女の時代・ここだけの女性論20


いったい、戦後という時代はなんだったのか。
「女が元気になった」とか「いい女が増えた」などといっても、男からしたら、おまえら勝手にそうやっていい気になっていろ、という話です。女どうしでそうやって自己満足に浸っているだけかもしれない。
男は、自己満足に浸っている女などに引き寄せられはしない。男は、自己処罰して生きている女の、その非日常性に引き寄せられる。その「非日常的な感性と気配」こそ女の輝きです。
『女性の品格』や『おひとりさまの老後』なんて、ふてぶてしく自己満足に浸っている女のただの自慢話じゃないですか。こういう女のどこに女としての輝きがあるのでしょうか。
顔がブサイクでも輝いている女はいますよ。
しかし顔がブサイクなのをもろともせずに自己満足だけは誰にも負けないというような世間ずれした女に、いったいどんな男が引き寄せられてゆくのでしょうか。
世間ずれしてゆくことが自分の勲章だと思っていやがる。戦後社会ではそういう女が大量発生してきたし、高度経済成長とともに男はもっと、止め処もなく世間ずれしていった。
そうして、自己満足で幸せ自慢や人格自慢の書きざまばかりしている本がおおいにもてはやされるようになってきた。自己満足に浸りたい人間がたくさんいる世の中らしい。
男も女も、世間ずれしたものどうしの自己満足のコミュニティをつくってゆくことに熱心で、そういうのを「市民意識」というのだそうです。
それが、今どきの大人の世界ですからね、こちらとしては、まあ勝手にやってくれ、とさびしくつぶやくしかありません。



女の輝きは、「非日常的な感性と気配」を漂わせているところにある。気が強かろうとそうでなかろうと、派手であろうと地味であろうと、です。
まあ、女は女であるというそのことですでに輝いているし、しかしそのような女であることの属性を純粋なかたちで保つことはけっしてかんたんなことではない。誰もが、この社会の制度性に汚されてゆく。
やっぱり若い女というのは、心も体も、汚されていない部分を持っているのですよね。いくら大人の女が「いい女」であることを磨いても、それにはかなわなかったりする。
若い女は、存在そのものにおいてすでに輝いている。それは、身体の輪郭がくっきりしているというか、清潔だ、ということです。身体の孤立性というのか、身体の輪郭が浮世の垢に染められていない。浮世の垢をはじき返している。そうやって、「非日常」の世界を生きている。
大人の女は、幸せで楽をしていようと不幸で苦労していようと、避けがたくだんだん浮世の垢に染められてゆく。
まあ女だけでなく、人間なんてみな、どうして心や体のあれこれのややこしくも鬱陶しいはたらきを抱えて生きていなければならないのかということはあるわけじゃないですか。女はその受難を本能的に受け止めていて、そこから「非日常的な感性や気配」が生まれてくる。
何はともあれ女の輝きとは「孤立性=非日常性」であり、その輝きは傷ましくもある。



美しいとは洗練されているということだとしたら、伝統という歴史の時間にかなう洗練はないのでしょう。歴史の長い時間に洗われながら洗練してきた日本人の「非日常的な感性や気配」というのがある。
いや、人間の、というべきでしょうか。その「非日常性」こそ人間性の基礎であり、そこから人間的な知性や感性が生まれ育ってきた。
この世に「非日常的な感性や気配を漂わせた女」が存在することは、人類の希望ですよ。「いい女」なんか、いてもいなくてもどちらでもいい。
「いい女」は女であることのプロフェッショナルで、「輝いている女」はいつまでたっても女であることのアマチュアで、女であることを嘆いている……というようなこともいえるのでしょうか。
「大人」は人間であることのプロフェッショナルで人間であることに満足しているのかもしれないが、人間であることに嘆いている人間のアマチュアのほうが探究心や好奇心も深くなるし、人間であることのいろんなことに気づいてゆくことができる。
この社会は人間のプロフェッショナルたちが動かしているのかもしれないが、それでも歴史は彼らの意図するとおりに流れてゆくわけもなく、いつだって人間は人間のアマチュアとしてあれこれ模索してゆくしかない存在の仕方をし続けているのではないでしょうか。
まあ、大人の女にこれが「いい女」だと見せびらかされても、男はべつにそんな女にときめくわけでもないし、そんな自己満足のコミュニティには参加してゆかない「途方に暮れた女」という存在の仕方も一方にある。
人間は、自己満足できないようにできているし、そうやって途方に暮れているから他愛なくときめき合う関係にもなれる。たがいに人間であることのアマチュアであるほうがときめき合うことができる。



人の心は、生きてあることの嘆きや死に対する親密さに浸されたところから華やいでゆく。
女は心の底にそういう「かなしみ」を持っていて、そこから華やぎ輝いてゆく。
ほんとは、「輝いている女」「輝いていない女」という比較なんかしたくないのですけどね。女であるということそれ自体ですでに輝いている。その輝きが、男を引き寄せる。
とにかくこの国の現在は、一部の女の「幸せ自慢」や「いい女自慢」に引っ掻き回されすぎている。べつにその女たちが悪いといってもしょうがないのですけどね。そういう女がのさばってくるような社会の状況がある。そういう女だって、社会=時代に踊らされている。
ともあれ、社会=時代に踊らされている女が輝いているはずがない。
女の心は、この生からも社会=時代からもはぐれてしまったところから華やいでゆく。そしてこれは、人類および日本人の歴史的な無意識なのです。
誰もが、どこかしらにこの生からも社会=時代からもはぐれてしまった心を抱えている。
なぜはぐれてしまうかというと、この生や社会=時代に対する嘆きというか鬱陶しさにまとわりつかれているからであり、そこから心が離れてゆくときにカタルシス(浄化作用=快楽)が発生する。人の心はもう、しらずしらずこの生やこの社会=時代からはぐれていってしまう。そしてそこから心が華やいでゆく。
女の中の「かなしみ」とは、おおよそこのようなものではないかと思ったりします。
その「かなしみ」が、女を輝かせる。その「かなしみ」は、じつは、大人よりも若い娘や子供のほうがずっと深く持っている。



人の心は、この生に対する嘆きにまとわりつかれている。「まとわりつかれている」というその心模様から人は生きはじめる。
原初の人類は、密集しすぎた群れの中で他者の体とぶつかりあいながら、その他者の体に「まとわりつかれている」ということの鬱陶しさから二本の足で立ち上がり、心が華やいでいった。
人間は、「まとわりつかれている」ということにとても敏感で、その嘆きから生きはじめる存在です。
日本人は、原始的な民族だから、とくに敏感です。たとえば電車の中で座ったら、たがいの体と体のあいだの「すきま」をけんめいにつくり合おうとする。涙ぐましいほど、なんとかけんめいにつくり合おうとする。それは、身体の実存意識であると同時に、何ごとにつけても「まとわりつかれている」ということそれ自体に対する嘆きを深く抱えてしまっているからでしょう。
だから、人と人の「絆」はできるだけ淡いものしてむやみになれなれしくしない。どんなに親しくなっても、「絆」は淡いものにしておこうとする。たとえ親子や夫婦であっても、親しく関係しながら、それでも「絆」として密着してしまおうとはしない。
女が男の世話をするということだって、親しくしても関係が密着してしまわないための作法だったのです。
日本人は、ほんとに「密着してしまう」ことをいやがる。
昔の人は、たとえ家族のあいだでも「絆」として固定されたものではなく流動的な関係を残しておくために「大家族」という制度をつくっていった。
それほどに日本人は、「まとわりつかれる」ということの嘆きを深く持っている。



今どきの大人の女が「幸せ自慢」や「いい女自慢」を恥ずかしげもなく振り回していることは、それだけ他者に対してなれなれしくまとわりついていっているということです。人間としての関係意識が病んでしまっている、ということです。日本人として、というなら、「まとわりつかれる」ことの嘆きを喪失してしまっている、ということです。
誰にだって自分ひとりの心の世界があるわけじゃなですか。そこに侵入していって「幸せ自慢」や「いい女」自慢を繰り返しながらこうしなさいああしなさいと指図してゆくなんて、ほんとに下品でグロテスクな振る舞いです。
指図されたがっている女がたくさんいるという社会の状況があるわけだが、それはけっして健全な状況ではないでしょう。あの女たちときたら、聡明ぶっているくせに、「健全ではない」という自覚もたしなみもない。
人は、自分ひとりの心の世界でこの世界や他者と出会い、ときめいたりかなしんだりしながら華やいでゆく。
自分ひとりの心の世界を持っている女に、品性と輝きがある。
人の心は、どうしてもこの生やこの世界からはぐれて自分ひとりの心の世界を持ってしまう。人は、そこから生きはじめる。



「もの」という日本語(やまとことば)は、なにかもう日本人の生理に密着したような使われ方をしています。
「ものすごい」「ものがなしい」「もののはずみで」「ばかもの」「おもしろいものだ」「私、女だもの」等々、われわれはまあ、じつにさまざまなかたちで「もの」といっているわけだが、これらの「もの」にはとうぜん共通のニュアンスがあるはずで、そこに日本人として生きてあることの生理というか生きてあることに対する心模様が込められている。
「も」は「藻」「盛る」の「も」、「混沌」「密集」の語義。「の」は「乗る」「のり」の「の」、「接着」「連続」の語義。
すなわち「もの」とは、何かがもやもやとまとわりついている状態をあらわす言葉です。
「ものすごい」の「もの」は、「すごい」にまとわりついて「すごい」を強調している。「ばかもの」は「ばか」がまとわりついているし、「私、女だもの」というときは、「女」にまとわりつかれているか執着してまとわりついていることをあらわしている。「もののけ」は、まとわりついてくる奇異・異変(=け)のこと。
心に何かがまとわりついている……人間が生きてあることは、そういう状態でしょう。生まれてきてしまったことの嘆き、人間として生きてあることの嘆き、生き物はなぜ死ぬのだろうという嘆き、女であることの嘆き、そういうさまざまな嘆きがつねにもやもやと付きまとっている。そういう生きてあることの感慨から「もの」という言葉が生まれてきた。
この生には「嘆き」がまとわりついている……そういう生理的な自覚から、日本人は何かというとすぐに「もの」という言葉をくっつけるようになっていった。
「もの」という言葉は、日本人の生きてあることに対する生理感覚と結びついている。
日本人は、まとわりつかれることの嘆きに対する感受性が豊かで、だからすぐに「もの」ということばを使ってしまうのだが、だからこそ、人やこの生やこの世界にまとわりついて執着するまいという気持ちもある。そうやって、心は「非日常」の世界に向いてゆく。
女は、自分にまとわりついているこの生を嘆いている。まあ基本的に日本人ならみなそうで、そういうこの生=日常から離れた非日常性をもっともビビッドに体現しているのが「輝いている女」なのでしょう。
源氏物語は「もののあはれ」をはじめとして「もの」という言葉が頻繁に使われていて、平安時代の人はというか紫式部は「もの」という言葉の使い方が洗練されているなあ、と思わせられます。
自分が「いい女」であることに悦に入ったり見せびらかしたりするのは下品なことでしょう。「輝いている女」は、この生が「嘆き」にまとわりつかれていることを誰よりもよく知っている。その「非日常的な感性や気配」に向かって男はときめき勃起してゆく。



古代社会には、人と人や男と女が他愛なくときめき合ってゆく構造があった。ただ原始的で単純だったというのではない。そういう人類700万年の歴史の洗練があったということです。
その洗練をひとまず共同体の制度性という文明がぶち壊しにしていったのだけれど、それでも日本列島では、人類の原始性がきわめて洗練されたかたちで発展し守られてきた。
縄文人の合コンや古代の歌垣においてすんなりとほとんどがカップルになっていったのに対して、現代の一割しかカップルが成立しないという合コンのほうが洗練した構造を持っているとはいえないでしょう。
それでもまあ、そんな合コンがさかんになってきているということは、日本人としての歴史の無意識がはたらいているからでしょうか。
古代の女たちは「非日常の感性と気配」を持っていたし、男たちはそれに他愛なくときめいていった。
今どきの『女性の品格』や『おひとりさまの老後』や『野心のすすめ』のどこに「非日常の感性や気配」、すなわちセックスアピールがあるでしょうか。女が自分は「いい女」だと勝手に自己満足してゆくためのノウハウが語られているだけじゃないですか。
女たちが自分は「いい女」だと満足し合っている社会では、女のセックスアピールがみすぼらしくなってゆく。
女のセックスアピールは、女たちが考えているほど単純なものでもないのです。それは、顔かたちだけのことではないし、知性や教養や人格の問題でもない、その女が存在そのものにおいて漂わせている「非日常の感性や気配」の問題です。
その女がこの世に存在することの傷ましさの問題です。いい女自慢や幸せ自慢をしてこの世に居座っている女になんかにセックスアピールは感じない。そういう女は、男にとっての「輝いている女」ではない。



誰だって、この世に生きてあることに対する嘆きはある。その嘆きの深さと豊かさから華やいでゆくのが女の輝きであり、そのことに向かって男はときめいてゆく。
たとえ「いい女」になったって、生きてあることにまとわりついている嘆きが消えるわけでもないでしょう。消えたわけでもないのに、消えたつもりになっていい気になっている。それはつまり、生きてあることに対して鈍感になっているということです。生きてあることに対する率直な心の動きを失っている、ということです。
自分というものを意識して存在しているかぎり、生きてあることの嘆きはつねにまとわりついている。人はそれを、我を忘れて何かに夢中になっているという「非日常」の世界において解放される。
この世界に居座って幸せ自慢やいい女自慢をしているあの女たちが輝いているのではないし、あの女たちがこの世の女のすべてじゃない。
この社会には、いろんな幸せとか欲望達成の装置が用意されてある。しかしそれらをすべて「あはれ」とか「はかなし」と嘆きながら「非日常」の世界に向かって放たれてゆくときに女が輝く。
女が「非日常」の世界に入ってゆくとき、この生が嘆きにまとわりつかれているという自覚が契機になっており、そこから感性が豊かにはたらき華やいでゆく。
いつの時代にもそういう女が一定数いるし、どの女の中にもそういう部分が息づいている。
何はともあれ現在においても、男と女がセックスをしたり恋愛をしたり結婚をするということがなされている。
そして、戦後社会になって、この世に居座りながらいい女であることや幸せであることを見せびらかしたがる女が増えてきたり、そういう女たちがリードする社会になっていったことによって、男と女の関係が衰弱していった。


10
ここまで女の品性と輝きとはなんだろうということを考えてきたのだけれど、正直いって僕にはよくわかりません。そういうものがあるんだよなあ、といえるだけですが、しかしそれは今どきのいい女自慢や幸せ自慢の女性論にあるのではないとも、しんそこから思います。
『女性の品格』とか『おひとりさまの老後』とか『野心のすすめ』とか、ほんとに下品な書きざまだと思うし、それが「現在」という時代なのだろうなとも思います。
女は、男が抱えている俗っぽさやあさましさなんか、さっさと振り払ってしまっている。そこに、女の品性と輝きがある。
あなたは、あなたが女であるというそれだけで輝いている……まあ男は、そんなふうにして女を見ているのであり、男と対等だとか男も女も同じだといわれても困るわけですよ。
女が女であることの困惑と幻滅とかなしみ、まあそんなようなところから女の輝きが生まれてくるのでしょう。
「いい女になりなさい」とか「幸せになりましょう」とか、そんな下品な扇動に踊らされる必要なんか何もない。
「今ここ」に生きてあるということ、その事実からせかされる「せずにいられないこと」がある。あなたにはあなたのあなただけの「せずにいられないこと」がある。なんであんな下品な大人の女の真似をしないといけないのか。
あなたの「今ここ」が輝いている。
『女性の品格』や『おひとりさまの老後』や『野心のすすめ』の書きざまを隅々まで検証し批判し尽くしてゆくことなんか、べつにむずかしいことでもなんでもありません。でもけっきょくは、「あんなものはどうでもいい」というのが結論ですからね。
あなたがあなたであるということのほうがもっと大切で輝いていることであり、あんなつまらない女性論にからめとられる必要は何もないと思えます。
けっきょく誰もがその人だけの「今ここ」に立っているのであり、その人だけの「いまここ」の気配の中に輝きがある。
その、自分だけの「今ここ」の中で途方に暮れながら体ごと世界や他者に反応してゆくところで女は輝くのでしょう。
輝いている女は、この生やこの世界の現実=日常に居座っていない。どこかしらはぐれてしまっている気配を持っている。女はみんな、はぐれてしまっている気配を持っている。
上手に生きてゆくことのできる能力を「品性」というのではない。その人だけの「今ここ」の気配というのがある。まあここではそれを「身体の輪郭の清潔さ=孤立性」というような言い方をしたのだけれど、なんなのでしょうね。それ以上のことはよくわかりません。
何はともあれ人と人は、この生やこの世界からはぐれてしまったところでときめき合っているのだと思います。
どう生きればいいかわかっているとか自分を「いい女」だと思っているとか、そんなのは何か変だし、下品ですよ。
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