民衆の時代意識と身体性・「天皇の起源」29


日本史のルネサンス安土桃山時代にあるとか江戸時代の元禄文化にある、などと一般的にはいわれているらしいが、そうじゃない。
現在の衣食住のことにしろ美意識や世界観や生命観の精神性にしろ、この国の「和風」といわれるスタイルの基礎は室町時代に確立されている。おそらくそれが、日本史のルネサンスだった。
それは、大陸から輸入した制度的なシステムや文化に染まりすぎた状況を反省し整理しようとするムーブメントだった。
また、西洋のルネサンスという概念はマルクス主義歴史観でそう語られているだけで日本列島とは何の関係もない、という意見もあるのだが、それも違う。中世以降は、日本列島だってすでにもう、世界史と無縁の歩みなんかできる状況ではなかった。人間の観念性や血の遺伝子はあっという間に世界中に伝播してしまう時代になっていたのだ。
コロンブスの時代に西洋人が拾ってしまった梅毒は、30年か40年後にはもう日本列島に上陸していたのである。
西洋のルネサンスが14世紀からはじまったとしたら、日本列島でも同じころにその潮流が生まれてきていたのであり、猿楽が能へと発展していったことはその現象のひとつだった。
中世は、世界中の共同体が停滞し混乱をはじめていた。そうして14世紀のころになると、世界中でその「中世の暗黒」から抜けだそうとする動きが起きてきた。
日本列島の住民は「社会=世間」に対する鬱陶しさの感覚を伝統的な精神風土として持っている。そのとき西洋では新しい共同体の制度をつくろうとしていったが、日本列島では共同体の制度がない時代の意識に戻ろうとしていった。
日本列島の歴史は国家制度のない時代を長く体験したから、「社会=世間」を鬱陶しいものと思う精神風土がいまだに残っているし、それが「和風」文化である。
室町時代の日本列島では共同体の制度性(=国家)ができてまだ間もない時期で、それがなかった縄文・弥生時代の精神性を歴史の無意識として残していたから、そこに立ち返ろうとするムーブメントが起こってきて、現在にいたるまでの「和風」文化の基礎が確立されていった。



現在の能は、平安時代の猿楽が室町時代なってそういうかたちに発展していったのであり、ひとりの天才によって突然新しく生み出されたものではない。観阿弥世阿弥の親子といえどもそういう歴史の流れから登場してきたのであって、彼らが新しい時代をつったのではない。時代が彼らをつくったのだ。
時代が人間をつくるのであって、人間が時代をつくるのではない。
日本列島の住民の歴史的な無意識は、人間が「新しい社会」をつくるとは思っていない。それは、時代の「なりゆき」から生まれてくる、と思っている。
だから、この社会のリーダーたちに「新しい社会をつくろう」と扇動されても、「そんなことはあなたたちで勝手にやってくれ」という思いがどこかしらにある。
そうやって室町時代の後に戦国乱世の時代がやってきた。そのとき武士たちの世界の秩序は大いに乱れていたが、民衆はすでに連携して新しい潮流の文化を生きていた。
猿楽能は、民衆の美意識がそのようなかたちに押し上げていったのだ。
そのころ田楽と猿楽は、たとえば同じ舞台で共演したりして、どちらが民衆の支持が得られるかと大いに競争していた。そうして田楽は民衆をリードしようとし、猿楽は民衆の意識の変化についてゆこうとした。だから、田楽は農村に定着してゆき、猿楽は都市部の民衆に支持されていった。
農村と都市部の意識の違いというのはあるだろう。
農村は結束が強いが、そのぶん誰もがはみ出た存在にならないように牽制し合っているという面もある。そうしてみんなでリーダーにしたがってゆこうとする。だから、扇動されやすいともいえる。田楽は、そういう風土に根付いていった。
それに対して都市部は雑多な寄せ集めだから、強固な結束は生まれにくいし、農村ほどかんたんには扇動されない。その代わり、時代の変化に流されやすい。そのような民衆と時代意識を共有していったのが猿楽である。



中世は、権力支配の構造がエスカレートして、社会が停滞していった時代だった。戦国乱世の様相は平安時代末期の武士階級の台頭とともにすでにはじまっており、たとえば地頭が守護を殺すことなどよくあることで、武士たちは平気で殺し合いばかりしていた。そして農民は、そのような平気で殺し合いをするような権力者から強く土地に縛り付けられていた。
平気で殺し合いができるということは、それほどに人間が観念的な存在になってしまっている時代だったということだ。つまり、律令国家の成立以来、日本列島の住民の思考がどんどん制度的観念的になっていって、身体感覚的な思考が希薄になっていった。
そうして、身体感覚的な思考を取り戻そうとするムーブメントが民衆のあいだから起きてきて、田楽や猿楽という舞い踊る芸能がもてはやされるようになっていった。
中国や朝鮮ではそのような芸能は共同体の外の最下層の民のものだという伝統があるが、日本列島では、農民や町衆自身がその芸能の集団を組織していった。そうして江戸時代には、能の謡は武士の教養のひとつになっていった。
日本列島では、民衆の先導によって文化が生まれ育ってきた。支配者やリーダーがつくってきたのではない。



猿楽を能という高度な芸能に洗練させていったのは民衆自身の時代感覚だったのであり、この国では民衆のところから時代感覚が変わってゆくという伝統がある。
武士に扇動されて民衆の意識が変わっていったのではない。民衆のほうから先に変わっていったのだ。
民衆が民衆自身の連携によって文化をつくってゆくのがこの国の伝統であり、支配者はいつだって民衆のそうした動きに寄生してゆくように歴史を歩んできただけである。
万葉集の中に「詠み人しらず」というかたちで民衆の歌が多数収録されているのは、和歌を詠むことはもともと民衆の芸能文化だったからだ。支配階級から教えられて和歌を詠むようになったのではない。
狭い茶室の発想は中世の隠遁者の庵からきているのだろうが、それだって、古代から中世にかけての農村をドロップアウトしたものたちが村の外れに掘立小屋を建てて乞食や娼婦みたいな暮らしをしていた習俗からはじまっている。
隠遁の思想は、民衆のあいだではすでに古代からあった。それはつまり「憂き世」という感慨の伝統であり、もともと共同体(国家)という集団の制度性になじめない民族なのだ。なじめない感性を無理やりなじませてこの1500年の共同体(国家)の歴史を歩んできたのだ。
その「無理やりなじませる」ことにはどうしても「娯楽芸能」が必要だったのであり、その習俗として、弥生時代奈良盆地では巫女という舞の集団が祀り上げられていた。そこはまだ共同体(国家)は存在しなかったが、それでもすでに都市集落と呼べるほどの大きな集団にはなっていた。
日本列島の文化は、この「憂き世」とどう折り合いをつけてゆくかとして生まれ育ってきた。だから、「娯楽芸能」はとても大切だったし、そういう民衆の「娯楽芸能」がやがて支配者層のところまで吸い上げられてゆくということが起きる。
この国の文化は、民衆が先導している。つまり、民衆の方が先に新しい時代をとらえるのだ。
この国の天皇は田植えをする。しかし、そんなことは貴族のすることではない、というのがヨーロッパや中国・朝鮮の階層文化である。
天皇が田植えをはじめたわけではあるまい。このことをよく南方文化の遺制だとかと語られたりするのだが、そういうことではない。民衆の文化がお上に吸い上げられてゆく、というこの国特有の文化現象の構造を表しているのだ。
和歌を詠むことだって、もとはといえば民衆がやっていたことなのだ。
天皇は、あるとき支配者として民衆の前にあらわれた存在ではない。民衆から祀り上げられて自然発生的に生まれてきた存在のなのだ。しかも、政治的なリーダーとして祀り上げられたのではない。民衆自身の先験的な連携結束に形見として祀り上げられていったにすぎない。
そのとき民衆は、「政治のことはわれわれでする、あなたはそこにいてくれるだけでいい」といって祀り上げていったのだ。だから天皇は、民衆を模倣して田植えをし和歌を詠む存在になっていった。
天皇の起源に「南方文化」など関係ない。天皇はあくまで奈良盆地で自然発生してきた存在なのだ。
天皇は南方からやってきたのではない。天皇の先祖は、山で暮らしていた縄文人なのだ。



日本列島では、伝統的に芸能の地位が高い。それはおそらく、弥生時代に巫女という舞の集団が人々から祀り上げられていったところからはじまっている。
つまり、集団のいとなみの中心に芸能があった。
弥生時代奈良盆地では、政治ではなく芸能によって集団をいとなんでいた。巫女という舞の集団を祀り上げることによって彼らは連携結束していた。
少なくとも踊りに関しては、世界中どこでも民衆のところから広がっていった。西洋の社交ダンスでも、まず民衆の習俗として生まれ、そこから宮廷の習俗になっていっただけである。それはつまり、人類史には政治ではなく「娯楽芸能」によって連携結束しながら集団をいとなんでゆく段階があった、ということだ。
日本列島ではそういう政治が生まれる前段階の歴史が長かったから、芸能の地位が高いお国柄になっているのだ。そしてそれは、あの大震災のときの例でもわかるように政治に先導されなくても民衆どうしの先験的な連携結束を持っているということであり、支配者やリーダーよりも民衆の方が先に時代の変化をとらえているということだ。この国の支配者やリーダーは民衆のそうした先験的な連携結束に寄生してきただけである。
中世の猿楽は、民衆の時代感覚やイマジネーションに育てられながら能という高度な芸能の様式になっていった。
べつに観阿弥世阿弥の独創だったのではない。彼らは、民衆の時代感覚やイマジネーションをすくい上げていっただけである。
そのとき民衆は、制度支配に閉じ込められてしまった状況を嘆きながら、民衆自身の先験的な連携結束を取り戻そうとしていた。彼らは、武家と貴族から二重に支配されていた。



人類史における民衆の先験的な連携結束の形見は「祭り」にあり、そこでの踊り=舞を祀り上げてゆくことにあった。人類はもともと、猿社会のような「政治」によってではなく、そういう「身体性」によって連携結束してゆく生き物だった。
人間ほど身体を深く意識している生き物はいない。それは、二本の足で立ち上がることによって身体の「受苦性」と「無力性」とともに生きるところから歴史をはじめた存在だからだ。
だから、踊り=舞が集団の連携結束の形見になっていった。中世の猿楽能はそういう原初のかたちに立ち返ろうとするムーブメント=ルネサンスだったのであり、日本列島にはそのようにして弥生時代奈良盆地の巫女の舞が祀り上げられてゆくという伝統があった。
日本列島には支配者など当てにしないで民衆自身で連携結束してゆこうとする伝統があり、その連携結束の流儀は原始的な「身体性」にあり、それはみんなして身体の「物性=穢れ」を洗い流してゆこうとすることにある。
連携結束することによって穢れがそそがれるのではない。穢れをそそぐことから連携結束がうまれてくる。つまり、舞という穢れをそそぐ身体作法を祀り上げてゆくことによって、連携結束が生まれてくる。
弥生時代奈良盆地の巫女が舞のエキスパートとして祀り上げられたことは、人々の美意識であると同時に、支配者などいなくても民衆自身で連携結束してゆくためのいわば政治的ないとなみでもあった。
政治という言葉はよくわからないが、人類史においては、支配者の政治などなくても民衆自身が連携結束する政治のようなかたちが機能している時代があった。日本列島は、そういう原始的な段階を洗練させてゆく歴史を持っている。そのための機能として祭りの舞がさかんになり、やがて巫女が舞のエキスパートとして祀り上げられてゆくというムーブメントが起きてきた。
日本列島の歴史がなぜそのような流れになったかといえば、海に囲まれた島国であったことと、そのために身体の「物性=穢れ」を深く意識する民族になっていったからだ。
つまりは「身体性」の問題である。
もともと世界中が、祭りの舞が集団の連携結束の形見になっている時代があった。
欧米人や中国・朝鮮人から見れば、日本人の政治はとても稚拙で原始的である。それはまあいわゆる衆愚政治で、支配者やリーダーたちより民衆の時代意識が進んでいるからだ。この国の支配者は、いつだって民衆の時代意識と連携結束に寄生してきただけである。
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