フリーセックスの文化・ネアンデルタール人論241

人類の起源が二本の足で立ち上がったことにあるとすれば、それは、集団がフリーセックスの関係になってゆく体験でもあった。そうして、そこに住み着いてゆくものたちはフリーセックスの関係をやめて結束してゆき、そこからはぐれ出て拡散していったものたちは、さらなるフリーセックスの関係に飛び込んでいった。その無限の繰り返しの果てに、ネアンデルタール人(の祖先)が氷河期の北ヨーロッパにたどり着いた。それは、フリーセックスの関係が進化発展してゆく歴史であると同時に、その途中途中の地域に住み着いていったものたちによるフリーセックスの関係を解体して結束してゆく集団性が進化発展してゆく歴史でもあった。まあ、そうした拡散の通り道の地域では、フリーセックスの関係性とそれを解体して結束してゆく関係性の両方を持っている。そうやって一夫多妻制になったり、レイプの生態が定着したりしていった。イスラム国の、あの残虐な処刑も、一種のレイプに違いない。残虐であればあるほど、集団が結束してゆく契機になる。
ひとまずネアンデルタール人の社会には、一夫一婦制も一夫多妻制もレイプもなかった。フリーセックスの社会なのだから、そういう関係性は生まれようがなかった。もっとも現在のヨーロッパはネアンデルタール人の伝統だけではすまない社会になっているわけだが、それでも他の地域よりはずっとフリーセックスの関係性を基礎にした文化を持っている。たとえば彼らが、道ですれ違うだけの相手とも微笑みを交し合うことができるのはフリーセックスの文化であり、それに対して拡散の通り道である中東の一部の女たちは、顔を黒い布で隠している。またヨーロッパは移民を受け入れる歴史を歩んできたし、彼らは肌の色が違うアジア人やアフリカ人の子供でも平気で養子にする。これだってフリーセックスの文化が基礎になっているに違いない。
集団が結束してゆくから、そこからはぐれ出てゆくものも生まれてくる。はぐれ出てゆく歴史を無限に繰り返した果てに、氷河期の北ヨーロッパネアンデルタール人が登場してきた。フリーセックスの文化とは「出会い」と「別れ」の文化であり、「結束」してゆく文化ではない。

極東の島国である日本列島だって、人類拡散の果てのフリーセックスの文化を持っている。
「女三界に家なし」で、日本列島の女は、ヨーロッパの女よりももっと社会的な結束の集団性からはぐれてしまっている。つまり、社会的な正義や道徳にとらわれていないということ、女の非日常性、まあそうやって今どきの主婦は不倫をするのだろうし、死を怖がっていないから男と一緒に死んでやることもできる。まあ人類拡散なんて心中のようなもので、「もう死んでもいい」という勢いがなければ実現することではなかった。
ともあれ、日本列島の女は、良くも悪くもセックスに対する感性が豊かであるらしい。フリーセックスの文化は、死に対する親密な感慨の文化でもある。
女は、どうしてあんなにも死を怖がらないのだろう。
日本列島の文化は、女がリードしてきた。それはもう、そうなのだ。「切腹」とか「特攻隊」というような習俗も、死に対する親密さの伝統を持った歴史風土の上に成り立っているのだろうが、それは、女の特性なのだ。どこの世界だろうといつの時代だろうと、男が女よりも死を怖がらないということがあったためしがない。日本列島の男たちの習俗がそこまで行ってしまったということは、女がさらにそれ以上のメンタリティをそなえていたということを意味する。西洋やイスラム社会では男と女が対立関係にあるような側面を持っていて、男と女のメンタリティの違いがはっきりしている。それに対して日本列島の男たちは、女にリードされ、女のあとを追いかけているようなところがある。「切腹」や「特攻隊」は、男の社会的立場が、女が持っている「死に対する親密さ」に限りなく近づいていった結果なのではないだろうか。
古事記オトタチバナヒメは、嵐に巻き込まれてしまった船の中で進退窮しているヤマトタケルを励ますために、海の中に飛び込んで見せた。日本列島の女にはそういう過激なところがあり、それが「切腹」や「特攻隊」の思想の原点になっているのかもしれない。まあ日本列島では、そうやって女にリードされながら歴史を歩んできたのだ。
現実にそんな女はいない、というなかれ。それはあなたが、そういう過激さを見せるに値するほどの存在ではないからだ。
「もう死んでもいい」という勢いは、女のほうがずっと過激に持っている。そして男たちは、その気配に引き寄せられてゆくし、その気配を失ってこの生やこの社会に居座る風情を持ってくると、なんだかげんなりしてしまう。女を政略結婚の道具にしてきたといっても、自分の人生に執着している女なんか見たくないという男たちの思いがある。それは、女に対する「差別」であると同時に「憧れ」でもある。そして女にだって、人生と決別することのカタルシス(浄化作用)がある。
女がリードする、すなわち女にセックスをやらせてもらうということ。縄文時代はそういう社会だったし、古代の「ツマドイ婚」だって、その流れの上にある。
男は、普遍的に「やらせてもらう」という意識がある。だから、金を払ってセックスをやらせてもらうという「娼婦制度」が世界中にある。縄文時代や古代には貨幣制度なんかなかったから、縄文時代の男たちはヒスイの玉を差し出してやらせてもらっていたし、古代の男たちは戸口に立って歌を差し出していた。万葉集には「詠み人知らず」の庶民の歌がたくさん収録されているということは、庶民にも歌を詠む習慣があったことを意味する。日本列島の和歌は、庶民によるセックスをやらせてもらうためのアイテムとして生まれてきたのであって、べつに貴人たちの優雅な趣味だったのではない。
ネアンデルタール人だって、おそらく「お願いしてやらせてもらっていた」のだ。そして女も、お願いされたら「やらせてあげてもいい」という気になる。男は女に憧れ、女は男を赦す。そうやってたがいに相手の存在を祝福しときめき合ってゆくこと、これが「フリーセックス」の文化だ。
男が女に憧れるということの根源的な心模様は、女が持っている「死に対する親密さ」を追いかけるということにある。そうやって人類の歴史は、フリーセックスの文化を進化発展させてきた。「もう死んでもいい」という勢いでこの生この生活と決別すれば、男なんか誰でもいいし、女なら誰でもいいのだ。