それは神のしわざか?・神道と天皇(52)

神道における「かみ」はあくまで「非存在」の対象であり、この世界をつくったのでも支配しているのでもない。
自然の不思議な現象や人生の運命のことを「神のしわざである」などといったりするが、それは神のことをすでに知っているからであり、そういうことができる「存在=物質」だと思っているからだ。
しかし神道の「神」はあくまで「存在しない」対象なのだから、この生やこの世界にどんな影響も及ぼさない。人の心は「非存在=異次元の場」に対する視線を持っており、それを「かみ」という。
たとえばわれわれが目の前の何かを見るとき、じつはその何かと自分とのあいだに横たわる「空間」も同時に見ているのであり、だからそれとの「距離」がわかる。この「空間」は「非存在=異次元の場」にほかならない。じっさいには「空気という物質=存在」であるが、主観的な意識においては「非存在の場」として認識している。
たとえ自然の不思議な現象に遭遇しても、人間性の自然においては、けっして「神のしわざだ」とは思わない。神のことを知らないものが神を思い浮かべることなどできるはずがない。神のことをすでに知っている文明人だけがそう思う。
山の中に迷い込んで聞いたこともない不思議な音が聞こえてきたとする。「何者か?」と思う。どんなに怖がっても、ただそれだけのことで、「神のしわざだ」とは思わない。そのとき、この世とは別の「異次元の世界」があると思っても、神のことを知らなければ、神の声だとは思わない。
音は、じっさいには物質だが、主観的には「非存在」のものだと認識されている。人間は「非存在=異次元の場」を認識している存在だから、それが「非存在=異次元の世界」から聞こえてきたように錯覚する。
日本列島の古代人は、「神の存在」を認識していたのではない、「神が存在しない場」を「かみ」と認識していった。

「かみ」は何もしてくれないし、罰も下さない。「存在しない」対象を「かみ」という。「かみ」は「言葉」として存在し、「言葉」として信じられている。「言葉」とは「非存在」の対象である。
「言葉」は「脳」の中に貯蔵されてあるのではなく、「意識」と同じように脳の外の「異次元の場」で生成している。
「わからない」という認識のほうが、ずっと根源的で、ずっと高度な認識なのだ。
存在しないものを認識することはできない。「わからない」とは、「非存在」の対象と向き合っている状態であり、「存在しない=わからない」と認識している。
「意識」だろうと「言葉」だろうと、「存在しないもの」に違いない。しかし宗教者たちはそれを「存在=物質」であるかのように信じて「言挙げ」してゆく。
古代人が「言挙げしない」と自覚し合っていたということは、「意識」や「言葉」を「存在ではない」と認識していたことを意味する。つまり古代には、「呪術」などなかったということだ。そしてそれは、「存在しない=わからない」という認識と向き合って生きていたということでもある。
「言挙げしない」とは、神におまかせしておけば神が叶えてくれる、ということではない。現在よりもはるかに思うに任せない生存を強いられていた彼らが、そんな虫のいいことなど発想できるはずがないではないか。
どんなに理不尽な現実でも、すべて受け入れて生きてゆくしかない。みずからに与えられた現実を変えようとしたり何かのせいにしたりすることなんかできない。べつに古代人でなくても、人間なら誰だってそのようにして生きている。美人に生まれてきたかったといっても、今さらどうなるものでもない。生まれてきてしまったということ自体が、すでにもう取り返しのつかない事態なのだ。
誰もが、みずからの現実=運命を受け入れて生きている。死んでゆくという現実=運命も受け入れて死んでゆく。

まあ、怖かろうと怖くなかろうと死ぬときはみな死んでゆくわけで、たぶんそのことを心配する必要はない。問題は、そのことを受け入れて生きているかどうかということにある。そうやって生きていなければ死が迫ったときに慌てふためかねばならないということ以前に、この生のいとなみそれ自体が、「死=異次元の場」に超出してゆくというかたちで活性化する。「意識」は、「異次元の場」で生成している。
イヤホーンで音楽を聴けば、たとえば鼓膜がびりびり響きながらその音が頭の中の脳みそをかき回すように聞こえてくるかといえば、ぜんぜんそんなことはない。音は、あくまで体の外で聞こえている。鼓膜の震えとして音をとらえるのなら、音源の位置を察知することはできない。
意識が生成している場も、このことと同じだ。意識は、身体の外で生成している。ただ、音と違って、「身体の外」といっても、環境世界ではない。それは、身体の内でも外でもない「異次元の場」で生成している。そして「異次元」なのだから、そこはこの生の延長上にあるのではない。この生の延長としての「天国」や「生まれ変わり」とはわけが違うのだ。どこまで延長しても「異次元の場」にはたどり着けないし、すでに「今ここ」で起きていることでもある。この生そのものが、この生ではない「異次元の場」を抱えて生成している。そこは、この生の場であって、この生の場ではない。
われわれの意識は、永遠に認識することが不可能な「異次元の場」を思い描くことができる。それは、直接認識することはできないが、「言葉」としてなら認識することができる。すなわち「かみ」という言葉として。
古代人は、そのようにして漢字の「神(シン)」を「かみ」と読み換えていった。
仏教説話において、仏は極楽浄土の中心にいて、この世界支配している存在でもある。この世界と極楽浄土はつながっている。まあそこのところは、キリスト教イスラム教においても同じ世界観になっている。しかし仏教の「神」は、どこからやってきたのかもわからない妖怪変化のような存在、すなわち「異次元の場」の存在として描かれている。古代人はそこに興味を抱いたのであり、だから神道の伝統においては妖怪や悪霊も「かみ」として祀られていたりする。

人が「わからない」という問いを抱くことは、「異次元の場」を思い描くことだ。それは、「信じる」という思考態度の宗教とは対極の、「疑う」という思考態度であり、それによって人類の知性や感性は進化発展してきたし、それによって子供の知性や感性は育ってゆく。
人が何かを知るということは、それによって新たないくつかの「問い」と出会うことであり。そうやって人類の知性や感性は進化発展してきた。
何かを知ってそこで立ち止まってしまえるのなら幸せなことだし、それはその知識を「信じる」ということであり、ひとつの宗教的な態度であるといえる。つまり、そうやって「神」と出会っているのだ。
今どきは、「疑う=問う」という人間性の自然としての思考態度が希薄になってきている。情報化社会などといって、誰もが知識=情報の収集を競い合っている。「問い=探究」という思考態度を忘れ、巷に氾濫する情報をかき集めて知ったかぶりをする人間ばかりがあふれている。
「知っている」ということをなぜ自慢したがるのか。知ることくらい、五つの子供でもできる。知識を収集することと、「なぜ・何?」と問うて考えることは違う。
たとえ大学教授や有名なインテリだろうと、立派なことをいっているように見えても、じつはけっきょくどこかから拾い集めてきた知識の受け売りをしているだけにすぎなかったりする。そして、それこそが宗教的な思考なのだ。
宗教者はすべてのことが神によって解決されているという場に立っているし、情報化社会の今どきは、宗教など信じていなくても、誰もが知らず知らずそういう思考の罠に陥っている。すでにわかっていることを知ろうとしているだけで、わからないことについて問おうとしているのではない。だれかがすでに解決しているように見えても、ほんとうにそうだろうかと疑ってゆく態度がない。
高名な知識人だろうと、「知の荒野」に立とうとする覚悟も立てる能力も持っていない。
宗教者にとってはすべての問題がすでに神によって解決されているのであり、その解答を収拾しようとしているだけだし、現代社会は宗教に汚染されてそういう思考方法ばかり蔓延してしまっている。
現代人は、「人間とは何か」とか「思考とは何か」とか「意識とは何か」とかということを、ほんとに本気で考えているだろうか?少なくとも神道を生み出した古代の民衆は、神の教えとか神によってすでに解決されていることを知ろうとしたのではなく、「神=かみ」とは何か、と問うていったのだ。彼らの心は、この生やこの世界について無防備だった。それはつまり、わかろうとしてもわかりえない「根源」について考えようとする覚悟があったということだ。彼らは他愛なく祭りの賑わいの中で浮かれ騒ぎながら、しかし人として本能的にそういうことと向き合っていた。
あえて大雑把にいってしまえば、神道は宗教ではなく存在の根源を問う「哲学」であり、宗教よりももう一段高いレベルの思考の上に成り立っているのだ。

人は、意識のはたらきの場を意識する。その場がどこにあるかということは、どう考えてもわからない。それでもその「非存在の異次元の場」があるということは知っている。「わからない」ということを知っている。
人は、「わからない」という問いを生きている。生きられなさを生きている、と言い換えてもよい。生きられなさに身を置いて生きようとする、そこにこそ、人類の知能を発達させた「進取の精神」がある。人は、本能的に「生きられなさ」に対する愛着を持っている。そうやってできないことをしようとするし、わからないことをわかろうとする。そしてその「生きられなさ」に対する愛着ゆえに、「生きられない弱いものを生きさせようとする」介護の習性を普遍的に持っている。
人が生きてあるのは、生き延びようとする欲望を持っているからでも、生きてあることに尊厳や価値を見ているからでもなく、誰もが他者が生きてあることを願っているからであり、「生きられなさを生きている」存在だから「生きてくれ」と願われるのだ。生きる能力を持ってすでに充足している存在に対して「生きてくれ」という願いが生まれてくる必然性も必要もない。
人のセックスアピールや人間的魅力は、「生きられなさを生きている」ことにある。
この生は、生きられない弱いものが生きることによって証明される。この生は、「生きられなさを生きる」ところでこそもっとも活性化している。そうやって人は、あれこれがんばって何かを考えようとしたり、何かをしようとしたり、何かをつくろうとしたりしている。それは、生き延びるためのそうした先験的な欲望がはたらいているというのではなく、そのようにせかされてしまうかたちで生きているというだけのことではないだろうか。

人は、永遠にわからないものを問い続けて生きている。
「見える」「わかる」という認識は、「見えない」「わからない」という体験の上に成り立っている。
意識は、「見えない」「わからない」という認識から生きはじめる。「認識する」という体験の基礎はそこにある。そして、たえず「見えない」「わからない」という認識にたどり着く。ひとつのことが「わかる」ということは、そこでいくつかの「わからない」ことに出会うということだ。そうやって意識は発生し続けるのであり、この生もこの世界も移ろい流れてゆく。
意識のはたらきの自然においては、「未来」を前にして「わからない」と反応しつつ、「今ここ」の中に飛び込んでゆく。そして「今ここ」にたたずむことの「不可能性」にせかされて移ろい流れてゆく。
人間性の自然においては、「生きたい」のでも「死にたい」のでもない。この生は、生きることも死ぬこともできない状態に置かれていることの「嘆き」にせかされ、この世界の森羅万象に驚きめきながら移ろい流れてゆく。
意識は、「見えない」わからない」という状態を契機にして発生する。意識とは、蛍やクリスマスの電飾のように点いたり消えたりしながら発生し続けるはたらきであり、たえず消え続けなければはたらき続けることができない。そしてその「見えない」「わからない」という状態を契機にして、「かみ」という「異次元の場」が認識されてゆく。
意識のはたらきにおいて、この世界は出現と消滅を繰り返している。世界が出現することのめでたさを「出会いのときめき」といい、「かみ」という。世界は「存在する」のではない、「出現する」のだ。

山の中でこの世ならぬ不思議な音が聞こえてきたとき、この生に執着する現代人は怖がり「神のしわざ」かと思う。しかし山の中で暮らして日常的にそのような体験をしていた縄文人が怖がったり神を思ったかといえば、そんなはずはない。自然の理不尽なはたらきをいちいち「神のしわざ」だということにして怖がっていたら山の中では暮らせない。その音の「他界性=異次元性」はむしろ「めでたい」ことであり、彼らはつねに「異次元の場」と向き合って生きていた。何はともあれ日本列島の住民はそうやって1万年の歴史を歩んできたのであれば、「異次元の場」=「かみ」を思うことはわれわれの「伝統」であり、それはまた人としての「本能(のようなもの)」でもある。
その音それ自体はあくまでこの世に出現する現象であるが、「非存在=異次元の場」から発せられていると思うわけで、生きられなさを生きていた縄文人にとってはそうしたこの生の外の「非存在=異次元の場」はひとつの救いだったし、仏教伝来のころの古代人はその伝統の上に「神=かみ」を見出していった。
仏教伝来といういわば時代の一大転換期に遭遇した日本列島の古代の民衆が、なぜ仏ではなく仏の弟子である「神」に思い入れを強くしていったかということは、神道の発生について考える上でとても大切な問題なのだ。「古代人はまるごと神を信じていた」といった本居宣長は、そのことをちゃんと考えていただろうか。
ただ単純に「まるごと深く信じていた」といってしまうだけで済む問題ではないのだ。彼のような神道オタクはそれだけですむかもしれないが、われわれにとってはそれだけですむはずがない。けっきょく日本人は、それ以来「神道における<神=かみ>とは何か?」という問題をきちんと考えないまま現在に至っている。
今どきの神道論なんか、ぜんぶ不満だ。ただ僕は、山姥さんの「かみとは何かということが問題だ」といっておられたその本気の「問い」だけを信用している。
どんな偉い学者だろうと、神社の神官だろうと、みんな本気で問うていない。