畏(かしこ)き姿・神道と天皇(35)

もともと神道は、人間が神になることによってはじまった。
人間を神にしてゆくのが神道なのだ。天皇を神にするのはよくないなどといっても、日本列島の「神(かみ)」なんて人間がなれる程度のものだから、それで全然かまわない。それはべつに、この世界をつくった「創造主」でもなんでもなく、この世界の自然(森羅万象)そのものが「神(かみ)」なのだ。八百万の神、という。「畏き姿」をしたものは、ぜんぶ「神(かみ)」なのだ。人間だって自然の一部だし、そのもっとも「畏き姿」をした人を「神(かみ)」だと思って何が悪い。
「神」という言葉そのものが、キリスト教の「神(ゴッド)」とは全く異質なのだ。「仏」とも違う。そういう「宗教」に対するカウンターカルチャーとして神道が生まれてきたのであり、神道においては、人間がなれるもの以上の存在など思い描かない。そういう「宗教なんか知らない」という立場を守りながら神道が生まれてきた。宗教なんか知らない歴史を歩んできた民族なのだから、そうかんたんには「宗教」を持つことはできない。
戦後のこの国は、アメリカ占領軍によって「天皇は神ではなく人間である」という認識を押し付けられ、この国自身も進んでそれを受け入れた。しかしそれによって「神」を創造主の「ゴッド」であるという認識が定着し、心の中にそうした「神=ゴッド」との関係を持つようになり、なんだか妙な社会病理が蔓延するようになってしまった。つまり、かえって迷信深く宗教的になっていった。
全共闘運動なんて、まさにそうした迷信深さでというか狂信的に盛り上がっていったのだし、その後のオウム真理教や最近のスピリチュアル等のカルト宗教ブームへと続いている。
しかしこのごろの「カミってる」などいう変な造語の流行は、そうした迷信深い世相に対する反動ともいえる。それは、人間を神にしてしまう表現にほかならない。まあ、アクロバティックな思考=表現だ。
日本列島では、何ごともひとまず受け入れる。受け入れておいて、ときにそれを換骨奪胎しながらまったくデフォルメしてしまう。そうやって仏教の神をデフォルメした神道が生まれてきたのだし、漢字を平仮名にしてしまったのも、いかにもこの国らしいアクロバティックなイメージの展開がある。
今どきのパソコンやケータイのキーボードを使ってつくる絵文字だって、この国では信じられないほどアクロバティックで多彩な表現があとからあとから生まれてくる。
「宗教=神」を知らなかったからこそ、仏教をそのまま受け入れつつ受け入れるでもない、というかたちの、アクロバティックな思考の展開による「神道」が生まれてきた。
日本列島では、人間を神にしてしまう。それはある意味で宗教に対する冒涜であり、宗教を受け入れつつ受け入れていない。マッカーサーは「日本人はいつまでたっても14歳のままだ」などといい、アメリカ人にすれば幼稚な思考のように映ったらしいが、じつは原理主義的な彼らの思考ではおよびもつかないアクロバティックな展開をはらんでいるのだ。

われわれ日本人は、いまだに本格的な「宗教」を持つことができていない。
まあそのへんの心模様というか、世界観や生命観において、民衆と権力者ではずいぶん温度差がある。権力者は「宗教」が大好きな人種であり、それによって民衆を支配してきたし、それによって人間的な知性や感性を停滞させてきたのだ。
歴史というと、われわれはすぐに、平清盛源義経・頼朝や織田信長豊臣秀吉徳川家康西郷隆盛坂本龍馬等々の権力を握った有名人を偉大な存在であるかのようにあつかいたがるが、そういう連中に人間としての「畏き姿」があったのではない。彼らだって、人間的な知性や感性の停滞を生きるものたちだったにすぎない。停滞して鈍感で通俗的だったからあれほど大げさに考え振る舞うことができただけのこと、何を尊敬することも面白がることもあろうか。
国のことをどうこうしようとする作為的で傲慢で通俗的な欲望の、どこが素晴らしいというのか。国なんか、みんなで頑張って生きていれば、自然に出来上がってゆくものだろう。名もない庶民のささやかな願いと、あの連中の傲慢な国を憂うる気持ちと、どちらが重要で立派であるというのか。
誰もがいやな世の中をしょうがなく生きているだけだったらいけないのか。そういう気持ちを共有しながら「おたがいさま」で生きている集団のほうが、ずっと豊かにときめき合いいたわり合っていたりする。
おまえらのちんけな脳みそでこねくり上げた「理想の国家論」なぞ、聞きたくもない。そういう「理想」を押し付け合って世の中が歪んでゆく。彼らには、そういう「けがれの自覚」がなさすぎる。
人の世は、人間のちんけな脳みその思考の範疇だけで動いているのではない。つまり、誰だってちんけな脳みそ以上の脳みそなんか持っていないのだ。
ろくに神道のことが分かりもしない人間たちが集まって「神(かむ)ながらの道」などと合唱して「神道ごっこ」にうつつを抜かしているなんてほんとにくだらない。また、僕ごときにあの「全共闘運動」の総括ができる能力も資格もないことはわかっているが、それでもあんなものはただの都市伝説かオカルトブームみたいなものにすぎなかったという感想は禁じ得ない。
半端なインテリや権力志向の強い人間の語る「理想」などというものが何ほどのものか。そんなこと語る時点で、すでに頭の中を「宗教」に汚染されている。神という名の理想、理想という名の神。人はそういうこの生やこの世界の安定・秩序に耐えられない部分も持っている。それこそ人間性の自然として。

「理想」などというものを持たないのが人のたしなみというものもある。どれだけがんばって「理想」を追いかけることができるかということよりも、どれだけ赦すことができるかとわれわれは試されている。そういうことができて、はじめて世の中も人の心も、停滞することなく移ろい流れてゆくことができる。
「人の道」に外れていることのりりしさや清らかさというものもある。「人の道」なんて、この社会の制度性にすぎない。そんなものを他人に要求したがるのは、安定・秩序の中でしか生きられない強迫観念にすぎない。
まあ「宗教」とは、「人の道」の教えにほかならない。とすれば古代人が「神(かむ)ながらの道」というとき、人が勝手に決めたような「人の道」に対する拒否反応がはたらいている。
人の欲望なんか醜い。正義ぶって清らかぶって「人の道」を説くよりも、セックスをせずにいられないほうが「神(かむ)ながらの道」だ。
たとえば、ある独身の女が不倫をして妊娠してしまったとする。そうして別の独身男が「だったら、結婚してわれわれの子として育てよう」と申し出る。このとき、「不倫」という「人の道」に外れたことが赦されている。そして、生まれてくる子供の父親が誰であるかということの「真実」が永久に葬り去られる。こんなことは、今どきの世間一般でも歴史上においても、いくらでも起きていることだろう。天皇家の歴史においても、いくらでもあったかもしれない。「神(かむ)ながらの道」とは、おおよそこのようなことだし、今どきはそれを「カミってる」選択だという。
「人の道」なんか言い立てないのが「神(かむ)ながらの道」なのだ。人の世は、そのようにして動いてゆく。「人の道」なんかどうでもいい。そうやって神道が生まれてきた。
本居宣長古事記の語らんとしているところの解釈として「よごと・まがごと(良いこと・悪いこと)」とか「人の道」というようなことをさかんにいっているが、「人の道」なんかどうでもいいのが「神(かむ)ながらの道=神道」であり、古事記の語らんとしているところなのだ。
宗教は、人と神を分ける。神道は、人が神になる。すなわち、思考をアクロバティックに展開してゆくということ。それが、神を知らなかった古代以前の民衆の知性や感性のかたちにほかならない。
「人の道」という言葉のなんと通俗的で暴力的であることか。その言葉が人の心を追いつめる。

「人の道」というという思考作法を嫌って起源としての「神道」が生まれてきたのだ。「人の道」を標榜して人を裁くことよりも、「人の道」を嫌って人を赦すことのほうがずっとましじゃないかともいえる。
まあ権力者や権力に洗脳されているものたちは、「人の道」に執着し、それを他人に押し付けたがる。しかしそれは、宗教を知らなかった古代以前の民衆の思考ではなかった。
そりゃあ、宗教など知らなくても、人としての「畏き姿」のイメージは持っている。古代以前の日本列島においてはそういうイメージを紡ぐ知性や感性がすでに洗練発達してしまっていたから「神道」が生まれてきた。彼らは、仏教を受け入れつつ、受け入れなかった。「人の道」を受け入れつつ、受け入れなかった。われわれは、何がいいことかとか悪いことかというような「人の道」に支配されつつ、それでも添いうことを超えたところでこの世界や他者の輝きにときめき感動し、「人の道」としての「するべきこと」を超えて「せずにいられないこと」を模索して生きている。
われわれの無意識は、「人の道」を振りかざしてわれわれを支配しにかかる権力を受け入れつつ、拒否している。いつの時代であれ、民衆にとってのこの世のもっとも「畏き姿」は、けっして権力者や偉人と呼ばれるものたちもとにあったのではなく、生きられなさを生きる「この世のもっとも弱い存在」のもとにあった。生きられない「この世のもっとも弱い存在」は、この世のすべてを許している。「畏き姿」は、そこにこそある。
こう生きねばならないとか社会はかくあらねばならないとか、どんな英雄であれ、そんなことをわれわれに押し付けわれわれを裁いてくる権力者たちのもとに「畏き姿」があるはずないではないか。われわれはその支配に従いつつも、しかしそこに「かみ」としての「畏き姿」を見たことなんか、歴史上一度もなかった。
織田信長は偉大だったとか、坂本龍馬が好きだとか、時代の支配に踊らされて生きるものたちはそんな英雄礼賛を熱っぽく合唱しているとしても、それでも日本列島の住民の普遍的な無意識においては、この世のすべてを許している「この世のもっとも弱い存在」に「畏き姿」を見ている。そしてそれこそがじつは、この国ほんらいのというか、縄文以来の歴史風土に息づいている「神{かみ}の姿」であり、「天皇の姿」なのだ。
生きてあることはいたたまれないことであり、死者のことを思えばいささか後ろめたくもある。すべてを許している存在こそ、「畏き姿」の持ち主なのだ。
どう生きよといわれても、われわれだって「こう生きるほかない」というところで生きているわけで、よけいなお世話なのだ。