物においては限られた発情期にだけ起こることです。
でも人間は、一年中発情している。なぜ人間の男は一年中発情しているようになったかといえば、まあ、それだけ女が男を引き寄せずにおかない存在になっていったということがあるのでしょう。それに、男も女も生きてあることに対する嘆きがどんどん深くなってゆき、そのかなしみといたたまれなさはセックスをすることによって癒されていったからででしょうか。
身体能力の劣った女は、男よりももっと深く濃密にその嘆きを抱えている存在です。その嘆き=かなしみもまた、やらせてあげることによって癒されているのでしょうか。
そのようにして人間のセックスは、男と女の関係から逸脱して人と人の関係としていとなまれるようになっていった。
べつに、そのへんの頭の薄っぺらな心理学者がいうような、人間は観念でセックスをするとか、そういう問題じゃない。
人間は、男と女の関係を超えて、この生に対する嘆きを抱えた存在である人と人の関係としてセックスしている。
男は、女が存在そのものの気配として漂わせている生きてあるこのかなしみに、どうしようもなく引き寄せられてしまう。そのかなしみを携えて女は「非日常」の世界に入ってゆき、男はそれを追いかけてゆく。



まあ普通に考えてセックスは、「非日常」のお祭りであるのでしょう。
吉本隆明氏は、「セックスは<日常>のいとなみである」といったが、そうじゃないのですよね。日常を非日常に染め上げてゆくいとなみなのでしょう。
吉本氏は、人間は「生活=日常」に耽溺してゆく存在でありそこにこそ人間の尊厳がある、とつねに力説しておられたのだが、ほんとにそういうことじゃないのです。人間は「生活=日常」を嘆いている存在であり、「生活=日常」すらも「非日常」に染め上げてゆこうとしている。そうやって、「文化」というものが生まれてくる。ただ食うだけではすまない、そんな日常ですら、美味いものを食うという「非日常のお祭り」に染め上げてしまおうとする。
だから、社会的な条件というよりむしろみずからの身体的な条件として「生活=日常」に深くかかわってゆくほかない存在である女のほうが、より切実に深く豊かに心が「非日常」にワープしてしまう傾向を持っている。
まあ女のオルガスムスは、心が「非日常」の空間にワープしてしまう体験なのでしょう。日常に耽溺してゆく体験では絶対にない。何が「セックスは日常」なものか。
吉本氏は、「女は日常的な存在である」ともいっているのだが、だからこそ心は「非日常」に染め上げられているのですよね。まったく、この人はどんなふうにして女とかかわりセックスしていたのだろうか。女をなめていますよ。そうやって女を自分の都合のいいように解釈し、自分のほうが「非日常」に遊ぶ知性や感性を豊かに持っている、と思い込んでいる。女から何も学んでいないし、女に対するときめきも薄い。女とは男に惚れる生き物だと思っている。つまらない男が女に幻滅されて、自分のようないい男は女に惚れられる、とでも思っているのだろうか。こういうタイプの男がインポになりやすいのですよね。
しかしたぶん、いい男だろうと女に幻滅されるのです。幻滅するのが女の本性なのだから。
まあ、家族主義の男ほど、自己愛が強くて女をなめていますよね。



女は、みずからの心が「非日常」に染め上げられてゆくことによって、死の問題を解決し、死と和解している。西洋の女がオルガスムスのときに「yes」といおうと、日本の女が「だめだめ、死ぬ死ぬ」といおうと、それはまあそういうことなのでしょう。そうして終わったあとに、「ああさっぱりした、もう死んでもいい」という。女は、そういう体験をすることができる。
子供だって、女の子のほうが「非日常」にワープしてしまう心を持っているでしょう。
女は、死を「今ここ」の「非日常」の世界に描いているというか、描くことができる。
死んだら天国や極楽浄土に行けると教えられても、それを「今ここ」の体験として翻訳してゆくことができる。
男は死を、どうしても日常の無限遠点に描こうとする。なぜなら日常の社会で政治活動や経済活動をするように生まれついているから。そうしていつまでたってもこの社会の一員であろうとし続け、けっきょく死と和解できない。恨みがましく夜郎自大で、「これでもういい」と「非日常」にワープしてゆく心の動きが希薄な存在である、ということでしょうか。
男のほうが、ずっと「日常的な存在」なのですよね。
現在では女も「生活=日常」に耽溺しながらこの社会の一員であることに居座り続けようとする存在になってきているらしいが、もともと女は「三界に家なし」の「非日常」を生きる存在なのではないでしょうか。女が存在そのものにおいて漂わせているそういう「孤立性」から学ばないと、男はいつまでたっても死と和解できない。



女は、わりと子供時代のことをよく覚えていますよね。それは、意識が必要以上に未来に向いていないからでしょう。一日一日を「これでおしまい」と死んでゆくことができる。
それに対して男は、つねに意識が前のめりになって未来にばかり向いているから、女ほどには子供のころのことを覚えていることができない。男にとっては未来は現在の延長であり、それはもう無限遠点の天国や極楽浄土まで続いている。男には「死」という区切りが見えないし、納得できない。
それでも人間に「記憶」という機能が発達しているということは、男だってやっぱり無意識のところでは一日一日を「これでおしまい」と点を打ちながら生きているのでしょう。もともと意識とは点いたり消えたりしているはたらきなのだから、そういう心の動きになってくるはずです。
人間の記憶が猿よりももっと発達しているということは、猿よりももっと未来を思うことを断念して生きている存在であるということを意味する。
人間とは、一日一日を「これでおしまい」と点を打ちながら生きている存在なのでしょう。
女の心は、「これでおしまい」と点を打つように「非日常」の世界に入ってゆく。
だから女は、捨てた男のことをぐずぐず思うというようなことはしない。そして、男に「一緒に死んでくれ」とすがりつかれると、ついほだされてうなずいてしまいもする。太宰治の心中癖なんか、いつもこのパターンですからね。
女は、「滅びてゆく」ということを抱きすくめることができる。それは、日常の無限遠点の天国や極楽浄土に向かって旅立ってゆくことではない。「今ここ」の「非日常」の空間に向かって消えてゆくことです。
女は生きてあることを嘆いている存在だから、死後の世界もこの生の延長だというようなイメージは持たない。
「消えてゆく」ことこそ女の望むところであり、それが、人間という弱い猿の普遍的なカタルシスになっているのではないでしょうか。
日常の無限遠点としての神や霊魂や死後の世界を思い描くのが人間の自然ではないのです。人間の自然は、「非日常」の空間に向かって消えてゆこうとすることにあります。
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