「愚民」であることの大切さというのもある・神道と天皇(25)

古事記に関わっていたらきりがないので、ひとまず中断して次に移ることにする。
とにかくここでいいたいことは、古代以前の日本列島に宗教(アニミズム)なんか存在しなかったということ、そしてそれをもとにして天皇の起源のかたちを考えてみたい。
日本列島の歴史は、氷河期明けの縄文時代からはじまっており、その歴史の流れは弥生時代とのあいだに断絶があるのではない。日本列島の伝統風土について考えることは、縄文時代の一万年を勘定に入れないことには成り立たない。弥生時時代に渡来人が入ってきたところからはじまっているとか、そんな底の浅いものではない。
弥生時代の渡来人なんか全人口の1パーセントにも満たない、という説もある。ましてや内陸部の奈良盆地にやってきた渡来人にいたっては、ほとんど皆無といってもいいに違いない。
また、その渡来人にしても、朝鮮半島の船でやってきたのではない。日本列島の船があちらに行って連れてきたのだ。古事記には、対馬がすでに日本列島の一部であったことが記されている。そこは 朝鮮半島と目と鼻の先で、九州からはずっと離れている。それでもそこが日本列島の一部であったということは、朝鮮半島の船がそこにやってくることなどほとんどなかったことを意味する。
対馬にすら来ることができない人々が、どうして大挙して九州や出雲にやってくることができよう。出雲や九州に住み着いて青銅器や鉄器の精錬法を伝えた渡来人は、出雲や九州の船が朝鮮半島に行って連れてきたのだ。そのころ、朝鮮半島との航路は、九州から壱岐対馬を経由するルートと、出雲から隠岐の島を経由するルートとの二つがあったらしい。
まあ、漂流して日本列島にたどり着いた船もあっただろうが、人口比の勘定に入れられるほどでもあるまい。
弥生時代の渡来人はごくごく少数で、日本語(やまとことば)を覚えなければ日本列島に住み着くことはできなかった。言葉だけでなく、彼らが日本列島の文化を塗り替えてしまうような勢力になっていたはずがない。
縄文時代から弥生時代にかけての社会は、狩猟採集文化から農耕文化へという劇的な変化があったが、それは渡来人によってもたらされたのではなく、縄文人自身がそのように生活を変えていっただけなのだ。
そのころ日本列島の気候が寒冷乾燥化して樹木の植生が変わり、採集生活の維持が困難になってきていたし、それまで湿地帯だった平地が干上がってそこで農業をしたり集落をいとなんだりすることができるようになってきてもいた。
稲作をはじめとする農業の知識や技術はすでに縄文時代から獲得されていたが、それを本格的に始めることができるような自然環境にはなっていなかった。縄文時代の広い平地のほとんどは湿地帯で、多くのの集落が山間地や台地にあり、狩猟採集生活に適していた。
縄文時代が一万年も続いたわけは、そういう自然環境になっていたからだし、四方を荒海に囲まれた場所で異民族との関係がなかったということもあるのだろうが、環境が変わる弥生時代にはそういう生活に移行していけるだけの準備はすでに整っていたのだ。
奈良盆地の人口増加が本格化してきたのは弥生時代からであり、そこは最初、一面の湿地帯だった。それでもまわりの山々で暮らす人々がそこに下りて行きたがったのは、ただ採集生活が困難になってきたというだけの理由ではなかったはずだ。
初期のそこはほとんどが湿地帯だったのだから、最初につくられたのは田や畑でも住居集落でもなく、その限られたスペースにまず「祭りの広場」が生まれてきたのだ。
邪馬台国だともいわれている纏向遺跡は弥生後期のものだが、そこは「祭りの広場」であり、農耕地や集落の跡はまだ見つかっていない。
弥生時代奈良盆地は、「祭りの広場」を拠点にして発展していった。
はじめに「祭りの広場」があった。このことは、人類の歴史のもっとも重要で普遍的な問題のひとつであり、もう歴史のはじめから「新しい人間集団の場所」はつねに「祭りの広場」としてはじまっているのだ。
どこからともなく人が集まってきていつの間にか「祭りの広場」が生まれてくる、という生態とともに「人類拡散」が起きていったのだ。
人が定住すれば、この生やこの世界の構造(=秩序)について考えるようになってゆく。であれば、新しい土地に移ってゆくということは、その「構造(=秩序)」をいったん白紙にして生きなおすということにほかならない。無限に移住を繰り返してとうとう世界の隅々まで拡散していった人類の心の底には、そういう「生きなおすことをしながら生きる」という歴史の無意識が息づいている。まあ生きものの細胞はたえず新しくつくり変えられているのだから、それはもう生きものとしての本能のようなものだともいえるわけだが、縄文時代一万年の歴史はそのような心性とともに流れてきたのだし、だからこそ弥生時代の生活の変化にスムーズに移行してゆくことができた。
江戸時代から文明開化の明治時代へのスムーズな移行にしろ、太平洋戦争の無惨な敗戦から戦後復興への移行にしろ、これはもう、日本列島伝統のお家芸なのだ。
そしてこのことは、われわれが基本的に宗教を知らない民族だということを意味する。宗教は、その世界観をけっして変更しない。だからこの地球上には、いまだに宗教原理主義が存在している。それに対して宗教を知らないこの国の世界観は、どんどん変更されてゆく。それは、世界観を持っていないということであると同時に、世界はどんどん変化してゆくという世界観を持っているということでもある。
われわれは、「天国」とか「極楽浄土」という最終的な世界のかたちを知らない。「神」という最終的な存在も知らない。神道の神は、隠れていてけっして見えない。それはとても非宗教的な世界観であり、われわれのめざす最終的な世界などどこにもなく、われわれはたえず「世界のはじまり」を生きなおしながら生きている、ということだ。

祭りが宗教になってゆくのではない。宗教が祭りに寄生してくるだけのこと。
宗教のコンセプトが世界のヒエラルキーの秩序を構築することにあるとすれば、祭りはそのヒエラルキーを解体しながら盛り上がってゆく。
京都の祇園祭は、最初はこの生の鬱陶しさからの解放の場としてみんなで浮かれ騒いでいただけだが、それを権力のがわが「秩序の乱れ」として取り締まるようになってきたために、「悪霊退散」というスローガンを掲げることによって存続が許されていった。
そのころ権力社会では、病的なほど「悪霊」に悩まされていた。民衆にとっては現在の権力者が屠り去った政敵の「怨霊」などどうでもよかったが、権力者のほうは民衆の協力を求めていた。つまりその「怨霊」を民衆の世界に追い払うというか、そのための儀式を民衆に丸投げすることによって解放されようとしていた。
神社はもともとそのような「呪術」の場だったのではない。
古代における呪術は、つねに権力内部でなされていたのであり、そこから民衆の世界に下ろされていった。仏教も陰陽道も、まず「呪術=祈祷」として権力世界に根付いていった。そういう怨霊がどうの極楽や地獄がどうのという世界観は権力社会で肥大化していったのであって、民衆のあいだから自然発生してくることなどありえない。民衆はもう、何もかもさっぱりと洗い流すという「祭り」の賑わいの行事をずっと続けてきたのだ。
権力社会では、「世界の秩序」を思い描く。それによって支配の安定的な持続が約束される。そのためには、秩序を乱すものをどんどん排除してゆかねばならない。それは宗教も同じで、そうやって「呪術=祈祷」が権力社会の定着していった。彼らは、極楽浄土という「最終的な世界」を目指す。
それに対して古代の奈良盆地の民衆社会では、祭りの賑わいとともにすべてを洗い流しすべてを受け入れて、どんどん人口がふくらんでいった。そうやって彼らは、たえず「世界のはじまり」を生きていた。彼らは、「世界のはじまり」のイマジネーションを豊かに持っている。それが古事記の書き出しの記述にもあらわれている。
変わらない世界と変わってゆく世界。変わらない世界は、つくることができる。しかし変わってゆく世界は、つくった瞬間に、つくったことが無効になってしまう。だから、「世界のはじまり」を生きるしかない。それが、古代の民衆の生きる作法だった。彼らは、最終的な世界(天国とか極楽浄土とか生まれ変わりとか)を知らなかった。「今ここ」に生があり、死があった。
だから、祭りは宗教ではないし、祭りが宗教になることはない。
宗教が祭りに侵入してくる。
村の鎮守の祭りは、収穫したあとの秋に盛り上がる。それは、そこが「はじまり」だからだ。民衆は、「豊作祈願」などしてもむなしいことを知っている。だから、収穫してから祭りをする。収穫してしまえばもう、「豊作祈願」をする必要がない。
民衆は権力によって「豊作祈願」をさせられているだけであり、それは民衆の本音ではない。
「豊作祈願」をすることによって民衆は権力の奴隷になってしまう。なぜならそれによって、現在から「豊作」の未来までの時間に幽閉されてしまうからだ。時間と土地(空間)の両方に閉じ込められてしまう。
収穫することによって、はじめて「豊作祈願」から解放される。それは、権力の支配から解放されることでもある。そこではじめて「今ここ」を生きることができる。
「豊作」であれ何であれ、民衆は「祈願」することの閉塞感を知っている。だから、「蘆原の瑞穂の国はこと挙げしない国」といった。
宗教も権力者も「世界の秩序」という「最終的な世界」を生きようとする。しかし民衆は、混沌として先のことなど何もわからない「世界のはじまり」を生きようとするのであり、民衆にとって「世界の秩序」はひとつの「けがれ」なのだ。

民衆は、政治の世界ではつねに「愚民」であるほかない存在であり、「愚民」であることの人間性の真実を生きようとする。
日本列島においては、政治や宗教が生まれてきたときはすでに、非政治的非宗教的な文化が洗練発達してしまっていた。そしてその基礎は、おそらく縄文時代の一万年につくられた。だから、もろいように見えてあんがい壊れにくく、古事記のように、宗教を受け入れつつ宗教に染まらないというアクロバティックな思考ができる。そして神道もまた、じつは今なおそんな性格のままにひとつの非政治的非宗教的な習俗として機能し続けているわけだが、だからこそ、その一方で政治的宗教的な「国家神道」としてたやすく変質してしまいもする。そこのところが、なんともなやましくくるおしい。
「愚民」でけっこう。おまえらのその薄っぺらな「知性」が何ほどのものか。
この国に神道が存在するということは、この国の古代(=仏教伝来)以前に宗教が存在しなかったことを意味するのだが、それは、宗教に変質しやすいというか宗教に寄生されやすい「祭り」の文化をすでに洗練発達したかたちで持っていたということでもある。
日本列島の住民は、本質的には宗教を知らないが、たやすく「宗教的」になってしまう民族でもある。
まあ、現在の地球上の未開の民族がつい最近まで宗教を知らなかったからこそ文明人以上に迷信深く宗教的になってしまっているのと同じだともいえる。
アメリカだって300年前に改めて宗教の歴史を歩みはじめた国だからその辺の事情はわれわれと同じで、だから宗教原理主義がはびこってしまっている。ただ、日本列島には宗教を知らない「祭り」の文化の基礎があるが、彼らにはない。彼らは宗教の基礎の上に宗教を重ねているだけだから、宗教原理主義になってしまう。
いやこの国だって、神道の基礎の上に神道を重ねてゆきながら「国家神道」という神道原理主義が生まれてきた。そういうことをすると、どうしても迷信深くなってしまう。
本居宣長の『古事記伝』だって、けっきょく神道の上に神道を塗り重ねてしまっている。もちろんあの高度に知的で粘り強い研究態度は尊敬に値するが、あの原理主義丸出しの神道オタクぶりには辟易させられる。
神道の基礎は、「神なんか知らない」ということにあるのだ。