呪術と正義と、右翼という立場・神道と天皇(84)

人はかんたんに洗脳されてしまう生きものである。
だから、宗教がこの世界からなくならない。
しかしそれと同時に、すべてを疑う生きものでもある。
なぜなら、その信じている真実が、ただ洗脳されただけのものにすぎないのなら、とうぜん疑ってみようという気持ちも生まれてくる。そうやって人類の知能は進化発展してきたのであり、猿にはそうした他愛なく洗脳されて信じてしまうこととそれを反省してもう一度疑ってみるということの振幅がない。
人は、猿よりももっと他愛ない存在なのだ。しかしそのかんたんに信じてしまう他愛なさが、人ならではの深い探求心を生む。

この前ネアンデルタール人のことについて発言しているYOUTUBEを検索していて、武田鉄矢があれこれうんちくを語っているラジオ番組があることを知った。僕は武田鉄矢なんか好きでもなんでもないのだが、まあ彼は勉強家だし、ファンもけっこういるのだろうか。しかし彼のダメなところは、受け売りばかりして自分で考えるということができないところにある。内田樹にしても、彼らは、つまらない常識を批判して考えているように見せる芸だけは達者だが、ほんとうは何も考えていない。あんがいかんたんに思考停止してしまって、よく見ると受け売りに終始しているだけで、思考の展開力というものがまるでない。
最初からつまらないと思っている説を批判することなんかかんたんで、じつは、自分がいちばん感銘を受け信じ込まされたその説をもう一度疑ってみる、ということができるところにこそ人間的な思考の本領がある。それを「進取の気性」というのだし、そこにこそ日本列島の精神風土の伝統がある。
仏教伝来のときの日本人はいったん仏教に洗脳されてしまったが、いつの間にか仏教なんかただの風俗ファッションになってしまっている。
「正義・正論」というのは、たしかに人を洗脳してしまう。しかし人の本性というか無意識は、知らず知らずそれをなし崩しにしながら超えていってしまう。
今どきの「正義・正論」を振りかざしている右翼や左翼のいうことだって、いつかは民衆の無意識という人としての本性に超えられてしまうのだろう。彼らはけっきょく、受け売りをするだけで、展開してゆく能力なんかないのだ。「正義・正論」というのはようするにそのようなもので、人は「正義・正論」というかたちで思考停止していってしまうのだ。
どんなに正義を振り回しても、歴史はその通りにおさまってゆくわけではない。
歴史は、正義が動かすのではなく、人間性の自然すなわち人々の無意識とともに動いてゆく。
この国の国民性をいったい誰がつくったというのか。このような国民になってしまうような避けがたい歴史のなりゆきがあっただけだろう。

人はかんたんに正義に洗脳されてしまうそんざいだからこそ、他人を正義で裁くスキャンダルでみんなが盛り上がる。
しかし正義なんか、ただのオカルトだ。
正義を信奉することは、ひとつの呪術的思考にほかならない。まあその「正義」という地平で思考停止してしまっている。
むやみに正義を振りかざしたがる今どきの右翼や左翼が深く思考しているとは、僕はぜんぜん思わない。
まあ政治などというものは、その本質においてひとつの呪術でありオカルトなのだ。
宗教と同様にもはやこの世界から政治制度がなくなることはないだろうが、ひとつの理想として「政治制度に縛られていない人の集団」というイメージは成り立つのではないだろうか。そういう理想をわれわれは、あれこれのプライベートな場面で体験しようとしているのではないだろうか。
世界宗教などといっても、人間性の普遍・自然の上に成り立っているから世界中に広まったのではなく、積極的に布教活動という洗脳活動をしたからだ。それだけのことさ。人間は洗脳されてしまう生きものだということに普遍・自然があるとしても、宗教そのものに普遍・自然があるのではない。
日本人ほど洗脳されやすい民族もないと思えるのに、どうしてキリスト教徒やイスラム教徒は1パーセントにも満たない数しかいないのか。日本人は洗脳されやすいから、すべての宗教に洗脳されてしまう。日本人はキリスト教徒であると同時に仏教徒でもあり、ときにはイスラム教徒にもなるし、さらには宗教とはいえないような宗教である神道の世界観や死生観を歴史の無意識として持っている。
現在のこの世界に日本人という例外が存在するということは、宗教が人間性の普遍・自然の上に成り立ったものではないことを証明している。

イスラム教は近未来の世界史においてどんな位置を占めることになるのだろう。移民・難民問題も含めて、これは、現在の世界の大問題だろう。とくにヨーロッパは大変だ。
宗教とはようするに神に対する信仰であり、それが「自分は正しい」という思い込みの根拠になっている。自分の信仰を否定することは、神を否定することでもある。イスラム教徒ほど「自分は正しい」という思い込みの強い人たちもいない。彼らの人格がどうのというわけではなく、そういう宗教なのだ。
人が人であることの根拠においては世界中どこも違いはないのだから誰を責めるつもりもないのだけれど、宗教という観念性がそうした人間性の自然を封じ込めてしまっている事実はたしかにあるわけで、イスラム教はお騒がせでやっかいな宗教だという感想は世界中のイスラム教徒以外の人々の心にある。
戦闘的なイスラム教はだめで平和なイスラム教は素晴らしいとか、そういうことではない。平和なイスラム教のほうがなおたちが悪いともいえる。イスラム教こそもっとも宗教らしい宗教で、彼らほどしんそこ神を信じ切っている人たちもいない。それはつまり、「自分は正しい」という思い込みをけっして手放さない、ということでもある。
彼らに「それは違う」といってもぜったい通じないし、「自分は正しい」という主張を押し付けられることほどうっとうしいこともない。それは、こちらに考えることを許さないという支配欲をぶつけられていることでもある。まあ、そうやって世間の子供たちは親に反発したり屈服したりしている。
日蓮宗の人たちの「折伏」もそうとうしつこく押しつけがましいが、イスラム教徒はそれに輪をかけて徹底している。いや、キリスト教が世界中に広まったのも宣教師の布教活動によるのだし、宗教はすべて、「自分は正しい」という思い込みによる支配欲の上に成り立っている。そして彼らのその支配欲はまず、子供に向けられる。彼らは子供を徹底的に洗脳してゆくわけで、それによって宗教が人類の世界から消し難いものになっている。
宗教者ほど子供を洗脳することに熱心なものたちもいない。それは、それほど支配欲が強いということでもある。まあそれは今どきの右翼たちも同じで、森友学園の幼稚園の動画がみごとに証明している。彼らの「自分は正しい」という思い込みの強さは、いったいなんなのだろう。相手が子供であろうとなかろうと、彼らは、人を洗脳することになんの後ろめたさもない。おそらく、自分がかんたんに洗脳されてしまうたちだから後ろめたくないのだろうし、それが正義だと信じて疑わない。
どうしてそこまで自分を正当化できるのだろう、正当化したがるのだろう。
相手を洗脳しつつ自分を正当化することに成功したからといって、そのぶん相手からときめかれたり尊敬されたりしているとはかぎらない。なぜなら人は言葉に洗脳されても、ときめきは相手の存在そのものに対して抱く感情だからだ。
自分を正当化することよりも、この世界にときめいていることのほうがずっと心地よいことなのに、彼らには自己批判というものがないのだろうな。

言葉は他者を説得・洗脳したり自分を正当化したりするための道具になる。しかし人と人がときめき合うのは相手の存在そのものに対して反応することであり、どれほど相手を説得・洗脳してみせても、相手からときめかれているとはかぎらない。文明社会は、言葉のそうした機能が先行して、人と人のときめき合う関係が希薄になってしまう構造を持っている。つまり観念思考ばかりが肥大化してときめくとかかなしむとかの情緒のはたらきが鈍くなってしまったものから順番に、言葉のそうした機能を頼りに自分を正当化することに執着してゆく。世界や他者に対する「反応」を失って、勝手に他者に執着しながらすり寄っていったり憎んだりさげすんだりしてゆくというかたちで自家中毒を起こしてしまう。
人は先験的に集団の中に置かれている存在であり、心が自家中毒を起こすことは、他者に執着しているというか、人よりも強く他者の存在にとらわれてしまっていることでもある、という逆説が成り立つ。つまり「人を愛する」といっても「人を憎む」といっても、どちらもひとつの「自家中毒=自己撞着」として起きている心的現象だ、ということになる。
「愛憎」という言葉もあるが、今どきは愛憎ばかり強くて、自分を忘れて他愛なく世界や他者の輝きにときめいてゆくというピュアな人間性を喪失した人間が妙に大きな顔をしてのさばりはじめている、という傾向はあるかもしれない。まあネトウヨなんてそんな人種ばかりだろうし、神社本庁とか日本会議というような右翼組織だって別段それと変わるところはない。いやそんな極端な人たちだけの話ではなく、現代社会の構造そのものの問題かもしれない。
しかしそんな正義・正論を振り回して自己正当化に執着しても、自分が思うほど人から好かれるわけでも尊敬されるわけではないし、世の中の流れの一部にそうした傾向に対する反省が生まれてきているようにも思える。そうやって「かわいい」の文化が生成しているのではないだろうか。
まあマスコミやネット社会で、どんなに正義・正論を振り回して自己正当化に執着したたがる人種が跳梁跋扈しているとしても、現実のこの国の歴史の無意識というか伝統として機能しているのは、けっきょくのところ自分を忘れて他愛なくときめき合いながら連携してゆくという原始的な集団性だろうし、天皇をはじめとしてそういうピュアな存在こそが愛される社会なのだ。
いや僕は、べつに日本人がいちばん美しく優れていると思っているわけではない。ときには、ネアンデルタール人の末裔であるヨーロッパ人のほうが日本人よりももっとピュアな部分を持っている、と感じることはよくある。ピュアな人は世界中のどこもにいるし、ピュアでない日本人もたくさんいる。それは、人によるのだ。つまり日本人はピュアだといいたいのではなく、地勢学的な条件ゆえか、この国にはそういう原始的でピュアなものを止揚してゆく文化がもっとも洗練発達したかたちで生成している、といいたいだけだ。
人は、猿以上に心の底にこの生や自己に対する幻滅や嘆きを深く抱えている存在だから、猿以上にこの世界の輝きにときめいてゆくことができる。
他愛なく深く豊かにときめき感動してゆくピュアな心を持った人は、心の底に深い嘆きも持っている。このことはもう、万国共通だと思える。そしてこのことはなかば生来の資質の問題で、われわれ俗物が努力して得られるというようなものでもないし、自己正当化に執着しきっているさらなる俗物たちが自己正当化に成功したからといって、それ自体がなお文明制度に汚され冒されてしまっている絶望的な状態にほかならない。