鎮守の森の神・神道と天皇(34)

天皇は、仏教伝来とともに「神」になった。
日本列島の住民はそれまで「神」を知らなかったが、それ以前からすでに天皇を祀り上げていたし、祀り上げる対象を「神」というのかと理解した。だったら、天皇は「神」以外の何ものでもない、と。
天皇を神だと思うのは間違いだというが、日本列島では天皇が神になってしまうような神に対する理解の仕方をしてきたのであり、神に対する理解の仕方そのものがすでに間違っているのだ。
本居宣長だって、神とは「尋常(世のつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏(かしこ)き物」だといっているわけで、天皇はまさにそういう存在に違いない。この国の神は、この世界の「創造主」ではないのだ。
日本列島の住民は、「創造主」としての神を知らない。
知らないのに、ときには「神風が吹く」とかと「創造主」であるかのように扱ったりして、知らないからこそいろんな解釈をしてしまう。
国家神道」なんて神道として邪道なのだけれど、日本列島の「神」は、「創造主」であってもなくてもどちらでもよいというかたちになってしまっている。。
まあ権力者や宗教家は「創造主」であるかのように解釈したがるし、民衆はただ、この世の「畏き姿」を「神」ということにして歴史を歩んできた。桜の花が美しく咲いていれば、それを「神の姿だ」といい、桜の花を咲かせている「創造主」としての「神」なんかイメージしていない。
天皇が誰よりも「畏き姿」のお人であるのなら、もう「神」だと思うしかない。日本列島では、人間を神として祀り上げることに対する抵抗はない。べつに天皇だけが神になっているのではない。乃木希典東郷平八郎をはじめとして、ほかにいくらでも人間が神として神社に祀られている。靖国神社なんか、戦死者全員が神ということになっている。

権力者や宗教家にとっての神道は、民衆を支配するための「宗教」であらねばならない。しかし民衆にとっての神道は、宗教や共同体の「支配」から逃れるための「祭り」というか「祝祭気分」のよりどころとして機能してきた。
日本列島の歴史において、権力者はまず「仏教」という「宗教」に関心を寄せ、それを民衆に押し付けていった。しかしもともと宗教というものを知らなかったし宗教を必要とする理由も持っていなかった民衆は、それをうまく受け入れることができなかった。そのために自分たちの「祭り」の習俗を「宗教のような」かたちにして「神道」を生み出していった。
民衆の「仏教忌避」の気分は、じつは中世まで残っていた。奈良時代の大仏造営などは、民衆の協力が得られないためになかなか思うように進まなかった。いいかえればそれは、民衆社会に仏教を根付かせるための事業だったのだ。
中世になって浄土真宗等の民衆の世界観や生命観に添うようなかたちにアレンジされた仏教があらわれてきて、ようやく広く受け入られるようになっていった。

日本列島の民衆がもともとあまり宗教的な民族ではないことは、地方の村の名もない鎮守の森のお宮の祭りや盆踊り等の習俗によくあらわれている。
神道といえども、大きな神社は最初からすべて国家によって管理され、ひとまず「宗教=呪術」の場として機能してきた。
中世には伊勢神宮外宮から「本地垂迹説」の「渡会神道」が提唱され、中世には京都の吉田神社から本格的な「国家神道」が登場して一世を風靡していったが、そのように宗教色を濃くしながら、末端の神社の「祭り」とはどんどん性格が乖離していった。
祇園祭」で有名な京都の八坂神社はひとまず仏教伝来のころにそこに住んだ渡来人によって創建されたということになっているが、だったら寺として建てるはずで、もともとあったものを管理者として任されただけだろう。というか神社を管理する民衆が権力による締め付けからの風よけとして招聘した、ということだろうか。仏教の伝道者である渡来人が神社を創建するなんて、おかしな話ではないか。
明治神宮乃木神社東郷神社ならともかく、古い神社の創建者などわからないのだ。
八坂神社が正式に国の管轄の神社になったのは平安時代以降のことで、貴族たちはそこでの祭りの賑わいを「けものの集まりみたいだ」とさげすんでいたという話もある。ただ、そのころの権力社会では、権力闘争で屠り去った政敵の悪霊に悩まされそれを鎮めるための「御霊会(ごりょうえ)」という宗教儀式が朝廷内でさかんに行われており、それを八坂神社に丸投げしたのが「祇園祭」のはじまりらしい。まあそれによって八坂神社は権力社会に認知された。
そのころの京都における天皇直轄の最上位の神社は「葵祭」の賀茂神社で、「悪霊退散」という汚れ仕事をそこにまかせるわけにはいかなかったのだろう。

村の鎮守の祭りだって、「豊作祈願」とか「疫病退散」というような呪術的宗教的なお題目を掲げることによって、権力の介入を回避し、「もう死んでもいい」という勢いのおバカな賑わいを守ってきた。そういう「みそぎ」のカタルシスこそが日本列島の伝統の「祭り」のコンセプトであり、権力者の欲望を叶えるための「呪術」として生まれ育ってきたのではない。
「呪術」などというものがいかに空しいものであるかということは、民衆のほうがずっとよく知っている。じっさいに田を耕し稲を育てるのは民衆であり、権力者は何もしないで命令するばかりだから、その支配欲とともにどんどん「呪術」に対する志向が肥大化してゆくし、世界を支配する「神」の存在がますます実感されてくる。
「雨乞い」という呪術の儀式は奈良時代のころから神社でもなされていて、そのとき神社の山の森に生贄として牛や猪などの生首を置いてくるというようなことをしていたらしいのだが、これは山に「けがれ」をもたらすことなのだから罪深い行為のように見える。しかし、山が穢れたら神はそれを洗い流そうとして雨を降らすかもしれない。
山だって、もともとその「実体」は「けがれ」なのだ。神は、山の「姿」に宿っているのであって、「実体」に宿っているのではない。神を汚すことなんか、誰にもできない。神は、「実体」ではなく、「現象=はたらき」なのだ。山を汚せば、山を洗い流す雨の神が降りてくるかもしれない。
もともと日本列島の住民は、山の中にいったん死体を埋めて骨だけになってからあらためて埋葬するという「もがり」の習俗を持っているのだから、そのことと何も矛盾していない。「けがれ」を負った「実体」である死体が腐って骨だけになるということは、山の神がそれを浄めてくれるということなのだ。
何はともあれ神道の基本的なコンセプトは「けがれをそそぐ」というか「浄める」ということにあるわけで、それは宗教でもなんでもない。そこにおいて、権力社会の宗教そのものとしての呪術志向との二つの方向に分かれながら歴史を歩んできた。
神道は、その発生段階からすでに「神仏習合」だったのであり、それ以前から継承されてきた純粋な「祭り」としての習俗や世界観や生命観と混同してしまうべきではない。
神道」という言葉自体が、平安時代以降のものにすぎない。
本居宣長をはじめとする江戸時代の国学者が「古代以前の神道に戻れ」といっても、彼らの解釈だって「神仏習合」になってしまっている部分は多い。
神道が独立して宗教であることはできない。神道は、「神仏習合」をして、はじめて宗教らしくなることができる。平安時代の「伊勢神道」も中世の「吉田神道」も、「神仏習合」の上に成り立っている。それは、神を「実体」としてとらえ、神道を欲望をかなえるための「呪術」にしてゆくことにあった。そうやって権力と結託しつつ神道の世界のヒエラルキーの頂点の座を獲得していったが、同時に「鎮守の森」のお祭りとはまるで異質なものにもなっていった。

「鎮守の森」に「呪術」などはない。
いったい誰が神道を病理的な「呪術」にしてしまったのか。
われわれが出産や七五三や結婚を神社で祝ったり正月に初詣に行ったりするのは、基本的には何かを獲得するためではなく、それらのことを祝福しつつ人生の区切りをつけるためだろう。「区切りをつける」とは「みそぎを果たす」ということ。まあ、浄めてもらうために神社に行く。そこは非日常的な気配に満ちた「別世界=パワースポット」であるが、べつに人の欲望をかなえてくれる「霊験」などというものがあるのではないし、そんなものは当てにしないのが神道ほんらいの伝統なのだ。
「祝福する」ということと「みそぎを果たす」ということ、「もう死んでもいい」とさっぱりすること。人類の歴史はそういう体験とともに流れてきたのだし、そういう体験とともに人間的な知性や感性を進化発展させてきた。
祝詞を捧げることは神を祝福することであって、神に欲望成就をお願いすることではない。
悩みがあって、神に救われたいなどといっても、神は救ってなどくれない。
悩みや不幸があるからといって、自分には救われたいと願う資格があるなどと思うな。
人は、どんな不幸でも受け入れることができる。今まさに死のうとしている人や、死にそうになりながらそれでもまだ生きている人のことを思えば、悩む資格のある人間なんかほとんどいない。
「悩む」というそのことが「けがれ」なのだ。
神は、人の悩みや不幸や苦しみに同情なんかしてくれない。
神社の、その清浄で不思議な気配に身を浸すとき、人は、自分が、神を、そしてこの世界を祝福してゆくことができるかと試されている。それだけだ。そうやって神道の歴史がはじまった。