縄文人の嘆きと葬送儀礼・「漂泊論B」41



当世流行のスピリチュアルとは、スピリチュアリティ、「霊魂」というような意味だろうか。あるいは霊性。どちらでもいいわ。
くだらないなあ、と思う。
そんな思考は、人間の自然にもこの国の伝統の上にも成り立っていない。ただの観念的表層的なお戯れ。まったく、いやになってしまう。
……
縄文人は「死後の世界」などイメージしなかった。したがってそのとき、世の歴史家が合唱している「先祖の霊を祀る」というような信仰もあり得ない。それは、原始神道の本質ではない。
「生まれ変わり」とか「死後の世界」というイメージは、永遠性というかたちでこの生に「安定と秩序」をもたらす。しかしそんなものは共同体(国家)の発生以降の現代人の発想であって、おそらく縄文人のものではない。
日本的な心性の源流、すなわち原始神道は、「祖霊信仰」ではなかった。そもそも「霊」という概念が仏教伝来以前にはなかった。
「霊」を意味するやまとことばなんかない。
幽霊、霊性、悪霊、死霊、精霊、霊園、祖霊、霊視、けっきょくわれわれは、霊について語ろうとすればそうした漢語を使うしかない。
日本列島の伝統に、霊という概念はない。
この国の古代以前の人間にとっては死んだらそれで「終わり」なのであり、その「終わる」ことのめでたさが意識されていた。それは、「何もかもきれいさっぱり忘れてゆく」祭りのカタルシスでもあり、彼らはそうやって生き、そうやって死んでいった。
原始神道はひとつの「祝祭」の作法であって、霊魂や死後の世界を信じてゆく宗教ではない。
基本的に祭りとは、「終わり」のめでたさを祝う行事である。縄文人にとって死ぬことは死後の世界に旅立つことではなく、この生が終わって完結することだった。彼らの葬送儀礼は、かなしみつつもそのめでたさを祝う祭りでもあった。



縄文時代の埋葬は、ほとんどが体を丸めたかたちで納める「屈葬」であったらしい。
歴史家はこれを「胎児のかたちに埋めて再生(生まれ変わり)を願った」などといっているのだが、なんだかイメージ貧困のつまらない推論だ。
縄文人には、この生の永遠という「秩序と安定」を欲しがるような生命観はなかった。
そんな現代人のさもしい物差しで縄文人の心性を決めつけるべきではない。
縄文人には縄文人の世界観と生命観があった。
彼らには「死後の世界」というイメージはなかった。
死後にどこかへ旅立ってゆくと思うのなら、西洋の埋葬のように体をまっすぐにしてやっておいた方がいいだろう。それではじめて生まれ変わることができる。
副葬品は、「死後の暮らしに困らないように」と歴史家はいう。しかしそんな体を丸めたかたちで埋めてしまえば、動けなくて暮らしどころではないではないか。
また、だったらその人が使っていたものをそのまま納めればいいのだが、たいていは新しいものを副葬品にしていたらしい。ようするにひとまずのかたちとして「レプリカ」を納めていたのだ。
実際にその人が使っていたものは使い勝手がいいから、生き残ったものが引き継いだ。
つまり、死者の人格を象徴するものとしてそのレプリカを一緒に収めたのだ。べつに「死後の世界」での暮らしのためでもなんでもない。そうやって死者の人格に敬意を示しただけだ。
縄文人は、死者が生まれ変わるとも死後の世界に旅立つとも思っていなかった。
後世の神道の「黄泉の国」という概念は、「死んでもどこにもいかない」という方便のレトリックなのである。
縄文人は、ただもうその人の生が「終わった」ことのかなしみとめでたさをこめて埋葬していっただけだろう。
そのかなしみとめでたさの感慨は、その人の人格をたたえる副葬品を納めずにいられなかったし、すべては「終わった」という意味で「屈葬」にしたのだろう。
単純にそれは、土に帰ってゆくのにもっともふさわしい姿勢としてイメージされていたのだろう。
つまり、縄文人がそのような埋葬の仕方をしていたということは、この国の信仰の源流は「祖霊信仰」にあるのではない、ということだ。歴史家が口をそろえていうそんな通説は、ただの仏教的な世界観であり生命観にすぎない。
まあこの国にそういう信仰の習慣があるということは、日本人の心がいかに深く仏教に翻弄されてきたかということの証明ではあるのだが、それでも日本人は、心の底では「先祖の霊」などというものを信じていない。



日本列島の伝統においては、丸いかたちは完結したかたちを意味している。だから、まるいものを「たま」という。
やまとことばの「たま」とは、「完結している」という意味。「霊魂」という意味などなかった。
縄文人が死者の体を丸まったかたちで埋葬したのは、そこでその人の生が完結しているということのめでたさをあらわすためだったのではないだろうか。
日本人が「死んだら仏になる」というのも、まあそういう伝統にちがいない。死ねば、そこで生も人格も完結する、という感慨が日本人にはある。まあこれは世界中の原始人の感慨でもあるのだが、ともあれわれわれ日本人は、切腹や神風特攻隊の歴史があるからといっても、べつに死ぬことが名誉だなどとは思っていない。
ただもう、「終わる」ことのめでたさを止揚せずにいられない気持ちがある。
相撲では、それを「千秋楽」という。
「大団円」などともいう。
縄文人は、「終わる」ことのめでたさをこめて死者の体を丸めて埋葬した。「まる」=「たま」=「完結」の世界観・生命観。
彼らは、「永遠の生」など願わなかった。彼らは、この生に「秩序と安定」が生まれて「終わり」がないような状態になると嫌気がさして、すぐに宿がえをしたり旅に出ていったりした。
この生は、「終わる」ことによって完結する。そして、それこそが彼らの生きる作法でもあった。それは、何もかもさっぱりと忘れて高揚してゆく「祭り」のカタルシスから生まれてくる生命観にちがいない。
原始人や縄文人にとっては、「秩序と安定」とともに「永遠の生」を得るという「経済」の問題よりも、何もかもきれいさっぱり忘れてしまう「娯楽」の方が切実な問題だった。
「なりゆき」の正しい帰結は「終わる」ことにある。「秩序と安定」にたどり着くことではない。縄文人にとってそれは「けがれ」だった。



日本人の心の動きは、たしかに大陸の人々とはちょっと違う。
われわれは「秩序と安定」を目指す意欲が希薄で、つい「なりゆき」の混沌に身をまかせてしまう。
われわれは自分が日本人であることをとても意識しているが、日本という国に対する愛着はあまりない。誰もがどこかしらで「この国はろくでもない国だ」と嘆いている。
いい国であろうとあるまいと、われわれにとって国は、愛着の対象ではない。なぜならそれは、「秩序と安定」を目指すものだからだ。そのコンセプトは、「なりゆき」で生きている心にそぐわない。
「なりゆき」の正しい帰結は「終わる」ことであって、「秩序と安定」にたどり着くことではない。
嘆きの対象であることがこの国の存在理由になっている。
生きてあるためには、嘆きの対象は必要だ。それがあるから、何もかもきれいさっぱり忘れてしまうカタルシスを汲み上げることができる。
縄文人だって、「秩序と安定」など求めないで、この生を嘆きながら生きていた。
「国(くに)」という言葉はいつごろできたのだろう。
縄文時代の村の小さな寄り合いならまだいいが、弥生時代になって農業をするようになり、大きな集団が形成されるようになってきてからだろう。
集団が大きくなれば、リーダーがあらわれ、政治で統治するようになってくる。そうなって、はじめて「くに」が意識されてきた。
共同体=都市国家の成立。
弥生時代の終わりころから古墳時代にかけてそういう集団が日本中のあちこちに生まれてきて、大和朝廷は、そのもっとも大きな共同体=都市国家だった。
何が鬱陶しいかといって、その「秩序と安定」のコンセプトが鬱陶しかったのだ。
そうなっても人々の基本的なアイデンティティになっているのはあくまで「むら」であり、日本列島の「くに」は、その発生のときからすでに「嘆き」の対象でしかなかった。



嘆きの対象だから「くに」という言葉になった。
「くに」の「く」は、「組む」「苦しい」の「く」。息を殺して「くくく……」と笑う。身動きとれないような息苦しさから「く」という音声が洩れてくる。
「に」は、「似る」「煮る」の「に」、だんだんそうなってゆくこと、「接近」の語義。
だんだん苦しくなってくる感慨から「くに」という言葉が生まれてきた。
日本人にとって「国(くに)」は、最初からとても鬱陶しい嘆きの対象だったのだ。
だから、国家がなかなか生まれてこなかった。大陸では5、6000年前にはすでに国家が存在していたというのに、日本列島では1500年の歴史しかない。われわれは、歴史的に国家を愛せない民族であり、国家の存在を嘆きながら歴史を歩んできた民族なのだ。
われわれが国家を愛せるような民族なら、もっと早く国家が生まれている。
日本列島の国家は、嘆きの対象として生まれてきた。
まあ、まわりを海に囲まれた孤島で異民族との軋轢がまったくなかったから、国家をつくる必要がなかった。大陸との関係が生まれてきて、はじめて一部の層に国家をつくろうとする機運が生まれてきた。
あいかわらず「なりゆき」で生きていた民衆にとっては迷惑な話だったのだが。
日本列島の住民だけではない。人類は、国家をつくりたくてつくったのではない。それは、人間の本性=自然と逆立した存在なのだ。
国家は、「なりゆき」で生きさせてくれない。日本列島の住民が「くに」を嘆く理由はそこにある。いつの時代も民衆は、「くに」を嘆きつつ、「なりゆき」で話が決まってゆく「むら」の寄合に愛着していった。
いや、現在においてもこの国では、会社の会議であれ子供たちの学級会であれ、話はすぐに「なりゆき」で流れてゆく。



われわれはまぎれもなく日本人だが、われわれに愛国心など求められても困る。われわれにとって国は、嘆くためにある。言い換えれば、国を嘆くことがわれの愛国心だ。
われわれは、「秩序と安定」の象徴である国歌も国旗も愛せない。
われわれにとって「秩序と安定」は「けがれ」なのだ。そこに投げ込まれると、「もう、たくさん」という気分になってしまう。そういう気分で古代人は「くに」といった。
歴史的にいえば、縄文時代以来「混沌=なりゆき」で生きてきた人々が、共同体(国家)の発生とともに「秩序と安定」の世界観・生命観で生きてゆくことを迫られた。その戸惑いと混乱から「くに」という言葉が生まれてきた。
そのときの仏教伝来に際し、縄文時代以来の「終わる」という生命観で生きてきた人々が「死後の世界」や「生まれ変わり」という生命観を受け入れてゆくことを迫られた。その混乱と戸惑いはおそらくわれわれの想像以上だったのであり、その混乱と戸惑いはじつはいまなお続いて現代社会の病理現象を引き起こしている。
何度でもいう。たとえそれが世界的な共同幻想であったとしても、日本人は「死後の世界」や「生まれ変わり」を信じきれない民族なのだ。
「霊」などというやまとことばはないのだ。それでどうして「祖霊信仰」なのか。日本列島の住民の心は、そこに死の問題の解決をもつことはできない。
縄文人は、これで死者の生と人格は完結した、すべては終わった、というかなしみとめでたさの感慨を込めて「屈葬」にしたのだ。
日本列島の伝統において、生きてあることのカタルシスは「いまここ」に消えてゆくこと、すなわち「終わる」ことにある。
「なりゆき」の正しい帰結は「終わる」ことにある。永遠の生などという「秩序と安定」にたどり着くことにあるのではない。
それはつまり、何もかもきれいさっぱり忘れてこの世界の森羅万象に溶け込んでゆくという世界観・生命観であり、そのカタルシスを汲み上げてゆく祝祭性にこそ原始神道の起源と真髄がある。ここに、日本的な心性の源流がある。
われわれは、いまだに縄文時代の心性を引きずっている。その1万年の歴史の伝統は、そうかんたんに消えない。
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