旅の神・「漂泊論B」40



原始神道のことを縄文神道ともいうこともあるから、縄文時代が日本的な心性の源流になっているという意識は、多くの歴史家の中にあるのだろう。
道の辻(交差点)によく置かれてある石を「道祖神」などといって祀っている庶民信仰も原始神道のひとつであるといわれている。
それは、この世とあの世の境界(結界)を示す目印として石を置いたのがはじまりだ、という説もある。
縄文人にも「あの世」というイメージがあったのだろうか。あったに決まっている、と結論されては困る。ひとまず仏教によってそう信じ込まされているが、もともと日本人は、「死後の世界」をイメージするのがとても下手な民族なのだ。われわれは、心の底ではそれを信じきれていない。
死んだら何もない「黄泉の国」に行く、ということは、死後の世界などない、というレトリックなのだ。
したがって、道祖神がこの世とあの世の境界(結界)だったという説は、にわかには信じがたい。
「あの世」という意識など縄文人にはなかったのだ。
あの世のことを「とこよ」というのだとか。
そしてこの世のことは「うつしよ」というらしい。
しかし「とこよ」という言葉は、古代においてはいろんな意味につかわれていた。「常世」とか「常夜」という字が当てられてもいる。
「常(つね)」とは、「いつも」とか「ふだん」というような意味だろう。後世の人間はそれに「永遠」というような意味を思い浮かべるのだろうが、縄文人や古代の庶民にそんなイメージがあったとは思えない。
「常(つね」」とは、あくまで現世的なイメージだろう。
「つ」は「付く」「着く」「突く」「憑く」「点く」の「つ」、「接着」「到達」の語義。
「ね」は、「根」の「ね」、「定着」の語義。
「常」とは、接着・到達して定着することをいう。そういう「いまここ」で暮らしている「現世」のことではないのか。「あの世」といいたいのなら、もっと別の字を当てるだろう。
いつも何も見えない夜の世界(¬=黄泉の国)だから「常夜(とこよ)」といったのかもしれない。
それは、もともと「あの世」という概念など持たなかった人々が仏教伝来とともに「あの世」という概念を持たされたことによるつじつま合わせのイメージだ。
縄文人は「夜=黄泉」とすらも思っていなかった。「あの世」というイメージそのものがなかった。
しかし、いつも夜の世界など、この世にはない。道祖神の石を、「ここから先はあの世です」という意味で置いたということは考えられない。池とか森とか、危険な場所を示す石の目印はあったかもしれない。それはあくまで「この世」のことだ。
縄文人は、山道を歩きまわっていたのである。だから、山が「あの世」であるという意識もなかった。



「あの世=死後の世界」というイメージを持たなかった人々が無理やり持たされてそれを言葉にしようとして「とこよ」と呼ぶようになっていったのだろうか。
「とこ」という言葉はあった。
「寝床」とか「苗床」という。もともと「いまここの決定された場所」のことをいった。だからわれわれだって、「いま飯を食っているとこ」などという。
「と」は「戸」の「と」、家の内外を分けるもの。まあ、そういう境界を意味した。そして「こ」は、「ここ」の「こ」、「決定」の語義。
「とこ」とは、決定された場所のこと。つまり、よくわからないが制度によってそういう世界があると決定されているらしい、という気分で「とこよ」といったのだろう。決定された場所、約束の地、まあそんなような意味だろう。そこがあると信じていたわけではない。
そのとき日本列島の住民にとってのあの世は、「存在するかどうかわからないがひとまず存在すると約束されている世界」だった。これは、人間にとっての正確な他界意識をあらわしている言葉かもしれない。
そこがどんな世界かは、彼らは何も知らなかった。だから「黄泉の国」といった。もしもそんな世界があるという前提で歴史を歩んできたのなら、いろんなイメージが浮かんできただろう。そしてそのイメージが言葉になっていったことだろう。しかしその言葉には「約束されている」という以上のどんなイメージもあらわされていない。
ほんとに信じていたら、そんな言い方をするだろうか。
天国とか極楽浄土といえば、それなりにその世界のイメージが表現されている。これは、「あの世」を信じきって歴史を歩んできた人たちが生み出した言葉だ。
日本人だって、「うれし世」とか「たのし世」といえばいいではないか。信じる歴史を歩んでくれば、とうぜんそういうポジティブなイメージはつくられてくるだろう。
信じたことのない人たちがいきなり信じろといわれたから、「とこよ」といい「黄泉の国」といったのだ。
仏教伝来によって、あるときからひとまずそういうことになっていった。それだけのこと。したがって「とこよ」は、原始神道の言葉だとはいえない。そんな言葉を使って原始神道のエキスパートのような顔をしているなんて、ちゃんちゃらおかしい。
本居宣長先生、あなたもだ。
僕はもう、誰のいうことも信じられない。



芭蕉は、「奥の細道」で「道祖神に誘われて旅に出る」というようなことを書いているから、それは旅の神でもあったのかもしれない。
道祖神という字義からすれば、「道」の発生とともに生まれてきた神ということになる。
もともとは村と村の境界を示す石だったという説もあるが、これも違う。
縄文時代には村と村の境界などなかった。集落と集落のあいだはどちらのテリトリーでもない「緩衝地帯」になっているのが直立二足歩行の開始以来の原始的な習俗である。
「境界」という意識が生まれてきたのは、農業をはじめて集落と集落が接近するようになってからのことだろう。というか、誰もが家を耕作地の近くにかまえてばらばらに住み、集落の単位がわかりにくくなってきたこともあるのだろうか。
原始的な狩猟採集の世界には、「境界」などなかった。縄文人の集落は、一か所にかたまってつくられていた。そこだけが彼らの所有地で、その外は誰のものでもなかった。
したがって、村と村の境界示す目印として道祖神が生まれてきたわけではあるまい。
日本人にとっての「村(むら)」という言葉は、空間としての「テリトリー」を意味しているのではない。人と人が寄り集まっている単位のことを「むら」というのだ、おそらく縄文時代から。
縄文人は、「境界」という意識は希薄だったし、「所有」という意識も希薄だった。
なにしろ海に囲まれた島国で、大陸から人がやってくることも、自分たちが大陸に渡ってゆくこともまったくない環境を生きていたのだ。
あの水平線の向こうは「何もない」と思っていた。
まあ原始人は、世界中がみなそう思っていた。「いまここ」に立って見渡すことのできる世界がすべてだった。
それはつまり、生きてある「いまここ」がこの生のすべてで、「死後の世界」など思わなかった、ということだ。
生と死の「境界」などというイメージは原始人にはなかった。
もちろん、原始神道にも「死後の世界」を説く教義などなかった。そんな世界を説くいまどきの神道なんか、ぜんぶ「まがいもの」なのだ。神道の本質や真髄はそんなところにあるのではない。
おそらく道祖神は、「境界」を示すものとして生まれてきたのではない。
旅のための目印と生まれてきた、といった方が、よほど信憑性がある。



山道を旅する縄文人の男たちは、道の交差点のあちこちに石を置いて目印にしていたにちがいない。なにしろ山道は迷いやすい。しかしそれは、信仰というほどではあるまい。まあそれが命を左右するものになったりもしたのだろうが、テリトリーの「境界」を示すものではなかったはずだ。
長野県は、道祖神がいちばん多く残っている地域らしい。これは、道祖神が山道で迷わないための目印として生まれてきたことを意味しているのかもしれない。そうしてそれが、後世に旅の神様になっていった。
このとき縄文人だって「かみ」を意識したかもしれない。しかしそれは、石に対する特別な愛着をこめてそういったのであって、べつに神がこの石を特別なものにしていると思ったのではない。彼らは、自然の森羅万象に対する愛着やおそれをこめて「かみ」といったのであって、「神という存在」がこの世界を支配しているというような世界観は持っていなかった。
彼らは、愛着やおそれの感慨が深く確かに起こってくる体験を「かみ」といったのであって、「神という存在」を意識していたのではない。このへんは、微妙なところだ。その石を「かみ」と思ったとしても、その石に対する愛着やおそれの表現であって、その石に対して何も思わなければ、それは「かみ」でもなんでもなかった。
自然の森羅万象に深い感慨を抱く体験を「かみ」といったのであって、森羅万象を支配する「神という存在」を意識していたのではない。
たとえばその石を別のものに取り変えて捨ててしまえば、それは「かみ」でもなんでもなかった。
もしもそれでもまだ「かみ」と思うような心の動きがあれば、居留地をかんたんに捨てて引っ越してゆくというようなことはしないし、死ぬこともきっと怖かっただろう。そういう心の動きがあれば、三内丸山遺跡の集落は奈良盆地のような都市国家に発展していったことだろう。
縄文人の「かみ」という言葉には、この世界の「秩序と安定」などこめられていない。
彼らはこの世界の「秩序と安定」など求めていなかった。すべては「なりゆき」だった。
とにかくそれは、特別な愛着のこもった石だった。縄文人にとってはそれ以上でも以下でもなかったが、後世の人間がそれを「神」にしていった。それは、この世界の「秩序と安定」をつかさどる「神」という漢字の概念が輸入されてからのことだ。
人類は、この生に「秩序と安定」をもたらすものとして、「霊魂」とか「死後の世界」をイメージしていった。
縄文人は、死後の世界などイメージしなかった。



道祖神は、男根と女陰を象徴する二つの石をセットにして置かれていることが多いのだとか。
だからそれが、「この世とあの世」を意味する、などともいわれているのだが、もともと道祖神は二つの地域をつなげる目印として生まれてきたのであって、「分ける」という機能を持っていたのではない。
男根と女陰は、「つながる」一対であって、「分ける」ものではない。
誰だってその二つを見れば「つながる」ということを連想する。
この石の先には待ってくれている人がいる、という目印なのだ。この先にはいいことがあるよ、女の集落があるよ、と。
起源としては、男たちがまずひとつの石を置き、女たちが「待っているよ」というサインとしてその横にもうひとつ石を置いていったのかもしれない。最初はただそれだけだったのだが、しだいに男根と女陰を象徴するかたちの一対になっていった。
たとえ後世にそれが「道祖神」という名称になったとしても、縄文人はあくまでそういう現世の「祭り」を生きていただけだろう。
縄文人は、「いまここ」がこの世界この生のすべてだと思っていた。「とこ」という言葉だって、もともとはそういう感慨から生まれてきた言葉だったのだ。「寝床」だろうと「苗床」だろうと、そういう愛着をこめて「とこ」といっているのだ。
日本列島の住民は、根源的には「あの世」のイメージを持っていない。したがって原始神道にも「とこよ」という言葉はなかった。
原始神道においては、この世界が世界のすべてだったのだ。日本的な心性は、そういう世界観・生命観の上に成り立っている。
あるときから神道でもこの世とあの世をいうようになってきた、というだけのこと。
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