幽玄という非日常性・ネアンデルタール人と日本人86


柳田国男の「遠野物語」は、山の中に入っていって山人という異人と出会う物語である。
山の中に入ってゆくと、非日常の心になる。そして、入眠幻覚の体験を起こしやすい。しかしこれは、神や霊魂を信じているとかいないということとは関係ない。人間なら誰だってありえないことを夢の中で体験する。神や霊魂など知らなくても、入眠幻覚の体験はする。
山の中は、そういう「非日常」の空間である。
山の中の暮らしは、不自由でしんどい。そういう嘆きは多いし、閉塞感が募って気が狂いそうにもなる。しかし、だからこそ人との出会いのときめきも豊かに起きる。
妖怪変化という意識があれば、人と出会って妖怪変化のように見えてしまうことはあるだろうし、知らなければよりいっそう美しく見えてときめいてゆくこともあるだろう。
氷河期明けの縄文人の多くは、山の中に入っていって暮らしていた。もしも彼らが妖怪変化や魔物の意識を強く持っていたら、そんなところでは暮らせなかったはずである。その歴史は、1万年続いた。それは彼らが、基本的には妖怪変化や魔物という意識は持っていなかったことを意味する。彼らにとってそこは、よりいっそう豊かな人と人の出会いが生まれる場所であって、妖怪変化や悪霊に悩まされて気が狂ってしまうところではなかった。
まあ山に囲まれた閉塞感で気が狂いそうになることはあったかもしれないが、そのぶん豊かな出会いのときめきが起きてそれを忘れさせてくれた。
この「忘れてしまう」ということもまた、日本的なメンタリティの伝統である。
ただのんびリしているからそういうメンタリティを持つのではない。忘れてしまわずにいられないような生きてあることに対する嘆きを持っているからだ。そうしてときめきとともに嘆きが一掃される。
生きてあることそれ自体を嘆いていれば、生きてあること(自分=身体)を忘れて何かに夢中になってゆくことによってそれを忘れるというカタルシスを体験する。
忘れたい嘆きを持って生きていれば、「忘れてしまう」という体験をする。
日本人は、生きてあることそれ自体を嘆いている存在だから、「忘れてしまう」というメンタリティが伝統にもなっている。まあこれは、日本的というより、原始人に普遍的なメンタリティだったはずである。



縄文人は「嘆き」とともに生きていたがそれをすっかり忘れてしまうときめきも体験していたから、そんな時代が1万年も続いたのだろう。その体験ができなければ、嘆きが薄くなるというかたちを探して社会の構造は変わってゆくはずである。
彼らは、神とか霊魂という概念を知らなかった。だから、山の中で暮らしても悪霊や妖怪変化に悩まされるということはなかった。ただもう、どうしようもない閉塞感の嘆きがあっただけである。そしてその嘆きを忘れてしまう体験として人との出会いのときめきがあり、まあ土器や漆をつくったりすることも、そういう嘆きを忘れて夢中になってゆく体験だったにちがいない。
土偶火焔土器などは、べつに呪術の道具だったのでも妖怪変化をあらわしたのでもない。あくまでも「非日常性」の表現だった。土偶は、人間そのままをあらわすつもりはなかったし、人間以外のものをあらわすつもりでもなかった。
縄文土器に、妖怪変化といえるほどのものは表現されていないし、そんなものに悩まされていたらさっさと山を下りただろう。
彼らは山との親密な関係を持っていて、それは「非日常」に遊ぶことができていたということであり、「非日常=死」との親密な関係を持っていたということでもある。
「さっぱり忘れてしまう」という体験ができなければ、死とは親密になれない。
なんといっても山で暮らすことの醍醐味は、人との出会いに豊かなときめきがある、ということだったのだろう。彼らはもう、他愛なくときめいていった。
女子供だけの小集落に、山道を旅する男たちの小集団が訪ねてきて去ってゆく。彼らはそういう出会いと別れの体験を1万年のあいだ繰り返してきた。
山の中に入ってゆく体験の非日常性が、日本文化の基礎になっている。



日本列島では、仏教伝来とともに神や霊魂という概念が入ってきたことによって、妖怪変化や幽霊・悪霊をイメージするようになった。
しかし、山の中に入ってゆく体験の醍醐味を捨てたわけではなかった。だから、山の中に娼婦の里をつくった。それはもう、縄文時代以来の伝統だった。悪霊や妖怪変化のイメージに悩まされながらも、日本人はけっして山の中に入ってゆくという体験を捨てなかった。
というかそれは、人類に普遍の体験であるのかもしれない。
とくに日本列島では、弥生時代以降も山の中で暮らす人々はたくさんいた。平地で暮らす人々はいち早く呪術や悪霊や妖怪変化の観念の洗礼をうけたが、山の中で暮らす人々にはあまりそんな迷信はなかったのだろう。
とにかく日本文化の基礎は、「山の中に入ってゆく」という非日常の体験にある。それはもう、日本人全体が共有している歴史の無意識である。
日本人は「もののあはれ」を知っている、などという。じゃあ「もののあはれ」とは何なのかと聞けば、たいていの人はうまく答えられない。



もののあはれ」という非日常性。
紫式部が「源氏物語」を書いたころの平安朝の人々は、おそらくわりとかんたんにこの言葉を使っていたのだろう。「もののあはれ」の「ものの」は、もしかしたら「もののはずみ」というときの「ものの」と同じかもしれない。「ものの5分で」ともいう。「楽しいものの夢中にはなれない」などともいう。それが現在まで残ってきているということは、平安朝の人々に固有の感性から生まれてきた言葉でもなかったのではないか。一般的な庶民も、普通にこんな言い回しをしていたのではないだろうか。
「ものの」は、たんなる言い回しなのだ。
だったら、「あはれ」とは何か。これは難しい。われわれはひとまずそれを「非日常」と解釈する。
いちおう一音一義で解釈するなら、「あ」は「あ」と気づくときの「あ」、「は」は「はかない」の「は」で「空間」「空虚」の語義、「れ」は「だれ」「それ」の「れ」で「方向」の語義。「あはれ」とは、「消えてゆく方向」のこと。ひとつのカタルシス。何かにときめいて夢中になっていれば、自分は消えている。
意識が「非日常」に向かってフェードアウトしてゆくことを「あはれ」という。
死んでゆくときは、意識の中から世界は消えてゆく。みそぎをして鬱陶しさをさっぱりと忘れる。人に対する恨みや憎しみをさっぱり忘れる。まあ、この世に「あはれ」の体験はいろいろある。「あはれ」を知っているからえらいというものではないが、「あはれ」を知らないというのは困ったものである。
もののあはれ」の感慨は誰にだってあるだろう、というようなことだろうか。
「もの」とは、「まとわりつく」というようなニュアンスの言葉である。「もののはずみで」といえば、「はずみ」がまとわりついていること。「たのしいものの」といえば、「いちおう楽しさはまとわりついているが」というようなニュアンスだろうか。「私、女だもの」といえば、「女という属性」がまとわりついていること。
もののあはれ」とは、この世のすべてに「あはれ」はついてまわるじゃないか、というような気分のこと。「この世のすべて=森羅万象」を「もの」というのではない。「ついてまわる」とか「まとわりつく」ことを「もの」という。「あはれ」の気分がまとわりついていることを「もののあはれ」という。
人の心はつい「あはれ=非日常」に向いてしまって、この世界のことなんかどうでもよくなってしまう。したがって「もの」はこの世界の「森羅万象=日常」のことを指しているのではない。いつもついてまわっている気分のことを「ものの」という。「森羅万象=日常」なんかどうでもいいという気分がついてまわっていることを「もののあはれ」という。
「森羅万象=日常」が「あはれ」で愛おしいというのではない。
「あはれ」の気分がついてまわっていることを「もののあはれ」という。
まあ小林秀雄本居宣長は「もののあはれを知る」ことを「森羅万象=日常」に対する批評眼、すなわち「もの(=森羅万象)のあはれの道理をわきまえる心」というような言い方をしているが、そういうことでもあるまい。ものの道理だろうと森羅万象なんかどうでもいいのだ。そんなことは忘れて「あはれ=非日常」に遊ぶことのできる心のことを「もののあはれを知る」というのだろう。
人の心はつい山の中に入っていって「非日常=あはれ」の状態になってしまうし、みそぎをすることは、さっぱりと「あはれ=非日常」の心になることだ。
この世界も生きてあることも鬱陶しくしんどいことばかりだ。でも人の心は、そんなことは忘れて山の中に入ってゆき、「あはれ=非日常」に遊ぶことができる。何もかも忘れて無邪気にときめいてゆくことができる。それを「もののあはれを知る」というのだ。
「人生」がどうのとか「正義」がどうのとか「何が欲しい」とか「だれが憎たらしい」とか、どうして「どうでもいい」と思えないのか。その「どうでもいい」という心を「もののあはれ」というのだ。
日本人の心は山の中に入ってゆく、このこととともに日本列島の歴史が流れてきたのだ。



氷河期が明けて山の中に入っていった縄文人は、他愛なく豊かに人と人がときめき合っていた。そのとき彼らには、どうしてこんな関係になれるのだろう、という感慨があったはずである。そこからはじまってその歴史が1万年も続いた。
べつに、そこで彼らは霊魂やら呪術やら悪霊やら妖怪変化と出会ったわけではないし、豊かな日常生活があったわけでもない。
折口信夫は、日本列島の歴史は海の向こうに神の国があるとあこがれたところからはじまっている、といっている。これはもう、完全に違う。
水平線の向こうは何もない、と思い定めたところから日本列島の歴史がはじまったのだ。
数万年前の日本列島は、人類拡散の行き止まりの地だった。人類の歴史とともにどんどん拡散してきた人々が、海(太平洋)と出会い、もうどこにも行けない、ここに住み着こう、と思い定めた場所だった。
原初の人類のアジアに向かう拡散ルートは、ヒマラヤ山脈の南を海沿い通過するルートと、ヒマラヤの北の草原を東に移動してゆくルートがあった。おそらくこの後者の道を移動し、朝鮮半島樺太の両方から日本列島にたどり着いた。そして、南の海沿いの道をどこまでも移動して日本列島にたどり着いた人々もいた。氷河期は今よりも海面が低く、沖縄・台湾などはほぼつながっていたのかもしれない。
というわけで、とにかく雑多な人々が集まってきて、ここが行き止まりだと思い定めた。
また、ヒマラヤの北の草原を移動してきた人々はそれこそ100万年以上海を見たことがなかったわけで、その人たちが海を見れば、そりゃあもう、ここが行き止まりだと思うに決まっている。南から来た人々だって、海の向こうは何もないと思うからこそ、海沿いに北上してきたのだろう。



原始人には、海の向こうを思い描く心の動きなどはなかった。日本列島は、そういう心の動きを捨てて知らないものどうしが他愛なくときめき合うということが起きる場所だった。
まあ、原始時代はみなそうやってときめき合いながら地球の隅々まで拡散していったのだ。そのとき、ひとまず誰もが、「ここが行き止まりだ」と思った。そう思って他愛なくときめき合い、新しい集団になっていった。
まあ死を意識する存在である人間は、それなりに誰もがこの世に生まれてきてしまったという事実から追い詰められている。追い詰められながら、猿よりもずっと他愛なくときめき合っている。
もともとそういう他愛ない傾向が顕著だった日本列島の住民が、縄文時代になって山の中に入ってゆき、さらに豊かに他愛なくときめき合えることを体験した。おそらくそれが、縄文時代のはじまりなのだ。
そうなればもう、山の中の暮らしにくさなど問題ではなかったし、人と人がたくさん集まり一か所にかたまってしまおうとすることも起きなかった。
氷河期明けの大陸では人間の集団がどんどん大きくなってゆく動きになっていったのに、日本列島の社会は逆に、できるだけ小さな集団で済ませながら人と人の「出会いのときめき」が豊かに起きる構造になっていった。
それが「山に入ってゆく」という体験だった。



能は、「山に入ってゆく」という体験を基礎にして成り立っている芸能である。その非日常的な亡霊の話にしても、舞の作法にしても、すべて「山の中に入ってゆく」というコンセプトなのだ。
山の中に入ると、時間の感覚も空間の感覚も、ふだんとは違ってくる。一瞬にして視界が変わってしまったり、方向感覚がなくなってかんたんに道に迷ってしまったりする。能の舞台構成もそのようになっていて、一瞬にして九州から京都に移ったり、止まっているだけでも移動しているように感じさせる仕組みになっている。そのようにして「山の中に入ってゆく」という体験を基礎的なコンセプトにした芸能である。
それと、辻が花の衣装の美を完成させたのは能だともいわれている。
辻が花という染めの技法は奈良時代からあったものらしいが、上に模様を描いてゆくのとは逆に、全体を一挙に染めながら白い部分を模様として残す技法である。このやり方の延長として「小紋」とか「絞り」という精緻な模様も生まれてきた。
日本人は、なぜこんな染め方が好きだったのだろう。
まあこれだって、「非日常」の余白の部分にこそこの生の醍醐味・真髄があるという世界観・生命観・美意識の問題だろう。どうしても「山の中」という非日常の世界に入ってゆきたがる。
辻が花だって、縄文時代1万年に戻ろうとする中世ルネサンスのコンセプトだった。
余白とは、ひとつの非日常なのだ。非日常、すなわち死のイメージである。
中世に生まれた新古今集の和歌は、余白をたっぷり取って書かれていたりする。おそらくこのころから、余白の表現がどんどん発展してきた。
宗教などでも、生きながら死の世界に入ってゆく、などという修行のやり方が流行した。隠遁というライフスタイルもまあ、余白を生きるという作法だったのだろう。
「行間を読む」などともいわれるが、行間=余白=非日常は「何もない」ということであり、この「何もない」ということに反応できる知性や感性を持っていないと、妙にもったいぶった解釈をして行間を読み誤ることにもなる。
たとえば旅に出ることは、ひとつの余白=非日常を生きる行為だろう。そして知識や教養によって旅の醍醐味を味わうというようなことを言い出す知識人もあらわれてくるのだが、余白=非日常の空っぽの頭になって世界(景色)や他者に他愛なくときめいてゆくことの方がもっと豊かで深い旅の醍醐味であったりする。
たとえば西行芭蕉の旅が知識や教養の旅であったかというと、そうではなく、彼らの旅に必要だったのは「他愛なくときめいてゆく心」だったのであり、その「余白=非日常」心を取り戻そうとして彼らは旅に出たのだ。
「ない」ものは「ない」のであり、その空っぽのところから人間的な知性や感性が生まれ育ってくる。



日本人の旅は、「山の中に入ってゆく」体験だった。
おそらく縄文人は空っぽの心で山の中に入っていったのであり、そこで神だの霊魂だのという概念や呪術を身につけていったのではない。ただもう、他愛なくときめき合ってゆく関係をつくることができただけだ。そして能だって「余白=非日常」を表現するための担保として亡霊を描いているにすぎない。そのとき観客は、その亡霊の話に憑依してゆくことによって、日常の生きてあることに対する嘆きから解き放たれて、空っぽの心になっている。
「みそぎ」とは、「余白=非日常」の心や体になることだ。とにかく中世の能には、人々にそういう「みそぎ」の体験をさせる魅力というか説得力があった。
辻が花だって、「みそぎ」の美として追求されていった。
日本文化は、「みそぎ」の体験として洗練してきた。それは「山の中に入ってゆく」という体験であり、その体験に引き寄せられる心の動きは、原初の人類が二本の足で立ち上がったところからはじまっていた。
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