解き放たれる・ここだけの女性論18


石川啄木の歌です。
■放たれし女のごとく 妻の振舞う日 庭のダリアを見る
「放たれし女」とは、心が「非日常」の世界に入ってしまっている、ということでしょう。
そんなとき男はもう、なんだか置き去りにされた気分で庭のダリアを眺めているしかない。
石川啄木の妻は、亭主にさんざん貧乏をさせられた女ですからね。毎日ががそういう生きた心地のしないさ中でも、その嘆きをバネにしてすっかり「非日常」の世界に入り込んでしまうときがあったらしい。
このときもし啄木が「一緒に死のうか」といったら、平気な顔をして「いいわよ」と答えたかもしれないですね。
幸せであろうと不幸であろうと女は、「死んだら何もかも消えてさっぱりする」という感慨をどこかしらに抱いている。
たぶん、そのとき啄木は、もうれつに奥さんを抱きたくなったのだろうと思います。それが「庭のダリアを見る」ということなのではないでしょうか。
しかし、今ならさっさと実家に逃げ帰るような結婚だったのに、どうして啄木の妻はそれをしなかったのでしょうね。非日常の世界に入って「消えてゆく=滅びてゆく」ということを抱きすくめてしまったのでしょうか。つまり、あるときから人生に執着することをやめてしまった。それはもう、あの悲惨な戦争にしたがい耐えていた日本人そのままの姿でもあるように思えます。



もうひとつ、非日常の世界に解き放たれてゆく女の歌です。
古事記」のヤマトタケルは東国征伐に出かけるが、相模の国との戦いに敗走して海に逃げ込む。しかし海は大時化(しけ)となって荒れ狂い、全員が海の藻屑になってしまいそうになる。そこで、ヤマトタケルの妻であるオトタチバナヒメがひとり海に飛び込んで海の神の怒りを鎮める、という話。
そのとき次のような歌を詠んでから飛び込むわけです。
■さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも
「さねさし」とは「決心する」という意味です。
オトタチバナヒメは、「私は決心しました、この命と引き換えに武運をおさめてください」と詠っている。オトタチバナヒメヤマトタケルの姉のような存在だったから、「あなたしっかりしなさい、私は海に飛び込んで見せるから、あなただって死ぬ気になって相模の国を平定して見せなさい」と叱咤したのかもしれない。
「燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも」は、「燃える火の中で私の安否を気遣って捜しに来てくれたあなたでないか」ということ。あなたは強い男です、大丈夫、といってやっているのでしょう。
そこで。問題になるのは最初の「さねさし」という枕詞です。
「さね」は「敏感」な心を表しています。そうして「さし」は「紅をさす」の「さす」の体言。「さ」は「さーっ」「さらさら」「さっさと片付ける」の「さ」、スムーズなさま。「し」は「しーん」の「し」、「静寂」「孤独」「固有性」の語義。
「さし」とは、ある思いがスムーズに浮かび上がること。閃くこと。
「さねさし」とはつまり、「一気に刺し貫く」とか、「素早く確かに決断する」というようなニュアンスの枕詞です。
「私は決心しました」とオトタチバナヒメは宣言している。
心が「今ここ」の裂け目の向こうの「非日常」の世界に一気に入り込んでいった。そうなればもう、荒れ狂う海の中だって自分の住処です。死んだらどうなるかということなど何も考えていない。
古代人にはきっと、女とはそういう生き物だ、という思いがあったのだと思います。オトタチバナヒメひとりだけの問題じゃない。日本人は、歴史的にオトタチバナヒメが大好きです。それはもう、日本の女の属性を象徴する表現として長く語り伝えられてきたのでしょう。
いや、女の属性というより、日本人全体の歴史意識そのものに「非日常」の世界に入って「消えてゆく=滅びてゆく」という死生観や美意識があるのだと思います。
とはいえ、オトタチバナヒメもまた、男を置き去りにしていったのですよね。つまり、そこに放たれ輝いている女がいた。
そしてそういう「非日常性」に対するあこがれは、じつは普遍的な人間性でもあります。
たとえば宗教の「殉教=殉死」は世界中のものだが、観念的には天国を目指しているとしても、人間の本性としての無意識においては、「非日常」に入り込んでゆくという心の動きなのだと思います。人間がそういう心の動きを持っていなければ、殉教もまた成り立たない。宗教とは何の関係もなく、「殉死」というのはいくらでもありますからね。日本人なんかどこよりも宗教心が薄い民族なのにもう、ひたすらオトタチバナヒメ的な「非日常」の死の世界へのあこがれとともに、近代の太平洋戦争のときまで殉死をやっていた。



日本列島の男と女は、「非日常」に入ってゆく気分を共有しながら、ときにかんたんにセックスの関係になっていった。
現在の日本列島は、世界一の人妻の不倫がさかんな国だともいわれています。
まあ日本列島は、安直にセックスの関係になってしまう伝統がありますからね。それは、それを禁止する神のいない国だということもあるのだけれど、男も女もかんたんに「非日常」の世界に入ってしまうという伝統の問題でもある。どこかしらに、そうした日本人としての歴史の無意識がはたらいている。
日本の女は、かんたんに心が非日常の世界に入り込んでしまう。
人間のセックスが男と女の問題や観念の問題で片付くのなら、そういう風俗現象も起きない。不倫の人妻だって、生きてあることの嘆きを抱えているのであり、その嘆きを癒す代償として男にやらせてあげているのでしょう。
女にとってのセックスはあくまで「やらせてあげる」という行為です。女としてではなく、人間としてやらせてあげている。
彼女らにとって女であることは「嘆き」の種であり、女であることを罰して女であることを忘れようとしながらセックスをしている
平穏な日常を生きていると、自分を罰する機会がなく、「非日常」に入り込む体験ができなってくる。不倫がいいのか悪いのか僕にはわかりませんが、それはそれでオトタチバナヒメが海に飛び込んでゆくような体験になっているのでしょう。
不倫妻は現代のオトタチバナヒメだといえば、笑われたり叱られたりするだけかもしれないが、日本人の女はもう歴史の無意識としてかんたんに「非日常」の世界に入ってしまう心の動きを持ってしまっている。
彼女らは、男に見せびらかすことができるような「女」などもっていなくても、それでも不倫がしたいのですよね。それは、本質的には男と女の関係ではない、人と人の関係なのです。



日本列島の「おもてなし」は、相手に何がしてほしいかと聞くことではなく、それを「察する」ことにあります。
日本人の人と人の関係は、たがいに自分を「非日常」の空間に置いて向き合うことにあります。それはコミュニケーションが不可能な関係であり、その不可能を飛び越えて察してゆく。つねに自分を「非日常」の空間に置きながら「察する」という感覚を研ぎ澄ませてゆく。これが「おもてなし」のセンスです。
まあ、学問や芸術の探求だって、このセンスがないとうまくゆかないでしょう。日本列島はものづくりの意欲やセンスが発達しているとすれば、この「非日常」に身を置いて「察してゆく」という探究心によるのだろうと思えます。だから日本列島では、書道とか芸道とか学問道とか野球道とか、何でもかんでも「道」という探求の対象になってゆく。あくまでも自分を「非日常」の空間に置きながら「察する」という感覚を研ぎ澄ませてゆく。
それほどに日本列島では、女の「非日常」に入ってしまう心の動きにリードされて歴史が流れてきた。
そしてこの「非日常」は、神や霊魂や死後の世界とは別のものなのです。この日本的なメンタリティは、神や霊魂や死後の世界を知らないのです。歴史的にはさんざんそうした概念とかかわってきてあれこれの呪術をたのみにする習俗もつくってきたけど、日本人の歴史の無意識はそうした概念とは無縁の「今ここ」の「非日常」の空間に対する意識で死生観や美意識を紡いできたのです。
人妻が不倫をできるのも、神や仏の教えなんか知ったこっちゃないのですよね。そんなこととは無縁に、心は避けがたく「非日常」の空間に入り込んでしまう。それはもう、女の本能的な生態だろうと思います。
そしてわれわれ男は、どこかしらで女から置き去りにされているという負い目を抱きながら歴史を歩んできた。どこかしらに、女にはかなわないという気分がある。
女は、死の問題を解決し、死と和解している。たぶん、そういう存在としてこの世の中に生まれてくるのでしょう。
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