都市の起源(その十九)・ネアンデルタール人論170

その十九・生き延びることは正義か?

現代人は生き延びるための「衣食住=生活=日常」に耽溺して生きようとしがちだが、人類が衣食住のことを進化発展させてきたのはそこに「非日常性」を盛り込もうとしてきたからであって、「生活=日常」に耽溺するためだったのではない。人類は、「日常」を「非日常」にしようとしてきたのだ。この生の中で、この生の外に超出してゆこうとしてきたのだ。それをしないことには、この生を生きることができなかったのだ。そうやって石器文化が進化し、火に対する親密な感慨を抱くようになり、言葉が生まれ育ってきたのだ。祭りの文化の起源と発展の問題もしかり、それらは、「この生=自分」に執着・耽溺するためではなく、「この生=自分」の外に超出してゆく体験だった。
この生の外に超出してゆくこと、すなわち「この生=自分」を忘れて「世界の輝き」にときめいてゆくこと、そのカタルシス(浄化作用)が人を生かしている。
大人たちがどれほど「この生=自分」の充実の意味や意義を叫ぼうとも、若者たちの心は「この生=自分」の外に向かって旅立ってゆく、原始人のように。
「この生=自分」に執着する今どきの大人たちの顔つきのなんと無惨なことか。彼らは、「この生=自分」に執着・耽溺しながら、はやばやと認知症やインポテンツになってゆく。
今どきは人と人の関係が不調の世の中らしく、大人たちはときめく心もセックスアピールも失いつつある。そしてそんな大人たちから追い詰められながら若者たちは、「この生=日常」のさ中にあっても、「自分はここにいてはいけないのではないか」というなんとなくの思いとともに、旅をして見知らぬ土地をさまよっているような行き場のない心地になっている。彼らにとっては、ネット社会とか二次元のアニメやマンガのほうがまだ人の気配がするのだろうか。
まあ、「人の気配」のしない大人たちが多すぎるのだろう。「この生=自分」に執着・耽溺しているというそのことが「人の気配」ではないのだ。
生き延びることが価値であるのなら、生き延びるためには何をしてもいい、ということだろう。どんなにグローバル資本主義の倫理観の欠如を批判しても、生き延びることの価値を標榜しているかぎり、自分だって同じ穴のムジナにすぎない。そうやって誰もが自分の正義を信じて疑わない。生き延びるための正義を争って世界が動いている。自分が正義だと思っているのと同じだけ相手だって正義だと思っているのだから、どんなに相手を批判しても、世の中は自分の思う通りにはならない。その正義は、いったい誰が証明してくれるのか。そして歴史は正義の通りに動かねばならないという決まりも、動いてきたという事実もない。歴史は、誰もが主人公であると同時に、誰も主人公ではない。なるようになってゆくだけだ。人が歴史を動かすのではない。歴史が人を動かしているのだ。


今どきは、右翼も左翼も、有名な知識人も名もない庶民も。歴史を自分の思うように動かしたいという肥大化した自我の欲望をぶつけ合っている。それが、戦後民主主義のなれの果ての姿だろうか。戦後民主主義はでたらめだったと批判しても、自分だってその民主主義の罠にからめとられている。
誰も歴史をつくることなんかできない。どうなっているのだろうと問うことができるだけだろう。歴史は、誰の思う通りにもならない。
この世の中はさまざまな人がいて、みんなで歴史をつくっている。そういう「歴史のなりゆき」には誰もあがらえないし、それはもう尊重するしかない。
まあ、どんなに高名なインテリだろうと、「人間とは何か」とか「歴史とは何か」という問いが中途半端なまま政治や経済の問題を語りだす姿は、なんだかあさましい。ただそこで思考停止してしまっているだけなのに、すでに解き明かしているつもりでいる。彼らは、政治や経済のことが気になると同時に、政治や経済のことを語れば有名インテリの立場を守ることができるという目論見もあるらしい。そういう世の中なのだろうか。マルクスの「下部構造決定論」の影響もあるのだろう。戦後民主主義は、誰もが政治や経済のことが気になるように誘導していった。どんなに「知性の人」を気取っても、あなただってそうやって時代に踊らされて生きてきただけなんだよ。
右翼であれ左翼であれ、彼らはどうして「自分は正しい」という立場に執着・耽溺できるのか。
そんなのはただの自意識過剰ではないのか。
悪いのはすべて世の中や他人だと批判すれば、「自分は正しい」という気分を満足させられる。
自意識ほどやっかいなものはなく、それでいい気になることもできるが、それで苦しめられることもすくなくない。
どんなに世の中や他人は間違っていると思っても、世の中や他人は自分の思う通りにはならない。「社会を変革する」とか、社会に踊らされて生きてきたものほど、そういう妄想を抱く。民主主義の世の中は、「社会を変革する」といいたがる人間をたくさん生み出す構造になっている。
みんなでつくっている世の中ではないか。あなただけが正しいとはいえない。誰もがあなたと同じように「自分は正しい」と思っているとしたら、正しさなんかどこにあるのかわからない。
まあ、みなさんの世の中だからみなさんで決めてくれればいいのだけれど、僕自身は、「歴史のなりゆき」にこの身をゆだねるしかない、と思っている。人類は、滅びてもいいし、滅びなくてもいい。自分なんか生きていてもしょうがない存在だと思うばかりで、この生の意味も価値もよくわからない。つまり、人類が生き延びねばならない理由なんて、よくわからない。


都市はたくさん人がいるところで、自分ひとりの価値なんか、どんどん薄れてゆく。しかしだからこそ、そこで自分を忘れて世界や他者にときめいてゆく心の動きが豊かに起きてくる。そうやって「祭りの賑わい」が生まれてくる。
「自分なんか生きていてもしょうがない存在だ」と思うことは、都市で暮らす人間のごく自然な心模様ではないだろうか。そしてそれは、けっして自殺願望ではない。そこから世界や他者の輝きに気づいてゆくのだ。
自分が生きて存在することの意味や価値が人を生かしているのではない。世界や他者の輝きが人を生かしている。
良くも悪くも都市は、人の命の価値を薄く軽くしてしまう。そうやって秋葉原通り魔事件が起きたのだろうし、そうやってさまざまな「祭りの賑わい」の娯楽文化が生まれてくる。都市は、不可避的に人を生と死のはざまに立たせてしまう。生と死のはざまの「非日常」の世界、その世界の「祭りの賑わい」に引き寄せられて都市に人が集まってくる。
「命の大切さ」などという正義を振りかざしてばかりいたら、世の中は停滞・衰弱してゆく。それはひとつの自閉症であり、因果なことに人類の文化は、「命の大切さ」を超えて進化発展してきた。世界の輝きに対するときめきは、「もう死んでもいい」という勢いの上に成り立っている。
まったく因果なことに、人は、自分の命を粗末にしてしまう生態を持っている。自分の命も他者の命も全部壊してしまおうとして秋葉原通り魔事件が起きたのだろうし、自分の命のことなんか忘れて他者にときめき他者を生かそうとしてゆくのも人の生態だ。
自分の命に執着して、自分の命も他者の命も壊してしまう。命をつくり上げようとする衝動は、壊してしまおうとする衝動に反転したりもする。壊してしまうことで命は完結する。つくり上げることが不可能になったとき、壊してしまうことで完結させようとする。
一方、自分の命を忘れて他者を生かそうとするとき、命は「大切なもの」でもなんでもない。命は死ぬことによって完結するのであれば、他者を生かそうとすることは、他者の命が完結するのを妨害していることだともいえる。
「執着する」ことと「忘れてしまう」こと、「執着する」のも人間だし、「忘れてしまう」のも人間だろう。われわれは、「執着する」ことと「忘れてしまう」ことのはざまに立って生きている。
「忘れてしまう」愚かさも、人間であることのひとつのかたちなのだ。正しい人間であることに執着するよりも、愚かな人間になってしまったほうがよい場合もある。
命をつくり上げて完結させようとする衝動は、命を壊してしまって完結させようとする衝動に反転する。
命とか人生などというものは、「なりゆき」にまかせておくしかない。もちろんそれはこの世の中の正義に照らせば愚かで間違った態度なのだが、だからといってまあ、正しい人間たちをうらやむ必要もない。
自分の正しさに執着してしまったらおしまいだ、といえなくもないような気もする。自分の正しさに執着して、知性や感性が停滞し衰弱してゆく。だったら、愚かであることの「混沌」を生きた方がまだましだ、という場合もある。
愚かさとは文字通り「何も知らない」ということであり、だから「なんだろう?」と問うてゆく。人は、「知っている」というかたちで「命=自分」が完結している存在ではなく、「命=自分」からはぐれながら「なんだろう?」と問い続けている存在なのだ。死っていることなんかほんの少しで、その何百倍何千倍も知らないことを抱えて生きている。
「あなた」の心なんか何も知らないし、一緒にいれば、その知らない心が「あなた」の中でたえず生起し続けていることと向き合っていなければならない。その「知らない」ということに憑依して「なんだろう?」と問うてゆく心の動きを、「ときめき」という。