神社の起源・「漂泊論B」42



死後の世界のことを見てきたように得々と語られると、多くの人が「へえ、そうなのか」と説得されてしまう。
誰もが、そんな世界があるのだろう、となんとなく思っている。
誰もが、自分がいま生きてあることをとてもリアルに感じているから、それが消えてしまうことをうまくイメージできない。
いつも自分を意識して生きていれば、そんなことはうまく思い浮かばないし、思いたくない。そうして、自分が永遠に存在し続けることの方が、むしろリアルに感じられてくる。
われわれの肥大化した自我は、自分が消えてなくなることをうまくイメージできない。
そこにつけこまれて、死後の世界を信じてしまう。
しかし、どんなに深く信じても、それが存在することの証拠にはならない。人間は、信じたいように信じることができる。
そしてそれを扇動するものたちがどんなにたしかに「見た」という体験しようと、人間は見たいものを見ることができるような視覚の機能を持っているというだけのこと。幽霊だろうとUFOだろうと、それはきっとほんとに見たのだろう。しかしほんとに見たからといっても、それがほんとに存在することの証拠にはならない。
それをほんとに見てしまうのは、それがほんとに存在していると信じきっているからであり、信じきっていれば、ほんとに見ることができる。
つまり、「信じる」という「自我」が、そういう視覚体験をさせる。
人間の「見る」という体験は、それほど信じられるものではない。半分は自我によって構成されている。われわれが、りんごを見るという体験だって、意識の作用を借りてりんごのかたちに見えているのだ。
神が存在すると信じなければ神を見ることができないし、信じれば見ることができる。
そして「光のシャワー」を見たといっても、それが神であるとどうして決めつけることができるのか。「神は存在している」「神は光として現れる」と信じているから、そんな光を見てしまうのであり、それを神だと決めつけることができる。
信じていなければ、そんなものは神でもなんでもない。ただ人間の視覚は、そこに存在しないものでも見てしまうことができるような機能を持っている、というだけのことだ。
そんなものは、肥大化した自我による、たんなる心的生理現象にすぎない。
すべての「神を見た」という体験の根源に、神の存在を信じる心がはたらいている。その肥大化した自我が、そういう体験を引き寄せる。



意識は、存在しないもの、あるいは存在するかどうかわからないものを信じ込むことができる。
子供は本気で水木しげるの妖怪もウルトラマンも信じている。
戦前の人々は、子供のころから、天皇は神だということを信じ込まされて育った。
いったん信じてしまえば、信じていないと生きられなくなる。
人間の世界認識は、たんなる身体的な視覚や聴覚すらも、意識が持っている「過去のデータ(記憶)」で補完されて成り立っている。
成長すれば、その「過去のデータ」も増えてゆく。世の中の空気や仕組みや、いろんなことを覚えて「過去のデータ」に加えてゆく。
妖怪やサンタクロースなどいないとか、天皇は神ではないというような世の中の空気も「過去のデータ」に加わってくる。
この「世の中の空気=社会的幻想」というのがくせものだ。
天皇は神であるという空気も、神ではないという空気もある。
嘘をついたらいけないという空気もあれば、嘘をついた方が得だという空気もある。
時代の流行としての空気もあれば、歴史的な伝統という空気もある。
われわれが正月になれば初詣に行きたがるのは、歴史的な伝統としての空気がこの国に漂っているからだろう。
そして、正月に初詣に行くという歴史的な伝統としての「空気」には、原始神道のコンセプトが残っている。われわれは、無意識のうちにそれを嗅ぎ取って「過去のデータ」に加えてしまっている。
原始神道のコンセプトは、この世界やこの生をつかさどる神とか霊魂という概念を持たない。そういう世界観や生命観が、知らず知らずわれわれの無意識(=過去のデータ)の中に組み込まれてある。
そのためにわれわれは、そうした神とか霊魂という概念を心底からは信じられない。自分では信じているつもりでも、心のどこかで信じていない。まあこの世の中では、そういう人が大多数なのだ。
日本列島の住民は、それをひとまず信じつつも心の底では信じられない、という歴史を歩んできた。その概念が大陸から入ってきた1500年前から、ずっとそうだったのだ。
現代人が初詣に行きたがるのも、ただ神を信じて御利益をお願いするというようなことだけではなく、何かしらどうしようもない開放感というか晴れ晴れとした気持ちになれるからだろう。
そのときわれわれは、「存在」としての「神」ではなく、「非存在」としての「かみ」を感じている。
ただもう「正月になったなあ」という開放感、それが「かみ」のはたらきであるというか、「かみ」という感慨である。
西洋の「神」は、「神」を意識させる装置として成り立っている。それに対してこの国の歴史的な伝統である原始神道としての「かみ」は、「かみ」を意識させない。ただもう、森羅万象に対する直接的な深い感慨をもたらす装置として機能してきた。
「神」を意識するのは、「自我」である。それに対して日本列島の「かみ」は、自分のことをきれいさっぱりと忘れさせてくれる。つまり、「自我を消去する」装置として機能している。
自我を消去してしまえば、神も霊魂も存在しない。そういうイノセントな気分にさせられる空気が、この島国に漂っている。
そうして進駐軍マッカーサーから「日本人は子供みたいだ」といわれた。
そうかい、大人や文明人がそんなにえらいのか……。



原始人や縄文人は、この世界やこの生をつかさどる神や霊魂を信じるような肥大化した自我は持っていなかった。
自我とは、何かをしようとする「作為」の意識である。その作為性の根拠として、神や霊魂という概念が生み出されてきた。
人間はこの生の「混沌=なりゆき」を生きている存在であるからこそ、この生の「秩序と安定」を持とうともする。それが自我=作為である。
人類は、「混沌=なりゆき」それ自体を生きる作法で700万年の歴史を歩んできた。そこから作為的な自我が肥大化してくる契機は、共同体(国家」の発生にあった。
日本列島は、農業の開始も共同体(国家)の発生も、大陸に比べると、大きく遅れた。
大陸ではすでに5,6000年前から神や霊魂という概念とともに共同体(国家)の歴史を歩みはじめていたが、日本列島では、1500年前の大和朝廷の成立以降のことだった。
本格的な農業の開始も、2000年前の弥生時代からのことである。
それまでの1万年の縄文時代では、ひたすら原始的な「混沌=なりゆき」の文化を洗練させてきた。文化や知能の水準が劣っていたのではない。世界水準の文化や知能で原始的な「混沌=なりゆき」の世界観・生命観を生きてきたのだ。おそらくそこに、海に囲まれた孤島であった日本列島の特異性がある。
まあ大和朝廷が国家のかたちをなしてきたころ、日本中に都市国家のような集団がいくつかできていたのだろう。大和朝廷自体が、奈良盆地のいくつかの都市国家を統合した政治集団であったのかもしれない。
そこでその政治を行うためには、それまでの「混沌=なりゆき」の世界観・生命観ではうまくいかなくなった。
既成の神道のコンセプトでは、国家建設の基礎としての理念にならなかった。
神道が、この世界やこの生をつかさどる神や霊魂という概念とともに「秩序と安定」を目指すコンセプトを持っていたら、何もわざわざ仏教を取り入れる必要はない。
しかし神道には、そうした「秩序と安定」をつくろうとする作為性はなかった。
そのとき支配者たちはすでに「自我=作為」に目覚めていたから、神道では国家建設がうまくいかないことはよくわかっていた。
いや、神道ではうまくいかないことがいくつもあらわれてきた、ということだろうか。
といっても民衆はもちろんいぜんとして神道のコンセプトで暮らしていたのだから、仏教を取り入れながら神道も作為性を持ったものに変えてゆく、という流れになっていった。
そうやって日本列島の民衆は、神道の意識を残しつつも、表層的にはしだいに仏教の世界観・生命観に洗脳されていった。



天皇家は、神道を継承していった。それは、天皇が民衆の支持に支えられた存在だったからだろう。古代の民衆は、いぜんとして神道で暮らしていた。
しかし政治の実務に携わるものたちは、仏教に傾倒していった。そうして神道のコンセプトも、しだいに変質していった。
伊勢神宮はアマテラスを祖霊=祭神としている。しかしそんなことは平安時代からはじまったことで、土着の伊勢神宮が何を祀っていたかはわからない。
現在の神社がそれぞれ祖霊=祭神を祀っていることから、神道の起源は「祖霊信仰」であるということに解釈されているのだろうが、起源としての神社が神を祀るところだったとはかぎらない。
縄文人は「祖霊」などというものは知らなかった。「霊」という概念そのものを知らなかった。
やまとことばには、「霊」に当たる言葉はない。だからわれわれは、この言葉をやまとことばに置き替えることができない。
「祖霊信仰」が神道の起源だというのなら、それをやまとことばの古語で言い換えていただきたいものだ。
日本的な心性の源流を語るのに「祖霊」などという漢語を使うべきではない。それは、アンフェアだ。
スピリチュアルのブームなんか、さらにくだらない。



おそらく起源としての神社は、神を祀るところではなく、たんなる芸能の舞台のような場所だった。
たとえばその神社が山を背にしていたら、山が「かみ」だったのだろう。それは、「祖霊」でもなんでもなく、「いまここ」の「かみ」だ。
その「かみ」は、「存在としての神」ではなく、その山の「真髄」のようなものだ。その山を「かみ」たらしめている「真髄」を「かみ」といい、「真髄が宿っている」ことを、「かみが宿っている」といった。
したがって、山に名前はあったが、「かみ」には名前はなかった。
「かみ」は、「かみ」という以外にほかにいいようがなかった。それは「存在」ではなかった。あくまで「いまここ」の山に対する深い感慨を「かみ」といった。
神道における「かみ」とは人々の森羅万象に対する「感慨」のことであって、西洋の「神(ゴッド)」と同じような「存在」ではなかった。
その山を前にすると、「かみ」という音声がこぼれ出てしまうような深い感慨があった。まあ、高揚感といっても畏れといってもいい。
その山を背にして「巫女」のような存在が語ったり歌ったり踊ったりして見せれば、人々の心はさらに高揚して我を忘れていった。
そこには「巫女」のような存在がいて、そういう体験をさせてくれた。それが、起源としての神社ではなかっただろうか。
神社の「かみ」に名前をつけて「存在」であるかのようにいわれてきたのは、仏教が阿弥陀如来とか大日如来とかいっていることに対応したのだろう。
仏教の「仏=神」は、たしかに「存在」である。だから、名前が付いている。
しかし起源としての神社には、「存在」としての「祖霊=神」などいなかった。
あくまで「いまここ」の「かみ」という感慨が生まれる体験があっただけだ。
そしてわれわれ現代人が初詣に出かけたり初日の出を拝むときにも、じつはそういう原初的な「かみ」という感慨の体験をしている。べつに「存在」としての「祖霊=神」を意識しているのではない。そんなものなど知ったこっちゃない若者でも、「かみ」という感慨の高揚感を体験しているのだ。



仏教のお経のほんらいの機能は、坊主自身の修行のために称えるものだったのだろう。そしてそれは仏に捧げるものだから、決まった文言になっていて変えてはいけない。
それに対して神社の祝詞は、聴衆に聞かせるためのものであり、神職が自分で作文するのが基本である。つまり、自分の芸を披露する行為なのだ。そういう、たぶん起源以来の伝統があるらしい。
まあ昔は、そのときの感興にまかせて即興で詠み上げたのだろう。しかしもう現在は、そんなダイナミズムが生まれる場ではなくなっている。人の心も変わってしまったし。
人間が作為的になると、即興の能力がなくなってしまう。
縄文文化、すなわち原始神道は、「いまここ」に憑依してゆく即興の「祭り」だった。
したがってそこには、「祖霊」という「神」などいなかった。
まあ、もともとそういう「祖霊=神」などいない場所だったから、伊勢神宮があっさりとアマテラスの神社になってしまったのだろう。
出雲大社だって同じである。もともと土着の神社だったのに、大和朝廷が勝手にオオクニヌシという古事記に登場してくる「祖霊=祭神」を押し付けていった。いや、そのときすでに出雲という共同体の祭神を持っていたとしても、それすらも便宜上あとからでっちあげたもので、神社ほんらいのものではなかった。
そのころはまだ、神社にはもともと祭神などというものはないということを誰もが知っていた。祭神などない場所だったから、祭神をでっちあげることができたのだ。
そうやって日本列島全体が、じわじわと大陸的な霊魂観に染まっていった。
しかしそれでも、縄文時代1万年の歴史と伝統は、そうかんたんに消えるものではない。
なんのかのといっても、原始宗教といわれている神道は、天皇制とともに現在にも生き残っている。こんなことは世界でも稀有なことらしい。
そしてそれが生き残っているということは、われわれがいまだに「死後の世界」や「生まれ変わり」や「霊魂」などというものを信じきれない心を歴史的な無意識として残している、ということなのだ。
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