戦後の総括をちょっと・日本人とネアンデルタール人99


このテーマもそろそろ終わりで、「戦後」という時代についての考察をまとめておきたい。
この70年間は、やはり日本史においてかなり特異な時代であり、日本人が日本人としての歴史意識を失っていった時代だった。
この間、未曾有の経済繁栄を謳歌した時期もあったが、それによってわれわれの精神にけっして小さくはない混乱も生まれてきた。
まあ、特異な時代だった。
何しろ、日本列島一万三千年の歴史ではじめて異民族との戦争で壊滅的な敗北を喫し、そのあと短い期間ではあったが国を占領支配されるという体験をしたのだ。
とはいえそれによって大きな苦痛や屈辱を味わったとかということでもないのだが、その体験を契機にして日本人の意識が大きく変わっていったという問題はあるのかもしれない。
その体験が変わってゆくことの免罪符になった、ということだろうか。
日本人の意識が貧窮や苦痛で大きく変わるということはない。もともと農民をはじめとする下層の庶民はそういう歴史を歩んできたし、その嘆きを肯定してゆく文化を育ててきた。日本列島の美意識や世界観や生命観の伝統は、この生のかなしみやいたたまれなさの上に成り立っており、その嘆きとともにフェードアウトしてゆくのが日本人の生き方であり死んでゆき方だった。
日本列島は、貧窮や苦痛で精紳が大きくゆがむということはない文化を持っていた。江戸時代の農民は「みんなで貧乏しよう」という合言葉で生きていたし、悪霊や妖怪変化を怖がりながら祭りを盛り上げてゆくというアクロバティックな習俗も持っていた。



まあ終戦直後は、日本人であることに疲れ果てていたし、もう日本人であってはならないという強迫観念もあったのだろうか。それが、敗戦=占領という体験がもたらした傷であったのかもしれない。
戦争中のことから考えてみよう。
あの悲惨な戦争は日本人の精神に大きな打撃を与えたかといえば、そうともいえない。もちろん兵士にとっても一般の民衆にとっても悲惨でつらく苦しい体験ではあったが、それによって日本的なメンタリティが変わったともいえない。もともとそういう苦難や滅びてゆくことを受け入れる文化であり、だからこそあんな悲惨なところまで追いつめられてしまったともいえる。
ひとまず人々は助け合ってその受難に耐えた。そりゃあたんなる美談だけではすまない大小のいさかいもあったはずだが、全体的には、民衆は懸命に耐え続けた。
戦争、とくに負け戦(いくさ)においては、兵士も民衆も語り尽くせないほどの悲惨さはあるし、戦後にはいろいろ語り伝えられもした。
それでも、あの戦争によって日本人は変わってしまったということはない。
まあ民衆にとっては、心中する男女の道行きを体験しているようなもので、その「滅びてゆく」ということと和解できるメンタリティの文化が伝統としてあった。「あはれ」とか「はかなし」とか「無常」とか、死と背中合わせであること自体が日本人の生きてあるかたちだった。



戦後に変わってしまったのだ。
あんなひどい負け方をしたのだから、戦後だって民衆は、食糧難をはじめとして地を這うような生活を強いられた。とうぜんいろんな暴力や混乱もあったが、阪神淡路や東日本大震災のときでもそうだったように、こんなときこそ助け合おうとする動きも起きてくる。
それは、日本文化が生きてあることの嘆きを共有してゆくことにあって、生きようとするバイタリティを称揚するものではないからだ。
誰もが生きのびようと必死になっていったら、大混乱になるに決まっている。
そのとき民衆のエネルギッシュな生命力が噴出していったとか、そんな劇画チックな物語があったのではないし、なかったからこそその最初の難関を比較的スムーズにクリアしてゆくことができたのだ。
戦争末期の悲惨さを受け入れることができた人々だったからこそ、戦後の窮乏にも耐えられたのだ。
生のエネルギーが満ち溢れていたのではない。
相変わらず人々は生きてあることのかなしみを共有していたのであり、戦後の人々がまず最初に求めたのは、かなしみを癒す娯楽だった。「りんごの歌」や「大利根月夜」などの流行歌はたちまち大ヒットしていったし、男たちは食い物を我慢してでも、酒を飲み、娼婦を買った。
日本文化は、生きのびようとするコンセプトではない。生きてあることのかなしみやいたたまれなさを宥める文化なのだ。誰も生きのびようとなんかしていない。「今ここ」が癒されればそれでいい。そして、生きてあることのかなしみやいたたまれなさは、他者を生かすことによって癒される。彼らはそのようにして助け合っていったのであって、生のエネルギーがあふれていたからではない。
弥生時代奈良盆地に人が集まってきたときに最初につくったのは、農地でも住居でもなく、お祭り広場だった。日本人は、つねにお祭り広場=娯楽を必要とする歴史を歩んできた。
人間に生きてあることのかなしみやいたたまれなさがないのなら、娯楽など必要ない。
終戦直後の人々だって、何はさておいても娯楽が欲しかった。



戦争が終わって大喜びできるのは、勝った国の人たちだ。
あんな無残な負け方をしたら、生き残ったことの負い目と戸惑いの多少は誰にだってある。それをぬぐってゆくためにも、他者が生きるための手助けは、何かしらしたくなってしまう。
積極的に子づくりをしていったのも、そういうことであったのかもしれない。まだまだ安心して子育てができる状況ではなかったのに、敗戦の翌年から一挙にベビーブームが起きていった。その新しい命を生かすということには、彼らの祈りのようなものが込められていたのだろうか。
もちろん戦勝国アメリカでもベビーブームにはなっていたのだが、食うものもろくにない敗戦国でも負けずに子づくりに励んだというのは、なにやら傷ましくもある。子供をつくってしまったら、自分が生きのびることなどそっちのけにならないといけないのだが、そんなことはどうでもよかった。そのとき彼らは、自分が生きてあることのかなしみやいたたまれなさを、他者を生かそうとする行為で上書きしようとしていた。ひとまずこれが人間の普遍的な生きてあるかたちであり、日本文化の伝統でもあった。
戦中から戦後にかけての日本人には幾多の苦難があったにせよ、その時点まではまだ日本人の精神が変質してゆくということはなかった。彼らは、いかにも日本的だった。
嘆きそれ自体を生きながら「非日常」に向かってフェイクしてゆく……これが、縄文以来の日本人の生きる作法だった。
ともあれ、こうして「団塊世代」が戦後という新しい時代の歴史に登場してきた。



人間とは、ほんとにおかしな生き物だ。衣食住の事情などおかまいなしに子づくりをしてしまう。これはもう原初以来の生態であり、現在の南の飢餓地帯でもどんどん人は増えている。
人と人が他愛なくときめき合いセックスをしまくっている社会では、人口爆発が起きる。
衣食住の事情が改善されてゆくのはそのあとのことだ。
敗戦直後のこの国だって、いわば飢餓地帯だった。
で、戦後十年もたつとかなり人口が増え、衣食住の事情を改善しなければならない事情に差し迫られていた。また、戦争中と違って改善してゆける可能性があって、そのことのよろこびもあったのだろう。
そこから、なりふりかまわず経済活動に邁進していった。もともと日本人はものづくりの才能があったし、たちまち欧米に追いつき、一部では追い越しさえしていった。その間、約20数年。そうして80年代に入ると、世界の経済は日本のひとり勝ちのようになってバブルの繁栄がやってきた。
おそらく、この経済発展の動きとともに日本人は変質していったのだろう。
生きてあることの嘆きとともに「非日常」に向かってフェイクしてゆく文化をはぐくんできた民族が、わが世の春を謳歌して「生活=日常」に耽溺していった。
「山の中に入ってゆく」文化から「広い平地を駆け回る」文化へ、ということだろうか。



敗戦直後の人々には、生まれ出てきた新しい命に対する祈りと希望があった。それはもう社会全体の空気だったのであり、そんな心で育てられた団塊世代にみずからの命に対する嘆きは希薄で、その逆のナルシズムのようなものがあった。「生活=日常」に耽溺するとは、みずからの命に耽溺するということでもある。
団塊世代の都市部の中学・高校ではたとえば一クラス60人一学年12クラスというような状態で、彼らは大きなひとかたまりとして育てられたにもかからず、不思議にひとりひとりにはみずからの命に対するナルシズムがあった。そしてそのナルシズムを共有しながら、連帯感も強かった。野球だろうとサッカーだろうと自分たちの学年だけのメンバーで足りるくらいで、上下の世代とはあまり遊ばなかった。
ホームドラマが大流行した時代の彼らの家族が持っていた絆は、彼らにみずからの命に耽溺してゆくナルシズムと、他者との関係に対する強い絆意識をもたらした。
この絆意識がどんどん強くなっていったのが、戦後という時代のひとつの特徴だった。ひとまずこの傾向はその当時の日本人の誰の中にもあったが、団塊世代においてはとくに顕著だった。
絆意識は、ナルシズムの上に成り立っている。生きのびようとするみずからのナルシズムを保証してくれるのが他者との絆である。



全共闘運動は「連帯」という言葉がほんとに好きだった。そしてマニアックな知識欲が旺盛で、すぐにその知識を引用したがるくせもあった。知識との「連帯=絆」ということだろうか。全共闘運動の理論はほとんどが引用の上に成り立っている。
彼らのその絆意識は、自分の命との絆に執着するナルシズムからはじまっていた。
人口が都市に流入して核家族が増え、ホームドラマが流行し、しかも人々の暮らしが右肩上がりで豊かになっていったこともあって、社会全体がだんだんそのような傾向の意識になっていったのだが、これは明らかに日本列島の伝統の「絆を淡くしながらときめき合ってゆく」というコンセプトからは反転してゆく現象だった。
彼らは、自分の命との絆に耽溺し、それを保証してくれる他者との関係の絆に耽溺し、「生活=日常」との絆に耽溺していった。
そして彼らは、「労働者(大衆)の連帯」という言葉も好きだった。
このときの「労働者(大衆)」の対語は、もちろん「資本家」である。「労働者(大衆)」は、金や財産を溜め込むことばかりしている「資本家」と違って日々の暮らしに追われる「生活者」である。彼らはひとまず世界をこのような構図でとらえた。そうして、吉本隆明をはじめとする「生活者の思想」を標榜する知識人が登場し、学生たちのカリスマになっていった。
これ以後日本列島はもうこの思想が主流になってゆき、皮肉なことに誰もが金や財産を溜め込む資本家のような暮らしをしていたバブルの時期になっても、やっぱり「生活者の思想」が大いに支持されていた。
つまり、「生活者」は、「資本家」とか「インテリ」という言葉との対語ではなく、労働者(大衆)であれ資本家であれインテリであれ、今ここの「自分」や「生活」や「日常」に耽溺してゆくもののことをいうのだ。だから、みんなが資本家やインテリのようになったバブルの時代でさえ、なんの矛盾もなかった。むしろこの時代こそ、誰もが「自分=生活=日常」に耽溺する「生活者」だった。
戦後の経済発展は、日本人を「自分=生活=日常」に耽溺する「生活者」にし、その代償として伝統的な「非日常に向かってフェイクしてゆく」という歴史意識を失っていった。



あの悲惨な戦争や戦後の窮乏は日本人を変えることはなかったが、そのあとの経済発展とともにしだいに日本人は変質していった。もともと「嘆き」の文化で歴史を歩んできた民族が、人生を謳歌するライフスタイルに変わっていった。貧乏だった農民が土地成金になって人格が変わってしまうようなことだろうか。
まあ、日本人の遺伝子ともいうべき無意識レベルのところはそう変わってもいないのだろうが、表層的な心の動きや行動様式は大いに変わってしまった。
今だって、「市民」や「生活者」として成熟することが人間の値打ちであるかのように語られている世の中だ。そういう「自分=生活=日常」に耽溺してゆくことが人間の自然だと、彼らは本気で思っているらしい。
しかし、人間も日本人も、そんなわけにいかないのだ。彼らに日本人の歴史意識を説いてもせんないことかもしれないが、この「非日常に向かってフェイクしてゆく」という人間ほんらいの日本人ほんらいの心の動きを失ってしまったことによって、現在のこの国がどれほど混乱し美意識や世界観や生命観を貧しくしてしまっているかということは、やっぱりあると思う。
戦争や敗戦の窮乏のさなかでも、日本人まだまだそうした美意識や世界観や生命観を残していた。
なのに現在のこの国の団塊世代をはじめとする大人たちのいうことや顔つきのみすぼらしさは、いったいなんなのか。
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