男を置き去りにする・ここだけの女性論19


日本列島では、どうしようもなく男が女に引き寄せられてしまう関係性の文化風土あるのですね。そしてそれは、女が女の本性として非日常の世界に入り込んで、自分から男に寄っていったり男を引き寄せようとする欲望を持っていないということの上に成り立っている。
日本列島の女は、男を置き去りにしている。日本列島の男と女の関係性は、そういう一方通行なのです。
吉本隆明という人は、「恋愛とはたがいの細胞がひかれ合うことだ」といっていますが、そうじゃない。基本的には、男が一方的に引き寄せられてしまうのであり、女は、その目の前にあらわれた男に反応してゆく、というかたちで成り立っている。
つまり女は、自分の非日常の世界に入り込んできた男に反応してゆくわけです。
たとえば、「白馬の王子様」というのも、ひとつの非日常のイメージ世界ですよね。そして、目の前にあらわれた男がほんとうに「白馬の王子様」のように見えたらやらせてあげるということにもなる。女は、女なりに、いろんな非日常の世界を持っているのでしょう。そこから男を見ているし、そこにあらわれた男に「やらせてあげる」という反応をする。



女の非日常性。女の住む世界と男が住む世界はちょっと違う。男の論理がそのまま女にも通じるとはかぎらない。
女は、自分の子供が犯罪を犯しても、必死にかばう。そのとき女は、現実世界の住人ではなくなっている。そこにあらわれた子供はもう、現実世界に引き渡したくない。
ダメンズ、というのでしょうか。つまらないとわかっている男でも、ずるずる引きずられていってしまう。女は非日常の世界に立って男を見ている。その女の非日常の世界にフィットすれば、つまらない男でも執着してしまう。
いいかえれば、女の非日常の世界とかかわることができる男でなければ、女から相手にしてもらえない。
たくさん金があってぜいたくな暮らしができるということだって、それはそれでその女の非日常の世界なのでしょう。
何か現実離れした女の世界がある。



女はなぜ現実離れした世界を持つかといえば、それだけ現実に対する疎ましさがあるからでしょう。
女のいちばんの現実は、自分の体でしょう。その体に対する疎ましさがある。体温の上下動に気分を左右されるし、毎月の生理と付き合ってゆくのはさらに鬱陶しいことでしょう。そんなときは、女として生まれてきたことを呪いたくなる。もう生きてあることもこの世界も、全部疎ましいものになってしまう。そうして、非現実・非日常の世界に入り込んでゆく。
まあ男だって非現実・非日常の世界に入り込んでゆこうとする衝動を持っているし、人間とは生きてあることを嘆いている存在だといえる。
原初の人類が二本の足で立ち上がることは、猿としての生きる能力を喪失する体験だったのであり、そうやって生きてあることを嘆きながら、それを克服したり忘れたりする知性や感性を発達させてきた。
生きてあることに対する嘆きこそ、人間を人間たらしめているものであるはずです。だから人間は、非現実・非日常の世界に入り込んでゆこうとする衝動を本能的に持っている。
つまり、自分を忘れて何かに熱中するということ、それが、非日常の世界に入り込むということです。生きてあることに対する嘆きを持った人間は、自分を忘れて何かに熱中することに大きなカタルシスを覚える。それが、人類の知性や感性を発達させた。
そして女は、男よりももっと豊かにその衝動をそなえており、男は、女のその世界を追跡するようにして女に寄ってゆく。なぜなら、男だって非現実・非日常の世界に引き寄せられてゆく存在だからです。
我を忘れて何かに熱中してゆくこと、すなわち非日常の世界に入り込もうとする衝動こそが、人類の文化を発展させてきたし、その衝動を共有しながら人と人の関係がつくられてきた。
男は、どうしようもなく女の非日常性に引き寄せられてしまうし、女の魅力の根源は非日常性にある。



男にとって興味深い女とは、どのような存在なのか。
非日常の世界に入り込んで、男を置き去りにしている女です。
まあ美人は、その筆頭格かもしれません。美人は、美人であることそれ自体において非日常的な世界から男を置き去りにしている。しかし、付き合ってみて非日常的なものを持っていなくて現実的な日常に耽溺するばかりの女だったら、男もだんだん退屈してきます。
美人といっても、それだけでプロポーズする理由にならなないし、知識や教養といっても、現実をまさぐるだけの知識や教養なら、一緒に暮らして便利な女だという評価にはなっても、魅力にはならない。
けっきょく、魅力的な非日常の世界を持っているかどうか、その感性の問題でしょうか。
だいたい、商品価値の高い男ほど、ちょっと浮世離れしたところのある女を選んで、現実的な知能がいくら高くても、そういう部分には心ひかれないものらしい。
もちろん非日常性といっても、危険で醜いだけの非日常性もある。
人間なら誰だって非日常の世界を持っている。ただ、その世界の魅力や豊かさは人それでしょう。
現実的な「いい女」というだけではプロポーズの決め手にはならない。男は、女が持っている非日常性の感性や気配に引き寄せられてゆく。
外見や知能や性格が同じ程度なら、その感性や気配が決め手になる。いくら「いい女」でも、その感性や気配の魅力を持った女には負けてしまう。
非日常的な気配は、美人だけが持っているとはかぎらない。
まあ、若いということは、それだけで感性や気配が非日常的だということでしょう。そうして、年をとるにしたがって、社会や日常の垢が染み付いてゆく。そういうことは、感性や気配にしっかりあらわれますからね。いくら外見や知能を磨いたってごまかすことはできない。
乳幼児こそ、感性も気配も、もっとも非日常的な存在です。その魅力には、誰もかなわない。
「いい女」がすなわち「魅力的な女」とはかぎらない。「いい女」が増えたけど「魅力的な女」が減ったから、現在の男女の関係が活発にならないのかも知れない。



まあ美人も含めて、魅力的な女とは、非日常的な感性や気配によって男を置き去りにしている女のことでしょう。男は、どうしてもそのようなものに引き寄せられてしまう。
非日常的な感性や気配を持った女は、意識が非日常の世界に向いているのだから、男に寄ってゆかないし、男にアピールすることもしない。男を置き去りにしている。もしもその非日常的な感性や気配が魅力的なら、この社会の構造として男のほうから寄ってくるようになっている。
日本列島の古代や古代以前は、男が盛んに女に寄ってゆくような社会になっていたようです。それくらい女が非日常的な感性や気配を持っていたし、男も女の非日常の世界あらわれる資質をそなえていた。
女の非日常にあらわれる資質とは、女と生きてあることの嘆きを共有できるということです。古代人は、誰もが生きてあることの嘆きを持っていた。そこから「あはれ」や「はかなし」の美意識が生まれてきたわけで、そういう美意識を男も共有していた。共有していたから、歌を贈答するという習俗が成り立っていたわけで、それでセックスの関係が成立していった。
古代人の男たちは、女の非日常的な感性や気配にとても興味があった。
ただ顔かたちだけで女を選んでいたのなら、歌を贈答する意味なんかない。
歌によって女はまず、男の「非日常にあらわれるセンス」を聞いたし、男もまた返ってくる女の「非日常に入ってゆくセンス」を確かめていた。
単純に顔かたちというよりも、表情や身のこなしも含めた女が持っている「非日常の感性や気配」に男たちはときめいていったのです。
源氏物語」の光源氏は絶世の美男のようにいわれているけど、たくさん女が寄ってきたのではなく、いつも自分から寄っていったのですよね。どうしようもなく男が女に寄ってゆきたがる社会だったのであり、それほどに女が吸引力を持っている社会だったのです。
女が顔かたちだけで選ばれる社会だったのなら、宮廷の女たちだって隠れていないでどんどん見せびらかしていますよ。でも、隠れていることが吸引力になる社会だった。隠れているという、その、男を置き去りにしている非日常の感性と気配が吸引力になっていた。
いつの時代であれ、男が寄っていきたくなる女とは、非日常の感性と気配を持った女です。それだけは、いえそうな気がします。
女が寄ってくることなんか、なんの自慢にもならない。ほんとに魅力的な女は、寄ってくることも見せびらかすこともしない。男を置き去りにしながら、男がどうしようもなく寄ってゆきたくなるような非日常的な感性と気配を持っている。
男は寄ってゆけばいいのだけれど、それでも、女の非日常的な感性の前に立ちあらわれることができる何かを持っていないと相手にしてもらえない。それが「生きてあることの嘆き」ということでしょうか。男だって非日常の感性や気配を持っていないといけない。
まあ現実問題としてはいろんな方法論があるのでしょうが、本質的にはそういうことのような気がします。
男を置き去りにしている女が、男の心を慰撫し、男をときめかせる。



男と女の違いというのはやっぱりあるのでしょう。
女はものごとを鮮やかにとらえ体験してゆくことができる。そうやって女の心は華やいでゆく。そこに、女の輝きがある。
そこのところで男の感性は、あいまいです。しかしあいまいだからこそ、深く分け入ってゆくことができるともいえます。そうやって男の心は旅に出る。さすらってゆく。ものごとをはっきり鮮やかにとらえてゆく感性がないからこそ、ギャンブルができる。まあ女を追いかけることも、ギャンブルみたいなものでしょうね。わかっている女なんか追いかけはしない。わからない女を追いかける。非日常的な、男の物差しでは測れない女を追いかける。というか、女を測ることができる物差しを男は持っていない。
日本文化の二重構造というのなら、こういう男と女の違いということもあるのでしょうね。
そうかんたんに、日本文化はこうだとも決め付けられない。たとえば桂離宮や茶室のような「わび・さび」の建築もあれば、日光東照宮のような装飾過剰の建築もある。中宮寺弥勒菩薩のようなひっそりとした風情の仏像が好きな一方で、閻魔大王とか帝釈天のような騒々しい表情の仏像をありがたがったりもする。能と歌舞伎の対比もまた、このようなことでしょうか。
日本人の好きな枕詞の代表的なものを二つ挙げるとすると、「あをによし」と「ちはやぶる」が浮かびます。
「あをによし」は、はるかに遠いものに対するあこがれとかなしみ、すなわち望郷の念をあらわす言葉です。本当は、「奈良」の代名詞でもなんでもない。
日本語には「あを男」「あを女」「あを女房」「あを侍」「青二才」などなど、「あを」を「未熟な」というニュアンスで使う伝統があります。つまり、心や体が定まらない、あいまいである、ということです。「あをによし」の「あを」だって、故郷の奈良を思って心が「今ここ」の現実からはぐれてしまっている、というニュアンスです。
一方「ちはやぶる」は、感動が豊かに湧き上がってくることをあらわしています。だから「荒ぶる魂」のことだともいわれたりするのだが、それだけの意味じゃないし、この言葉の本当の姿はむしろ、女の華やぎや輝き、すなわち心の動きの鮮やかさをあらわしているのではないでしょうか。「ちはやぶる神代もきかず竜田川 からくれなひに水くくるとは」という在原業平の有名な歌は、紅葉の落ち葉に染まった川面のあでやかさを詠っているのでしょう。「あでやかだなあ」という感慨で「ちはやぶる」という枕詞が差し出されているのです。



とはいえ、男であれ女であれ、誰の中にも男性性と女性性の両面があるわけで、日本文化の姿もまた、そのようになっているのでしょう。
日本文化は、ほかの国以上に「男と女の文化」という色彩が濃いのかもしれません。男と女の関係が、この国の文化=美意識をつくってきた。
日本人は、他の国の人たち以上にひとりの人間の中に男性性と女性性の両面を色濃く抱えた民族だいえるのかもしれません。
というわけで、何が男らしいのか女らしいのかということもよくわからなくなってくるのだけれど、それでもやっぱり男性性・女性性という色合いはあるのでしょう。
「ちはやぶる」という枕詞の語感は、何か輝いている女のイメージです。
そして「あをによし」は、男のさすらう旅心を想起させる。
誰しも男性性と女性性の両面を持っているとしても、それでも男は男であり女は女なのでしょう。男は男であり女は女だからこそ、両面性の文化が生まれてくる。日本文化は、男性性と女性性が混じっているのではない。男性性と女性性の両面を持っている。別々に両面を持っている。
だから、国家としてのはっきりとしたひとつの方向性を持っていない。それはもう、一人の個人としてもそうで、アメリ進駐軍マッカーサーからは「日本人はいつまでたっても十四歳の子供だ」といわれた。



品性や輝きを持っている女だからといって、女っぽいとはかぎらない。男っぽくてもかまわない。性格や見かけだけの問題じゃない。個性の問題でもない。
私はこういう女です、と見せびらかされたり居直られても、男はしらけてしまう。
自分を扱いかねて途方に暮れている部分は誰にだってあるのだろうし、ひとつの方向性に邁進できないところが日本文化です。
自分なんかよくわからない……日本人はどうしてもそうなってしまう。わからなくても「ちはやぶる」あでやかさを持っている女がいる。戸惑いはぐれてしまっているのに、その気配そのものがあでやかだったりする。
まあ、自分のことをよくわかっている、などということはあまり自慢にならない。あなたの「自分」とはそのていどにも味気なくわかりやすいものなのか、ということにもなってしまう。
女はこの世界を鮮やかにとらえ、鮮やかに体験する。しかしそれは、自分のことをよく知っているということは別のことです。それは、自分を忘れて体ごと反応してゆくことによって体験される。ややこしい自分を持って扱いかねているからこそ、自分を忘れて体ごと反応してゆく。世界の本質を鮮やかにとらえ鮮やかに体験するということは、それが自分にとって得か損かということではないはずです。変に自分をわきまえすぎているからそういう体験ができない、ということもあるのでしょう。
けっきょくは自分なんか投げ捨てて反応してゆくのだから、やっぱり男は男、女は女なのでしょう。オスはオス、メスはメス、と言い換えてもいい。女の心は鮮やかで、男はあいまいなままさすらっている。十四歳の子供のように。
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