閑話休題・女優という生贄

原節子の気品というか品性の輝きは、「貴族的」というのとはちょっと違う。もっと人間としての普遍的な何かなのだ。
原節子を映画のスクリーンの上でもっとも輝かせたのはおそらく、『晩春』『麦秋』『東京物語』のいわゆる「紀子三部作」をつくった小津安二郎なのだろうが、そこに登場している「紀子」=原節子は、べつに貴族の令嬢ではなかった。下層階級ではないが、まあ、「庶民」の部類といえた。
『晩春』『麦秋』の原節子は知的エリートの家の娘だが、暮らしのレベルそのものは庶民とそう変わりはなかったし、「東京物語」では、戦争未亡人としてアパートで独り暮らしをしている丸の内のOLの役だった。そしてそれらのストーリーはいずれも「家族の解体」がテーマになっており、戦後の家族が核家族化してゆけば「家族の解体」は避けられない運命であり、そのことを受け入れてゆく人々の哀歓が描かれていた。
その「別れのかなしみ」は、原節子の存在によって美しく輝いた。演技が上手いか下手かの問題ではない。それが美しく輝くためには、原節子が持っている「存在の気配」という「品性=気品」が必要だった。
戦後の核家族化は、インテリ層からはじまっているのだろうか。小津は、つねにその時代時代の風景を画面に取り入れながら映画を撮ってきた監督だった。戦後すぐの時期につくられた『晩春』では、妻を失った大学教授と娘の二人だけの家、という設定になっている。そうして『麦秋』は戦前の大家族制度を残している家で、『東京物語』ではすでに大家族制度は解体して核家族として細分化されてしまっており、それらの家族が原節子というヒロインを中心にしてさらに静かに解体されてゆくさまを描いている。
その「時代の情況」はもう受け入れるしかない。しかしそれでも普遍的な人間性の自然やこの国の伝統的な心模様は残ってゆく。誰だって最後は「ひとり」になって死んでゆく。それはもう受け入れるしかない。「紀子三部作」は、その受け入れることのできる人間としての「品性」とこの国の伝統的な美意識を、原節子という「女優」の存在の気配に託して描いているのかもしれない。


どんな時代であろうと、人と人がときめき合う関係がなければ人間社会は成り立たない。
人間なんか、人に好かれ人にときめいてなんぼの存在なのだ。
今どきは生き延びることが善である世の中で、生き延びる能力を持った大人たちがその能力がぜい弱な「愚かな」若者や子供たちを裁き追いつめ、さまざまな社会病理を引き起こしている。
たとえば、子供が親を殺したといっても、その子供の愚かさや罪を責めるだけで済むわけでもなく、子供に殺されるような親になるなよ、という問題もある。そのことの方が、もっと大きな問題かもしれない。その子供だって、親から裁かれ追いつめられ、せっぱつまっていたのだ。
子供から愛され慕われていたら、子供に殺されるということが起きるはずもない。人間なんか、人に好かれ人にときめいてなんぼの存在なのだ。なぜ、そのもっとも基本的で自然であることができないのか。
平和で豊かな時代においては、生き延びるのが当たり前のことで、人々は、そうした「人生」の「意味」や「価値」ばかり問うている。そうやって親たちは、果てしなく子供を追いつめてゆく。生き延びる能力が豊かであろうとあるまいと、生き延びることに執着している親ほど、子供を追いつめ、子供から幻滅されている。


「女優」は、生き延びることなんかに執着していない。だから多くの人々に愛され慕われるのだし、だから原節子は、ある日突然雲隠れしてしまった。「女優」とは、人が人に好かれときめいてゆくことのメタファーというか象徴的な存在なのだ。
「品性」といっても、原節子だけのものでもない。すべての人の中にある人間性の自然であり、そのあらわれに人それぞれのグラデーションがあるというだけのことで、ともあれ原節子はそれをもっとも豊かに美しく体現している存在だった。
なんのかのといっても人は、その「品性」にときめいてゆく。「品性」を感じれば、ときめかずにいられない。そりゃあ下品なくせに他人をたらしこむことだけは上手な人間もいるが、そんなとき人は、自分の下品であることに言い訳が与えられ、それに安心している。現代社会は生き延びようとする欲望が善であり正義になっており、誰もがどこかしらにそのことに対するうしろめたさを感じつつ、しかしだからこそそのことの言い訳を必要としているわけで、そうやってその下品な欲望が善になり正義になっている。
現代人は、その生き延びようとする下品な欲望を共有しつつ、そのことに対するうしろめたさから逃れようとしている。そうやって現在の一部の人気作家は、民衆とその下品さを共有しつつ「共犯者」になってゆくことで民衆から支持されているわけで、それはもう、今どきの男と女の恋の駆け引きにも同じような側面がある。そうして今どきの親たちは、その生き延びようとする下品な欲望の上に立った「人生論」で子供裁き追いつめている。子供とそんな下品な欲望を共有してゆくことは、それほどかんたんなことじゃない。もともと子供は、そんな下品な欲望を持っている存在ではない。そんな「人生論」を語れば語るほど、子供から幻滅されてゆく。そうして、ときに「親殺し」が起きたりする。それはもう、文明社会の普遍的な問題でもあり、文明社会の子供はどこかしらに「親殺し」の衝動を疼かせている。


しかしそれでも、人と人がときめき合っていなければ人間社会は成り立たない。「女優」という存在は、そういう関係のいわば「形代(かたしろ)」であり、そういう矛盾を背負ってしまった文明社会の「生贄」なのだ。
古事記オトタチバナヒメは、嵐の海に飲み込まれそうなヤマトタケルの軍団の船の危機を、みずからが「生贄」になって海に身を投げることによって救った。少なくとも原節子という「女優」が主役を張って一本の映画を演じ切るということは、そういう体験だったのだろう。そうやって彼女は、小津安二郎の死とともに燃え尽きてしまった。
小津の臨終の床の前で原節子は、人目もはばからず号泣したという。
ときめく心とときめかれる品性、そういう「華やぎ=官能性」が機能していなければ人間社会は成り立たない。
生き延びるための意味や価値の人生論で人を裁いてばかりいたら、この世の中はぎすぎすしてしまう。そんな人生論が自慢のただの嫌われ者が何をカッコつけたことをほざいてやがる……じつは今どきの大人たちの多くが、若者からそのように見られている。そういう冷ややかでかなしい「幻滅」がこの社会に広がっている。彼らはもう怒らない。だから選挙に行かないし、原発反対の運動もいまいち盛り上がらない。そんな未来の「よい社会」を欲望することよりも、「今ここ」で人と人が他愛なくときめき合う体験を生きようとしている。その「もう死んでもいい」という「華やぎ」こそが人間社会を成り立たせているのであり、それがこの国の伝統的な美意識や世界観になってきた。大人たちによる生き延びるための「人生論」で若者や子供を説得できる時代なんか、この国にはかつて一度もなかったし、これからもきっとない。
「生きられない存在」であることにこそ人間性の自然と華やぎがある。「生きられない存在」として、人と人はときめき合っている。女優でなければそのようには生きられないし、女優でなくてもそのように生きるほかないのが人間存在なのだ。女優は、人々がそのようにときめき合って生きるためのこの社会の生贄として機能している。まあ女優でなくても、学問や芸術やスポーツであれ、この世の才能を持った人たちはそのようにしてときめきながらさらなる真実や美や技能を探求しているわけで、われわれ凡人の中にだって、人にときめく心があるかぎり、そうした生きられなさを生きようとする衝動が息づいている。それが、人間性の自然なのだもの。