閑話休題・原節子というカリスマ

この国の天皇だって、おそらくその起源においては「カリスマ女優」だったのだ。
まあいまどきは「ネトウヨ」とかのやかましく愚劣な騒ぎもあって天皇論は避けて通りたいところだが、「卑弥呼」の話もあるくらいで、女が天皇だったとしても不思議ではないし、「アマテラス」という女の神が天皇家のご先祖になってもいる。
古代以前の日本列島は、女がカリスマになっている社会だった。
魏志倭人伝には卑弥呼が呪術師であったような記述があるが、それは中国の古代以前の社会のかたちであり、漢字は呪術から生まれてきたともいわれている。しかし漢字を輸入してもそこから平仮名を生み出してゆくほかなかった日本列島の歴史は、そのようにしてはじまったのではない。
古代以前の日本列島のカリスマは、「呪術師」ではなく「女優」だった。
卑弥呼は「女優」だった。卑弥呼が実在したかどうかはわからないが、古代以前の日本列島の社会が「呪術」の上に成り立っていたとかんたんにいってもらっては困る。
日本列島の神道の神は、何もしてくれないし、未来なんか予測しない。呪術で未来を占う伝統があったのなら、日本的な「無常」という世界観や生命観は生まれてこないし、古代社会の「言(こと)挙げしない」という習俗、すなわち「むやみに未来に対する欲望を口に出すべきではない」という合意は、そうした呪術の伝統を持っていなかったことを意味する。
呪術は漢字とともに仏教として中国大陸から輸入されたものであって、もともとの日本列島の伝統としてあったのではない。
縄文から弥生時代にかけての日本社会は、「呪術」ではなく、「祭り=芸能」の上に成り立っていた。やまとことばをはじめとして日本列島の文化は、「祭り=芸能」を基礎として生まれ育ってきた。古代以前の人々は「祭り=芸能」によって社会を成り立たせていたのであり、それはもう、人類社会の普遍的な原始性の問題でもある。
日本列島の文化は、生き延びるための呪術とともに生まれ育ってきたのではなく、「もう死んでもいい」という心地になってゆくカタルシス(浄化作用)、すなわちそういう「みそぎ」の体験の上に成り立っている。そこから「あはれ」とか「はかなし」とか「わび・さび」といった美意識が生まれてきた。そして、女がカリスマだったからこそ、そういう美意識の文化になっていったのだ。なにはともあれいつの時代も、女の方が「もう死んでもいい」という勢いを豊かに持っている。
まあ原節子は、現代の「卑弥呼」であり「アマテラス」であるのかもしれない。「卑弥呼」は、「呪術師」ではなく、おそらく祭りにおける歌と踊りの名手としての「女優」だった。
古代以前の日本人は、呪術も政治も知らなかった。だから共同体(=国家)が生まれるのが、大陸よりも2千年も3千年も遅れた。そういう伝統があるから、70年前の戦後の日本人が切に必要としたのは、「未来」のための政治でも呪術でもなく、「今ここ」を華やいでゆく「祭り」としての「娯楽」だったのであり、そこから戦後の復興がスタートした。その他愛なくときめいてゆくメンタリティこそが日本列島の歴史の伝統であり、その高揚感というかカタルシス(浄化作用)のシンボルとして原節子というカリスマ女優がいた。


人類学では呪術を原始性であるかのようにいっているが、そうではない。
共同体の政治から呪術が生まれてきたのであって、呪術が政治を生み出したのではない。共同体の政治は未来を予測することを必要とするが、もともと人類は生き延びることを断念するように二本の足で立ち上がっていったのであり、原始人は「もう死んでもいい」という勢いで目の前の「今ここ」にときめいてゆくことによって地球の隅々まで拡散してゆき、人間的な文化を進化発展させてきたのだ。
原始時代に呪術(=アニミズム)があったということなどありえない。そして日本列島では、漢字や呪術としての仏教を輸入するまで共同体を持たなかった。まあ後世には仏教以前に神道という土着の宗教があったかのような文書がつくられたが、それが真実だという物的証拠などないし、状況証拠としては、仏教という呪術による共同体の支配だけでは生きられない民衆が「祭り=芸能」を基礎とした神道を生み出していったのだ。
古代では、政治のことを「まつりごと」といった。大和朝廷は女をカリスマとする「祭り=芸能」から生まれてきたわけで、それはまあ「家元制度」のようなものだったのだが、それがだんだん政治支配的な性格を持った組織になってきて、その制度を整えるために漢字や仏教=呪術が輸入されていった。
大和朝廷が呪術から生まれてきたのなら、政治のことを「まつりごと」とはいわない。
祭りはやがて共同体の支配に管理されながら呪術性を帯びてきたが、もともとは「もう死んでもいい」という勢いで浮かれ騒ぐイベントだったのであり、そういうカタルシス(浄化作用)の体験だった。人々がどこからともなく集まってきて、いわば無政府状態の未来のことなんかどうでもいい心地になってゆくのがほんらいの祭りというイベントであり、そのカタルシス(浄化作用)の体験のことをやまとことばで「みそぎ」という。その「もう死んでもいい」という勢いで人類は、どんな住みにくさもいとわずに地球の隅々まで拡散していったのだ。


「遊びをせむとや生まれけむ」などという言葉もあるが、人類の歴史ははじめに「遊び=祭り」があったのであって、「政治=呪術」があったのではない。どこからともなく人が集まってくる祭りとともに人口が増え、その混乱を収拾するかたちで政治的な共同体になってゆき、政治として呪術が生まれてきた。
縄文時代には、大きな都市集落としての共同体はなかった。三内丸山遺跡が大きな集落だったといってもたかだか500人程度あり、しかももっとも大きく膨らんだ縄文中期には消滅してしまっている。それは、そういう大きな集落を運営するための「政治=呪術」を持っていなかったことを意味する。
祭りはどこからともなく人が集まってきて大きな集団になるが、祭りが終わればまた散り散りになってゆく。原始時代の人類拡散も本質的にはおそらくそういう現象だったのであり、三内丸山遺跡の集落だって、そのようなかたちで大きくなってゆき、そして消滅していった。
縄文時代は、北に行くほど人口密度が高かった。中でも青森はそのころの旅の終点で、たくさんの人が集まってくる場所だった。
縄文時代の男たちの多くは、旅の人生だった。それはつまり、女だけの集落がいたるところにあったということであり、もしも男と女が一緒になって定住して暮らしていたのなら、とっくに大きな都市集落があちこちに生まれていたはずだ。大きな都市集落になった方が男女の婚姻関係は活性化する。しかし縄文時代の集落のほとんどは、子供も合わせて50人以下のものばかりだった。そんな規模では、集団内の婚姻関係は成り立たない。まわりの集落と婚姻関係を結んでいたというのなら、それらの集落がやがて一カ所に集まってゆくはずだが、そうはならなかった。セックスの関係は、旅をする男たちの小集団が女だけの小集落を訪ねてゆくというかたちでなされていたに違いない。そうして時が来れば男たちはまた去ってゆく。それもまた「どこからともなく人が集まってくる」という祭りの文化だった。
縄文時代は1万年も続いたが、そのあいだに彼らの集落が「共同体」に発展してゆくことはついになかった。それは、彼らが「祭り」の文化を生きて「政治=呪術」などというものは知らなかったことを意味する。日本列島ではそうやって「祭り」の文化を洗練発達させてきたからこそ、中国大陸よりも「共同体」の発生が何千年も遅れたわけで、べつに文化的に遅れていたというのではない。エジプト・メソポタミアで国家文明が発祥したころのヨーロッパは同じように政治や呪術や戦争の後進国だったが、文化的に劣っていたわけではないから、それを知ればたちまち追い越していった。日本列島と中国大陸の関係だって同じような側面があった。
最終的には、人と人が他愛なくときめき合ってゆく「祭り」の文化を持っているということこそ、ヨーロッパや日本列島の強みになっていったのだ。


この国の「戦後復興」のめざましさだって、たんなる政治経済的な成功という以前に、「祭り」の文化の伝統を持っていることのダイナミズムがあったのだ。映画をはじめとする芸能、そしてスポーツやファッション、さらには学問・芸術等の「文化活動」の盛り上がりこそが復興のエネルギーになっていったという面がある。そこにおいて、復興が立ち遅れた中国や韓国とは大きな差があった。
どれほど有効な政策が打ち出されようと、何はさておいても人の心の華やぎや行動の活性化が基礎になければ「復興」のエネルギーにはならなかったに違いない。
「戦後復興」を推進したのはそうした「祭りの文化」の伝統であり、その中心に映画やスポーツの娯楽産業の盛り上がりがあった。戦後の日本人の「消費」はまず、生き延びるための衣食住のことよりも、「今ここ」のカタルシス(浄化作用)を体験する「娯楽=祭り」に向けられた。そのとき日本人は、ひとまず貧しさを受け入れ、むやみな不満は叫ばなかった。それが「祭りの文化」の伝統であり、だから復興に向けた無理な政策も可能になったともいえる。
小津安二郎黒澤明溝口健二といった映画界の巨匠たちは、日本人がまだ貧しかった戦後数年の時期に、すでに世界的に高い評価を得る作品を撮り続けていた。そこに、原節子というカリスマ女優がいた。原節子によって戦後の映画は輝いた。
戦後復興のスタートを飾る大ヒットした映画とは何かといえば、1949年の今井正監督の『青い山脈』を挙げることができるのだろうが、主役を演じた原節子がカリスマ女優というかいわゆる「銀幕の女神」として健在であることを世に知らしめた映画でもあった。そして同じ年に、世界的な名作である小津安二郎の『晩春』が原節子主演で発表されている。