この生の向こうは何もない・神道と天皇(33)

氷河期の日本列島は、大陸とつながっていた。そして人や動物の移動のいわば「行き止まり」の地だったから、人も動物もたくさんいた。
人々は平地の草原で暮らし、草食動物の狩りをしていた。石器の製作技術は、世界でもっとも進歩していた。
しかし氷河期が明けて気候が温暖化すると、草原のほとんどは海面下に沈んだり、氷河が溶けて湿地帯に変わってしまったりして、大型草食獣は次々に絶滅していった。
そして人々が暮らす場所も、山の中に移っていった。山は広葉樹が増えて、木の実の採集には適していた。しかしそのような場所に大きな集落はつくれないし、男たちは山に閉じ込められている暮らしに耐えることができず、旅に出るようになり、集落のほとんどは女子供だけが残った。そしてそこに、旅に出た男たちが訪ねてきた。
まあ、自然に「近親相姦」を回避する生態になっていった、ということでもある。
氷河期明けの日本列島の歴史は、閉塞感の中でどう生きるかという問題とともにはじまっている。山の中で暮らすことはもちろんのこと、日本列島全体が海に閉じ込められてしまっていた。
異民族との軋轢がない代わりに、世界はどこまでも広がっているという解放感も持てなかった。であれば、閉塞感は、いやでも募ってくる。その問題の解決は、広い世界に出ることではなく、「今ここ」で「閉塞感=けがれ」を洗い流すことにあった。
旅に出ても山道ばかりで、彼らの旅は、広い世界に出てゆくことではなく、「今ここ」で「けがれ」を洗い流すいとなみだった。心を外の世界に向けていれば、「自分」にまとわりついた意識を洗い流すことができる。
じっとしていれば、意識は身体のまとわりついて離れない。歩き出せば、身体のことを忘れてゆく。そうして、まわりの景色に意識が向いてゆく。
閉塞感は、意識が「自分=身体」にまとわりついて離れない、というかたちで起きている。まとわりつくことを、やまとことばでは「もの」という。「もの」は「物」、すなわち「実体」。心は「物=実体=身体」にまとわりつかれている。心のほうがまとわりついていっている、ともいえる。

縄文人は、まとわりつかれることの鬱陶しさが骨身にしみていた。だから、彼らの人と人の関係は、とても淡いものだった。「家族」とか「共同体」などというなれなれしい関係の集団はつくらなかった。彼らの社会における人と人の関係は、「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」とともにあった。「今ここ」で人と人が向き合っているというそのことに、「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」が生成していた。そういう淡い関係だった。淡い関係でいないと、山の中では暮らせなかった。
日本列島の人と人の関係の文化は、淡い関係を保つことの上に成り立っている。その淡い関係のもとで、ときめき合ってゆく。そのときときめくことは、「遠い憧れ」を向けることであって、まとわりついてゆくことではない。
なれなれしくまとわりつかれると、鬱陶しさが募る。
しかし淡い関係といっても、プラトニックラブのようなことをいうのではない。それは身体に貼りついた意識を引き剥がすことであり、セックスこそ、そうやって相手の身体のことばかり意識している状態にほかならない。
慣れ親しんだ夫婦としてセックスするのではなく、淡い関係のままで抱き合うのが彼らの流儀だった。最初から「別れる」ということを前提にして、セックスの関係を結んでいった。
「行きずりの恋」というのは、今でも世界中どこにでもある。今どき流行りの「出会い系サイト」でセックスするのも、「行きずりの恋」の範疇に違いない。
娼婦とセックスすることだって、まあそういう「淡い関係」だといえる。
縄文社会の女たちは、娼婦だったのかもしれない。娼婦とのセックスこそ、男にとっても女にとっても、ある意味で理想的なセックスかもしれない。
少なくとも、惰性のような夫婦のセックスが理想だとはいえまい。まあ、女房が相手でも娼婦が相手であるかのようにセックスをしている男だっているのだろうが。
縄文社会の男と女は、たとえひと冬を一緒に過ごしても、つねに「一回きり」という切実さでセックスをしていたに違いない。それは、「別れる」ということが前提になっている関係だった。
ともあれ縄文人の生の基盤はセックスだったのであって、宗教だったのではない。土偶にしろ火焔土器にしろ、彼らの生のなやましさやくるおしさをうかがわせる表現であって、呪術的な意味がどうのというようなものとは思えない。

山の中では、さまざまな不思議な現象が起きる。
しかしそれを不思議がったり怖がったりするのは、たとえば『遠野物語』のように、平地で暮らしているものが山の中に入っていったときに体験するのであって、山の中で暮らしているものにとっては日常のことでしかない。
怖がっているから、幽霊を見る。
いちいち怖がっていたら、山の中では暮らせない。発狂してしまう。
山の民は、それを「霊魂」のしわざだとは思わない、たんなる自然現象として受け止めている。
「霊魂」という概念は、安定した集団における停滞している心(=共同幻想)から生まれてきたのであって、山の中の小集落の不安定な暮らしから生まれてきたのではない。
山に閉じ込められて暮らしていれば、流れて移ろいゆく心を持たなければ生きられない。流れて移ろいゆく心を持つためには、「自分=身体」に貼りついた意識を引き剥がして「自分=身体」の「外部」に向けてゆかねばならない。山の「不思議な現象」を怖がって、意識を「自分=身体」に閉じ込めておくわけにはいかない。「不思議な現象」をそのまま受け入れていった。
日本列島の住民は、仏教伝来とともに「神」という概念を知っても、「不思議な現象」を「神のしわざ」だとは思わなかった。「不思議な現象」それ自体が「神(かみ)」であると解釈した。
本居宣長も、「神(かみ)」とは「尋常(世のつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏(かしこ)き物」である、といっている。つまり、「不思議な現象」それ自体が神だ、ということ。しかしそれは、「神のしわざ」だと思わないということであり、「神を信じていない」のと同じなのだ。宣長は「古代人はまるごと神を信じていた」と何度もいっているが、そうそう安直に決めつけてもらっては困る。日本列島の住民は、縄文以来、神を知らない歴史を歩んできたのだ。
まあ本居長だけでなく、世の歴史家のほとんどは、縄文時代から仏教伝来までの日本列島の社会は「原始宗教(アニミズム)」の上に成り立っていた、と当たり前のように考えている。
ほんとにくだらない。そういう既成の思い込みをいったんチャラにして、もっと素直に古代以前の人々の暮らしや心模様に思いを馳せるということをしていただきたい。
雷鳴がとどろけば誰しも怖いが、しかしそれは雷鳴それ自体が怖いのであって、それを起こしている神がいると思って神を怖がっている、ということではない。不思議なことだらけの山の中でいちいち神の存在なんか意識していたら、身動きできなくなってしまう。
現代人というか文明人は、「自我の安定」を欲しがって創造主としての神にすがってゆく。それに対して縄文人は、「自我」そのものを「けがれ」として洗い流そうとしていたのであり、創造主なんか思い描きようもなかった。
雷をつくった神なんかいない。日本列島の住民は、雷が神だと思って歴史を歩んできた。

海の向こうの大陸とは没交渉だった縄文時代においては、海の向こうは「何もない」と思い定めていた。
山間地の小集落の女子供たちは危険な山の中に分け入っていくことができなかったから、「今ここ」の生活圏の向こうは「何もない」と思い定めて暮らしていた。もちろん「ある」ということはわかっていても、「ない」という前提で生きるしかなかった。
自我をそぎ落とさなければ、「何もない」と思うことはできない。
そして「不思議な現象」を起こす「神」がいると思うことは、「不思議な現象」の向こうに「神」がいると思うことであり、これもまた「自我」のはたらきによる。
海の向こうに「神の国」があるとか「異民族の国」があると思うことは、「自我」のはたらきなのだ。
縄文人は、「自我」を洗い流して、「今ここ」の向こうは「何もない」と思い定めて生きていた。それは、「神」の存在を思い描く契機もこの生の向こうの「死後の世界」を思い描く契機も持っていなかった、ということだ。
ゴーギャンの絵のタイトルのような「われわれはどこからやってきて、どこに行こうとしているのか?」というような自意識過剰の発想は、縄文人にはなかった。この生はこの世で発生し、この世で消えてゆく、この生やこの世の向こうは「何もない」、そう思い定めて生きていた。それが、彼らの生き方の流儀であり、死んでゆくことの流儀だった。
しかしそれは、この生やこの世の「日常」に耽溺してゆくということではない。この生もこの世もいたたまれないものであり、この生やこの世においてこの生やこの世の向こうの「別世界=他界」に超出してゆくことができなければ生きられない、と考えていた。この生やこの世そのものに「非日常」の世界を見ること。それが「自我」を洗い流して「今ここ」のまわりの世界や他者の輝きにときめいてゆくということであり、心が死と親密になって「死は今ここにある」と感じているときにこそ、世界や他者が輝いて立ちあらわれている。
縄文人は、あの山やあの海の向こうは「何もない」と思っていたし、この生やこの世の「日常」にいたたまれなさを感じていたからこそ、この生やこの世における「非日常性」に豊かにときめいていた。
彼らは、この生やこの世の向こうの「神」という存在なんか知らなかったし、死んだら「霊魂」とともに「死後の世界」まで旅立ってゆくというような騒々しい自意識も持ち合わせていなかった。

「霊魂」とは、ようするに自我=自意識の投影なのだろう。自意識過剰の人間ほど、そういうものを信じたがる。であれば、自我=自意識をそぎ落として生きることが流儀の縄文人が、そんなものを信じていたはずがないではないか。というか、日本人は自我=自意識の薄い民族だといわれているが、それは、神や霊魂を信じる心が希薄であるということを意味する。そういう歴史がとても浅いのだ。
古代は、「霊魂」のことを「たま」といった。この言葉もまた、「神」と「かみ」の関係のように、日本的なデフォルメがある。
「たま」は、「安定」「充足」「完結」の語義。「たまに映画を見る」とか「たまたま」というときの「たま」は「限定された確実性」をあらわしている。「たまげた」といえば「驚く」すなわち「安定した心が蹴飛ばされること」、「げ=け」は「蹴る」。「たまる」は「充足してゆくこと」。つまりそれらは「現象」や「状態」をあらわす言葉であって、「たま」という「実体」などないのだ。丸くて完結したかたちをしているものを「玉(たま)」というが、「玉」は「霊魂」ではない。「玉のような赤ん坊」といえば、「玉のように完璧に愛らしく美しい姿をした赤ん坊」ということであって、「霊魂のような赤ん坊」といっているわけでもあるまい。
古語としてのやまとことばには、「実体」をあらわす言葉がない。すべてが「姿」をあらわしている。このことも考えはじめたらきりがないやまとことば研究のとても重要な問題なのだが、とにかくそれは、日本列島の住民は「神」とか「霊魂」というものを「実体」として思い浮かべる能力が決定的に欠落しているということを意味するのであり、すなわち「神」や「霊魂」を知らない歴史を歩んできたということを意味しているのだ。

縄文人の女は、死んだ子供を家の入口の下の土に埋めていたのだとか。
ある縄文学者はこれを、その土の上を跨げば「死んだ子供の霊魂が股の中に入ってきて自分の体の中で胎児として再生する」と信じていたからだ、というようなことを得意満面にいっている。なんとばかばかしい。下手な漫画よりも幼稚な想像力だ。
そうじゃない。
おそらくそのときの縄文人の意識は、そこが家の内と外の「境界」である、ということにあったのだろう。
家の内はひとつの「実体」であり、「けがれ」が発生する場所だ。しかし縄文人にとって外は「何もない」空間であり、弔う気持ちも消されてしまう。だったらもう、みずからのかなしみや弔う気持ちを込めてゆける場所は、その「出入口=境界」にしかない。「姿」は、「実体」の内と外の「境界」で生成している。「心」という「姿」もまた、「身体=実体」の内と外の「境界」で生成している。そのようにして家の出入り口こそもっとも神聖な場所であり、その意識は日本列島の歴史を通じてずっと続いてきた。だから、江戸時代の戸口はわざと低くして屈んで出入りするようになっていたし、「玄関の敷居を踏んではいけない」という習慣も今なお残っている。
たしかにそこは「跨ぐ」場所ではあるが、「股ぐらの中に死者の霊魂が入ってくる」などという幼稚で安っぽい空想をして安心していられるほど縄文人はのんきな生き方をしていたのではない。縄文女はパンティを穿いていなかった、てか?あほらしい。
日本列島の「姿」の文化は、縄文時代からすでにはじまっている。「実体」を「けがれ」としつつ「実体の内と外の境界」を称揚してゆく、という文化だ。
縄文人の暮らしは、外にも内にも救いはなかった。救いは、外と内の「境界=姿」にあった。
彼らは、神も霊魂も知らなかった。だからこそ彼らは、宗教よりももっと切実でもっと優雅でアクロバティックな思考とともに生きていた、
神や霊魂を知っていることがそんなに偉いのか?冗談じゃない。宗教者が尊敬される世の中なんか病んでいるし、文明人はそういう歴史を歩んできた。