縄文的ターミナルケア・ネアンデルタール人と日本人・50


いくら伊勢白山道や江原啓之のスピリチュアルが人気になっているからといっても、それが日本的なターミナルケアの思想に新生面を切り拓いたという話も聞かない。
まあ俗世間の善男善女の日々の暮らしには何らかの役に立っているのだろうが、死んでゆく人を介護する現場においては、おそらく神や霊魂や死後の世界がどうのといっているだけではすまない。死の恐怖に荒れ狂った心が最後に切羽詰まってそんなレトリックでごまかしてゆくということはあるだろう。しかしそれ以前に、そこに行かないためにはどうすればいいかという問題がある。
現代社会には神や霊魂や死後の世界を信じるようになってゆく契機がいくらでもあるのだろうが、はたしてその概念は死んでゆく人の心を救っているだろうか。
彼らは、死後の世界に向かって旅立っていこうとしているのではない。そんなつもりであるのなら今すぐ自殺してしまえばいいだけだし、神や霊魂や死後の世界の概念はきっとその後押しをしてくれるだろう。
しかし多くの人が、最後の瞬間までこの世界にとどまっている。その、この世界にとどまっている時間をどう過ごせばいいのか。
旅立つ準備をしたいのではない。あくまでこの世界にとどまっている最後の時間をどう過ごせばいいのかという問題があるのだ。そのとき人は神や霊魂や死後の世界のことなど信じていないし、信じてしまえばさっさと死んでゆく。
自分だけが特別でこんなにも苦悩している、などと思わない方がいい。人の心などたいしてちがわない。誰だって、人間以上でも以下でもない。
安らかな境地などというものはよくわからない。しかし、なぜ最後の瞬間までこの世界にとどまろうとしているのかといえば、この世界や他者に対するときめきと別れがたいかなしみがあるからだろう。
死にたくないという以前に、なぜこんなにも人や世界がいとおしいのだろう、という問題がある。その心模様よりも、神や霊魂や死後の世界を信じる気持ちの方が大切なのか。
「私は神や霊魂や死後の世界を信じているから心配しなくてもいいよ」といって微笑んでいる人にも、「どうしてこんなにもこの世界がいとおしくなってしまうのだろう」というときめきやかなしみはあるのだろう。だがそれは、神や霊魂や死後の世界を信じているからではない。信じていない人のほうがもっと深く切実に体験しているのだろうし、深く切実に思ってしまったら、神や霊魂や死後の世界を信じるどころではなくなってしまう。
頭の中が怒りと恐怖と苦悩で荒れ狂っているのなら、それを鎮めてやる必要があるだろう。だが、荒れ狂わなくなればそれで問題がすべて解決されるわけではない。
体はどんどん弱っていっているのに、それでも切なくこの世界をいとおしんでいる。それはきっと、とても狂おしいことだろう。体の衰弱のぶんだけ心も衰弱するというわけではない。荒れ狂うことだけでなく、そういう痛ましさというのもある。
体が衰弱しきって身動きもままならなくなっているというのに、それと反比例するようにより深くこの世界に対するいとおしさとこの世界と別れるかなしみが胸にあふれてくる。ただ心安らかであればそれでいいというようなものでもない。じつは誰もが、最後の最後でそういう心模様と遭遇している。
この生の最後の時間は、神や霊魂や死後の世界を信じているから安心だというだけではすまない。
ただのボケ老人や迷惑老人ならマニュアル通りに対処すればいいだけかもしれないが、動けない体のまま正味の人間的な心で最後の時間と向き合っている人もたくさんいるのだろう。それでも深くときめいてしまうし、深くかなしんでしまう、という痛ましさ。もしかしたら、ボケたり狂ったりしない終末患者はみんな、そんな心模様を持っているのではないだろうか、みんなそうやって死んでゆくのではないだろうか、と思わないでもない。
体と同じだけ心も衰弱するとはかぎらない。介護する人は、日々その痛ましさと向き合って現場にいるのではないだろうか。
たぶん、最後の最後は、神や霊魂や死後の世界の問題ではないのだ。つまり人間の自然というか根源というか、原始的な心模様に返ってゆくのではないだろうか。
何がわかるとか信じるとか、そういう観念の問題ではない。心は勝手にときめいたりかなしんだりしてしまう。自分ではもう、どうすることもできない。



しかしあの人たちは、どうして神だの霊魂だの生まれ変わりだのといいたがるのだろうか。ただ自分の観念世界の中だけのことなのに、まるで科学的に証明された既成事実であるかのようにいう。
そしてこのオカルト趣味ばかりは、知能が高い低いは関係ない。
かれらは、この世界やこの生とは何かと問い、それがひとつの解答なのだろう。そうして安心立命を得る、ということだろうか。
しかし、彼らはなぜそんな安心が欲しいのだろう。
ずいぶん恨みがましい心根ではないか。
この世界やこの生に恨みでもあるのだろうか。彼らは、この世界やこの生を自分の観念の世界に閉じ込めている。そうして、この世界やこの生はこうなっている、と解説してくれる。
そんなことがわからねばならないのか。わかろうとするのが人間の本性であり自然なのか。われわれにはその気持ちがよくわからない。
われわれだって、自分の目の前に世界や他者が存在することや、自分がこの生のさなかに置かれていることは感じる。しかしそれをわかりたいという気持ちがよくわからない。わかって支配したいのだろうか。
僕は、生まれてこのかた、自分がどう生きるべきかという問題を持ったことがない。自分はこの生から置き去りにされた存在であり、追いかけるので精いっぱいだ、ということだろうか。あまりうまく自分で自分をコントロールするということができない。そういうだらしない人間だ。
自分をコントロールし、自分と世界=他者との関係をコントロールしてゆくために知る必要があるのだろう。その気持ちがよくわからない。そこまでの恨みを、この生や他者や世界に対して持つことはできない。
そして、人間なんてだいたいこんなものだろうと思っている。
この世界やこの生がわかりたいなんて、きっと特別な人間なのだろう。というか、そういう特別な部分は誰もが多かれ少なかれ持っているのかもしれないが、たいていの人は彼らほどじゃない。
自信たっぷりに神や霊魂や死後の世界の存在を説くことができる人間なんか、この国にはそうそういない。
われわれはそういうことがよくわからない民族なのだ。
なぜならこの国にそのような概念が定着しはじめてまだ1500年しかたっていないのであり、もともと大陸からの借り物の概念にすぎない。日本列島1万3千年の歴史の、たった1500年である。
それでもまあ世界標準の観念制度だから、大きな顔ができるということだろうか。これで一挙に何もかも解決できる、と思うのだろうか。たしかにそれは多くの人が知りたがっていることであり、自分は誰よりもそれをクリアに見て実感して体験したと思うのなら、大いに吹聴したくもなるにちがいない。
それはもう、世界中に蔓延している観念制度なのだ。そうして、それなりの現世利益があるのだろう。
ただ、ここにほんとうの人間性の自然や本質があるのだろうか、という疑問はどうしても残る。
彼らがうぬぼれるほどには、ターミナルケアという人類の最終的な問題に決定的な効果をもたらしていないではないか。
まあ、この世界やこの生の構造を解き明かしたつもりになっていること自体がどうしようもなく通俗的であり、それは、あなたたちのルサンチマンの結果なのだ。
この世界やこの生のことがわかったということは、この世界やこの生を味わう能力をすでに喪失しているということでもある。彼らはこの生をつくっているだけであって、味わってなどいないのだ。
人生の最終段階に入れば、この生をつくるという問題はすでに終わっているのである。そうしてそれでも人はそこで、「この生を味わう」という体験をさせられる。おそらく生涯でもっとも深く味わうことを余儀なくされる。そのときになったらもう、神や霊魂や死後の世界という概念などまったく無意味になる。それは、人生のもっとも重要な局面においてもっとも邪魔なものになるのだ。
神とか霊魂とか死後の世界という概念は、ただただ人生の途中の段階で、人生をごまかしながら生きるのに役立っているだけなのだ。
死を前にすればもう、神や霊魂や死後の世界などというごまかしはきかない。
そのときこの生は、つくるものではなく、味わうものになる。目の前の世界が深く心にしみてくる。それを体験している人にとっては、神も霊魂も死後の世界も、すでにどうでもいいのである。
神や霊魂や死後の世界という概念でターミナルケアの問題が解決するのなら、人類はもうとっくに解決している。なぜならそれは、5000年も前から人類が親しく扱ってきた概念なのだから。
神や霊魂や死後の世界という概念ではすまない問題があり、神や霊魂や死後の世界を信じていると、そういうことに鈍感になってしまう。
神や霊魂や死後の世界を信じるということは、心がこの世界から離れてしまうということだ。「今」からも「ここ」からも離れて自分の観念世界に閉じこもっている。そうしてこの世界と出会ってときめくことも、この世界と別れてゆくかなしみもない。そうやって「死ぬことなんか怖くない」といっても、それだけではすまない問題がある。
この生の最後の問題は、神や霊魂や死後の世界を信じれば解決するというわけにいかないし、神や霊魂や死後の世界を思わないところから浮かび上がってくる。
人が人生の最後に出会うのは、この世界やこの生であって、死後の世界ではない。
最後の最後でやっとこの世界やこの生を間近に見ることができる、というのか。



それはもう、キリスト教イスラム教や仏教の国の人でもそうなのだろう。病気になったり老いたりして体が衰弱して死んでゆくとき、最後はもう神や霊魂や死後の世界という概念は無効になってしまう。それは、人生でもっともクリアにこの生やこの世界と出会っている時間なのだ。
最後はもう、神も霊魂も死後の世界も実感できなくなってしまう。おそらく、そこにおいてターミナルケアという問題が生成しているのだ。
もう、この生を味わい尽くしながら、この生やこの世界との別れ深くかなしんでゆくしかない。そういう直截で原始的な体験だけがある。
神や霊魂や死後の世界という問題だけではどうにもならないということを、現場の人がいちばんよく知っている。
俗世間の俗物ばかりが、それでなんとかなると思っている。
神や霊魂や死後の世界の概念とともに安心しきって死んでゆく人なんかひとりもいない。みんな、この世界やこの生との別れを深くかなしんで死んでゆくのだ。
死んでゆく人は誰もが「別れのかなしみ」を携えている。
アホヅラこいて神や霊魂や死後の世界を信じ切っているのではない。
心は、「今ここ」のこの世界やこの生の中に消えてゆく。
人生の最後の時間を生きることは、「別れのかなしみ」を生きることだ。
そして残されるものたちは、何としても別れたくないと思う。死なれてはじめて、「別れのかなしみ」に浸されてゆく。霊魂が天国や極楽浄土に旅立ってゆく、と思おうと思うまいと、さしあたって「死者はもう二度と戻らない」という事実をかなしんで泣いている。死んでゆく人は、そういうかなしみを、すでに死んでゆくさなかで体験している。旅立ちの期待なんかない。どこにも旅立ってゆかない、「今ここ」に消えてゆくだけだ……という心地なのだろう。
おそらくそれは原始的な死者と残されるものたちとの関係であって、宗教的な救済の問題ではない。
人間は人生の99パーセントを神や霊魂や死後の世界を信じていても、最後の時間だけは忘れている。おそらくそれが、ターミナルケアという問題なのだ。



人類の死生観は、「別れのかなしみ」とともに形成されてきた。
人類史の99・9パーセントはそのような死生観で歴史を歩んできたのだ。だから、いくら5000年を神や霊魂や死後の世界の死生観の歴史を歩んできたといっても、それだけではすまない。ましてや日本列島では、大陸からの借り物として据えてきただけの1500年の歴史でしかない。
たとえ現代人といえども、神や霊魂や死後の世界とは別の原始的な死生観も持っている。
なのに今どきの歴史家は、縄文人までも神や霊魂や死後の世界の死生観で埋葬していたという。まあ、アニミズムのことを原始宗教などといって原始人もすでにそのような死生観で生きていたと考えるのが世界の常識になっているのだからそれはもうしょうがないことかもしれないのだが、そうではないし、そうではないほんとの原始的な死生観こそが現代のターミナルケアの思想に寄与できるのではないだろうか。
原始的な死生観は、「別れのかなしみ」の上に成り立っている。原始人は、神も霊魂も死後の世界も知らなかった。知らなかったからこそ、より深く豊かに「別れのかなしみ」と「出会いのときめき」を汲み上げ、地球の隅々まで拡散していった。
人間性の基礎は、神も霊魂も死後の世界も知らないことにある。われわれはこのかたちで生まれてきて、死んでゆく。
縄文人だって、神も霊魂も死後の世界も知らなかった。彼らの「埋葬」という行為にも「墓」という概念にも、アニミズムなどまとわりついていない。そしてそれでも、現代人ほど死を前にして荒れ狂い暴れまわるということはなかったはずである。
彼らは神も霊魂も死後の世界も知らないから荒れ狂わなかったし、現代人は神や霊魂や死後の世界という概念に頭の中を冒されてしまっているから荒れ狂わねばならないともいえる。
彼らは、現代人よりもはるかに深く豊かに「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」を汲み上げてゆくことのできる人たちだった。彼らには、この生やこの世界の外の神も霊魂も死後の世界もなかった。「ない」ものを「ない」と思い定める原始的で直截な感性を持っていた。そこから「はか」というやまとことばが生まれてきた。
彼らは、「別れのかなしみ」とともに死んでゆき、「別れのかなしみ」とともに葬送儀礼をしていた。そこには、神とか霊魂とか死後の世界などというアニミズムは機能していなかった。
日本人は、もともと神や霊魂や死後の世界ということをよく知らない民族なのである。「別れのかなしみ」で死んでゆき、「別れのかなしみ」で葬送してきたのだ。
「むかしの人は信心深かったから死を前にしてうろたえなかった」などとよくいわれる。しかしそうじゃない、「別れのかなしみ」を心にしみて汲み上げることができたからだ。信心の問題ではない。人が死んでゆくときに信心など関係ないのだ。信心などというものは、俗世間の人間のこの生への執着の役に立っているだけだ。
スピリチュアルやカルト宗教の氾濫など、今の人間の方がずっと信心深く迷信的であるともいえるし、信心なんかしていなくても潔く美しく死んでゆく人は、むかしも今もいくらでもいる。
信心していようとしていまいと、死んでゆくときの人の心は「別れのかなしみ」に浸されている。それはもう、世界中そうなのだ。そこのところの作法が、むかしの人の方が洗練されていたのだ。
「宗教は人を死の恐怖から救う」などというのは、どうしようもない迷妄であり幻想である。宗教者は、平気で死んでゆくことができるし、そのぶん他者の命も平気で奪うことができる。彼らには、人が「死んでゆく」という「最後の時間」に対するイメージが欠落している。そりゃあ、死後の世界が信じられるのだから、そんな時間のことは捨象して思いが及ばない。そうやってさっさと死んでゆき、平気で人を殺す。彼らには、「別れのかなしみ」がない。したがって宗教によっては、人間の死の問題もターミナルケアの問題も解決されはしない。
人間はほんらい、死にたい死にたいと嘆きながらなかなか死ねない存在であり、そこから「別れのかなしみ」とともにある「最後の時間」が体験される。ここから人間の普遍的な死生観が生まれてくるのであり、おそらくネアンデルタール人縄文人もそういう死生観を持っていた。そしてこれは、宗教とかアニミズムなどというものとは全く無縁の心模様の上に成り立っていた。
それでいいのだ。宗教では死んでゆく人の心は救えない。
日本列島の伝統には、宗教という基盤がない。それが「ジャパンクール」ということであり、そこのところに立ってより高度で美しいターミナルケアの思想や方法論を紡いでいってもらいたいものだと思う。
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