いまどきのモンスター・「天皇の起源」30


日本列島の民衆の天皇を祀り上げる心は、いまだに続いている。これは、戦後の左翼的な空気の中で育った僕としてはちょっとした驚きだった。
子供のころは、天皇制も多くの伝統的な習俗もいずれはなくなってしまうのだろうな、という漠然とした気分があった。
そうしてじっさいにたくさんの伝統的な習俗が消えていったのだが、天皇を祀り上げる習俗は消えなかった。
で、いまや、「ネット右翼」などという天皇に寄生した騒々しく気味悪い連中もあらわれてきた。
天皇を祀り上げることと天皇に寄生してゆくことは、一枚のコインの裏表なのだろう。ともあれそれほどに日本列島の住民は、天皇との離れがたい関係を持っている。
日本列島の住民は、天皇に支配されたがっているのではないし、その歴史のはじめから天皇は支配者ではなかった。
天皇は、民衆を無条件で赦し、祝福している。だから民衆は、天皇に甘え、寄生してゆく。
ネット右翼とは、一種の「クレーマー」だろう。学校教育の場の「モンスター父兄」と同じような存在だ。
日本中が、モンスター化クレーマー化しているのだろうか。これだってこの国に天皇という存在がいるということと無縁ではない。彼らは無意識のどこかで、天皇に甘え寄生している。そういうむごたらしいことをしても許されると思っている。
それは、天皇を政治的な存在としてイメージしてしまっていることから来るのだろう。クレームをつけるという自分の政治的な行為を正当化する根拠として、すべてを赦し祝福している天皇がどこかしらで機能している。彼らは、存在そのものにおいて、すでに天皇に寄生し甘えている。
かといって、天皇がいなくなれば問題が解決するかといえば、そうともいえない。日本的な美意識や人と人の関係の作法の根拠があいまいになって、さらに殺伐とした民族になってしまうかもしれない。
日本列島は治安がよいとか清潔だというようなこともまた、天皇制の文化に違いないのだから。
天皇を政治的な存在だとイメージし、みずからも政治的に思考し振舞おうとすることが変なのだ。天皇はその発生から現在まで実質的にはつねに政治的な存在ではなかったし、すなわちそれは、日本列島は政治的に思考し振舞う文化が未熟であるということを意味する。
日本人が政治的になると、ときに、とたんにモンスター化する。モンスターになっても天皇が祝福し赦してくれると、心の底で甘えているのだ。日本人は政治的にナイーブであると同時に、そういう危険もはらんでいる。
日本人のそういう傾向は、たぶんアメリカ人や中国・朝鮮人の方がよく知っている。われわれが彼らを気味悪いと思うのと同じように、彼らもまたわれわれのことをそのように見ているのだろう。



天皇はもともと政治的な存在として発生したわけないが、この国に政治が生まれてくると権力者たちが天皇に寄生して天皇を政治的な存在にしてゆき、そのかたちの歴史がずっと続いてゆくことになった。明治天皇なんかまわりの政治家たちに操られていただけだったが、なんだか政治的に有能な名君のようにいわれているのは、天皇に寄生し天皇を操っていた政治家たちによる、自分たちのその行為を正当化するための詭弁に違いない。
そうして戦後の知識人だって、右翼も左翼もこぞって天皇を政治的な存在として議論してきた。前者は天皇を政治的な存在として崇め、後者は政治的な存在として否定してきただけである。
戦後は、誰もが政治的に思考し振舞おうとする状況になっていた。日本列島の住民は、政治的に思考し振舞おうとすると天皇に寄生してゆく。それはもう、大和朝廷発生以来の伝統である。
天皇を政治的な存在としてイメージし天皇制を廃止せよと叫ぶことだって、天皇に寄生し甘えている思考である。
天皇はほんとうに政治的な存在だろうか。
われわれが勝手に天皇を政治的な存在だとイメージしてしまっているだけではないのか。天皇制を廃止せよと叫ぶなら、それ以前に、われわれは日本的な美意識の形見としての天皇を否定できるかどうかという問題がある。
われわれが天皇を祀り上げることは、政治の問題でも宗教の問題でもなく、伝統的な美意識の問題である。
なのに戦後は、政治を思考し語ることがもっとも現代的な知性である、というような幻想が蔓延していった。戦争に負けてそのような時代状況になってしまったのだろう。
僕は団塊世代だから、学生のころはもう、政治を語れなければ知的な人間の範疇に入れてもらえない風潮だった。
しかしそれは、オピニオンリーダーである知識人のせいだともいえない。知識人より先に民衆がその気になってしまった。民衆の人と人の関係をはじめとする日常生活のタッチそのものがどんどん政治的になっていったその結果だったのではないだろうか。
誰もが政治的に思考し振舞いながら、戦後の経済繁栄を達成した。
団塊世代にとっては、マルクス主義を考えるのも、会社に入ってどうすれば出世できるかと考えるのも、同じレベルの政治的な思考だった。彼らは、何かにつけて政治的に思考し振舞おうとする習性をすでに持ってしまっていた。
戦後は、日本列島の住民の思考がどんどん政治的になってゆく時代だった。
だからバブルがはじけた今でも、多くの人が政治的に思考し振舞うことを手放そうとしない。多くの知識人は、政治的に思考し振舞うことができなければこの国は滅びてしまう、というような強迫観念じみた物言いをしてくる。上は知識人のアジテーションから下はモンスター父兄のクレームまで、みんなが政治的になってしまっている。
いやそれが現在の日本人のすべてだというのではなく、一部にそういう流れがあるということだ。つまり、知識人は正しく冷静で民衆は愚鈍だとか、そういう図式は意味がないということ。
日本人は、政治的になるとどうしてもモンスター化してしまいやすいナイーブなところがある。



天皇は民衆を祝福し赦している存在であり、民衆はその態度に寄生し甘えてゆく。この国には、そういう歴史的無意識が共同幻想としてはたらいている。われわれは、国と国の関係や人と人の関係を、無防備にそういうかたちにイメージしてしまう傾向がある。
性善説というのか、日本列島の住民の政治意識は稚拙でナイーブである。
しかしそれは、われわれのアドバンテージでもある。この国の歴史は、そういうかたちで美意識=文化をはぐくんできた。そのようにして清潔で治安がよい国土をつくっている。
われわれは、天皇に支配されて歴史を歩んできたのではない。われわれ自身が天皇を祀り上げ、天皇に寄生し甘えながら政治をし、そして美意識=文化の伝統をはぐくんできた。
われわれが勝手に天皇を利用して歴史を歩んできたのだ。その天皇を屠り去るということは、ここまではぐくんできたみずからの美意識=文化の伝統を屠り去ることでもある。戦後社会の歩みは、まさにそのようなものだった。
戦後とは、伝統的な美意識や慣習がどんどん否定されていった時代だった。たとえば、役所の事務の都合で古い町名がどんどん消えていったのは、その象徴的な現象のひとつだった。そして政治的にナイーブなわれわれは、それがいいか悪いかを判断できる民族ではない。すべてを赦し祝福してゆくことが流儀の民族なのだ。日本列島の住民が政治的になるということは、そういうことなのである。その流儀で古い町名を屠り去ってきたのであり、現在の薄気味悪いモンスター・クレーマーだって、どこかしらで赦され祝福されているつもりでいる。
しかし、ここにきて、美意識として天皇を祀り上げる風潮が広がり、若者の中にそういう伝統的な感性がよみがえりつつある。いいことも悪いことも半々だろうが。
天皇は、政治的な存在として発生してきたのではない。
天皇は、日本的な美意識の形見として発生し、本質的にはその後もずっとそのような存在として機能してきたのだ。
天皇を否定することは、伝統としての日本的な美意識を否定することである。
それでいいのか?
バブル景気が崩壊したいま、その屠り去られようとしてきた伝統をあらためて救出しようとする動きが起きてきているのではないだろうか。



人間は、祀り上げようとする生き物である。
ただ、政治的なリーダーを祀り上げるのか、美意識の対象を祀り上げるのか、という問題がある。
現在では、家庭でも学校でも会社でも社会でも、大人たちは政治的なリーダーであろうとする。戦後社会はひとまず政治的なリーダーを必要とし、それによって経済繁栄を達成してきた。
戦後は、伝統的な美意識がどんどん壊れてゆくひどい時代だったのに、自民党はつねに、経済発展を「いい国」であることの根拠にし続けてきたし、多くの民衆もそう信じてきた。
そうしていま、バブル景気が消えたり大震災が続けて起こったりして、もはや今までの論理では「いい国」だとはいえなくなったのだが、いまだに経済発展することがいい国であることだという幻想が残ってもいる。
戦後の経済発展を生きてきた大人たちは、若者に対していまだに政治的なリーダーであろうとしている。
しかし天皇を祀り上げる風潮が広がってきたいまどきの若者は、むやみに政治的に振る舞ったり欲望をかき立てたりすることをしなくなってきている。そういうギャップがあって、大人たちが幻滅されている。
家庭でも社会でも国でも、経済発展しなければ、政治的なリーダーが祀り上げられることはない。
もはや、政治的なリーダーが祀り上げられる時代ではなくなりつつある。
日本列島の歴史は、美意識で人を祀り上げてきた。
人格とか思想を自慢してリーダーになろうとしても、そうそううまくいかなくなってきている。
日本列島の住民は、その人格や思想ではなく、その「姿」を祀り上げる。それが、日本列島の美意識の伝統なのだ。
思想といっても、思想の「姿」というものがある。どんなに正義の思想で来たるべき未来の社会像を語って見せても、民衆の美意識に訴えかけてこなければ、時代はもうそのように動いてゆかない。
子供の前でどんなに正義の思想を説いて見せても、その通りには育たないし、子供から尊敬されるとはかぎらない。子供は、親や教師の「姿」を見ている。それは普遍的な人と人の関係のかたちかもしれないのだが、この国ではとくにそのような精神風土がある。
正義だけでは人は支配できない。



原発反対は、まさに誰もがうなずく正義だった。しかしその思想に、日本列島の伝統の上に成り立った美意識に訴える「姿」はあったか。
それは、美しい思想であったか。
どんなに正義であっても、美しくなければ民衆は動かない。なんのかのといっても民衆は、その「姿」の美しさを見ている。その理屈が正しいかどうかということなどわからなくても、その「姿」が美しいか否かは感じる。
日本列島の民衆は情緒的だから感情に訴えると動く、などといわれるが、そういうことともちょっと違う。「姿」は、感情ではない。
今回の原発反対運動は大いに民衆の感情に訴えたが、それでも動かなかった。
日本列島の民衆は、感情によっても正義によっても動かない。美しい「姿」を祀り上げるようにして動こうとする。おそらくこれが、天皇制の歴史を歩んできた民族の伝統である。
「正義」よりも「姿」の美しさにこだわる。われわれは天皇に美しい「姿」を見ている。その「姿」は、「正義」を表しているのではない。その「姿」は、世界を祝福し赦している。
原発反対は、天皇制の日本列島の住民が抱えている「世界を祝福し赦す」という美意識に訴えてこなかった。
そのとき日本列島の住民の多くは、「原発をなくす」という目標達成の政治よりも、「いまここ」のこの世界を祝福し赦したかった。
天皇の「姿」は、この世界を祝福し赦している。
弥生時代奈良盆地の住民が天皇を生み出したのも、そうした「姿」に対する美意識だったのであり、そこからはじまって、この国の伝統的な文化は、そうした美意識とともに育ってきた。
日本列島の住民は、政治的な正義を祀り上げるのではない、美しい「姿」を祀り上げる。
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