世の中を変える・ネアンデルタール人論225

小林秀雄はこういった。
「思想は実生活から生まれてきて、実生活と決別することによって思想になる」と。
そうだろうな、と思う。
人はこの生からはぐれている存在であり、それによって人間的な知性や感性が育ってくる。
知性や感性とは、この生からはぐれて「非日常」の世界に超出してゆくこと。
日常の生活をまさぐってばかりいたら、知性や感性は停滞してしまう。
人類は、「生きられなさを生きる」存在になったことによって、世界の隅々まで拡散し、爆発的な知能の進化発展の歴史を歩んできた。
それは何も、衣食住だけのことではない。科学者が解くことができそうもない問題に挑んでゆくことだって、「生きられなさ」に飛び込んでゆくことにほかならない。
ロックミュージックに夢中になっている若者たちを描いた『ソラニン』という映画の中で、なぜギターをはじめたのかと聞かれたときに「ギターを手にしていると、こんな俺でも世の中を変えられるんじゃないかと思えてきたから」と答えていた。たかがロックミュージックで世の中が変わるはずもないが、そんな気分になってやるのがロックというものだ、とこの映画の作者はいいたかったのだろう。そんな気分になれなければ、ものになれないし、やる甲斐もない。
この場合の「世の中を変える」とは、衣食住の「生活」が大事で回っている世の中に対して、「非日常」の世界に飛び込んでゆくときめきや感動のほうがもっと大事なのだと気づかせる、ということだろうか。大人たちは若者を社会の鋳型にはめて縛り付けようとしてくるが、われわれはもうそんな「ゆるーい幸せ」なんかいらない、どんなにつらい未来が待っていようともっと自由に生きるんだ、と宣言してみせること。まあ、人類はそうやって地球の隅々まで拡散していったわけで、それがどんなに幼稚な思想であろうと、人類史の普遍の思想でもある。
「生きられなさを生きる」とは「不可能性」の中に飛び込んでゆくこと。
人は水の中では生きられない存在なのに、海水浴をして楽しんでいる。
そもそも、二本の足で立っていること自体が、「生きられなさを生きる」姿勢なのだ。
「(実生活と決別して)生きられなさを生きる」ことはもう、人間の本能のようなものだ。科学者の研究だろうと、若者がロックミュージックに夢中になることだろうと、そこにおいて違いはない。科学者だって、「世の中を変えてやるんだ」という意気込みで研究をしている。素粒子や宇宙の何がわかったからといって世の中が変わるわけでもないのだが、それでもそういう意気込みがなければやってられるもんじゃない。

だから、幸せな未来のために原発や安保法制は反対しようと扇動されても、うるさいなあ、と思ってしまう。右翼のいう「国の安全のために」ということだって同じ、どちらだろうと、「幸せ」とか「未来」とか「平和」とか「豊かさ」とか「正義」とか、そんな、われわれをこの生やこの生活やこの社会に閉じ込めようとするスローガンにすぎない。われわれの心はもう、この生からもこの生活からもこの社会からもはぐれてしまっている。ひねくれているのでもなんでもない。じつはそこにこそ人間性の自然があるわけで、そうやって人類は地球の隅々まで拡散していったのだし、そうやって科学者は研究に没頭し、若者はロックミュージックに夢中になっている。彼らこそ人間としてより率直なのだ。
ここでいう「世の中を変える」とは、右翼や左翼のあの連中が目指しているような「世の中を正しい方向に導く」ということではない。彼らは「世の中」なんぞに執着していない。世の中からはぐれて、世の中そのものに異を唱える、ということがしたい。その「正しい方向」ということが胡散臭いのであり、そんなスローガンで世の中に閉じ込められたくないのだ。
つまり「世の中を変える」とは、「世の中に風穴を開ける」ということだ。
このブログだって、ひとまずそういう意気込みでやっている。「アフリカのホモ・サピエンスが爆発的に人口を増やしながら世界中に拡散していった」という愚劣極まりない説を妄信している世の中に風穴を開けたい。
15〜3万年前のアフリカのホモ・サピエンスは、拡散したがらない(拡散できない)人々だった。そのころにアフリカ中央部を出発してアフリカを出ていったホモ・サピエンスなどひとりもいない。ただ、中東にいたネアンデルタール人的な形質の人がアフリカの出口あたりまで行ってホモ・サピエンスの遺伝子を拾ってしまい、それが集落から集落へと手渡されながら世界中に伝播していっただけのこと。それは遺伝力の強い革新的な遺伝子だったのかもしれないが、アフリカの外の地で歴史を歩んできたわれわれが彼らの直接的な子孫だというわけではない。ヨーロッパ人もアジア人も、アフリカの文化を引き継いでいない。世界中それぞれに、言葉をはじめとする独自の歴史的文化風土がある。
ヨーロッパ人はネアンデルタール人の末裔であり、われわれアジア人にもネアンデルタール人の遺伝子が混じっている。

それはともかくとして、若者が「世の中を変えたい」というとき、「未来の幸せな社会をつくりたい」といっているのではない。厚い壁に覆われたようなこの世の中に風穴を開けたい、といっているのだ。彼らが壁の向こうに見ているのは、「未来」ではない。この生の外の「非日常」の世界であり、それは「いまここ」の「ときめき」なのだ。
誰だって心躍る体験がしたいだろう。上手に世の中の枠組みにはめ込まれた大人みたいに「ゆるーい幸せ」にまどろんでいることなんかできないし、したくない。もともと人間はそういう生きものであり、その「もう死んでもいい」という勢いで「非日常」の世界に超出してゆく「遊び」にこそ人間性の自然がある。そうやって若者は「世の中に風穴を開けたい」と願う。あの政治好きな連中のように、世の中の枠組みを変えたがっているのではない。そんな「労働」の価値なんか信じていない。
どんな世の中だろうと、世の中なんかうんざりなのだ。大人たちの描く「よりよい未来の社会」なんか、若者たちにとってはただの有難迷惑かもしれない。
まったく、もうすぐ死んでゆくおまえらが勝手に未来の社会の構想なんかするなよ、という話だ。あなたたちは、そうやって若者を社会という枠の中に閉じ込めてしまおうとしているんだぞ。そうやって若者が体験している「非日常」の世界に超出してゆくときめきや感動を奪いにかかることがそんなに素晴らしいのか。
大人のたしなみとは、そういうくそ厚かましいことなのか。あなたたちが執着耽溺し自慢しているその「幸せ」を若者も欲しがっていると勝手に決めつけてくれるな。
右翼だろうと左翼だろうと、社会という枠組みの中に潜り込んでいないと生きられない連中なのだ。彼らは、若者のようなこの生やこの社会からはぐれてしまっている心を失うと同時に、「ときめく」心も失っている。
人の心は、この生からはぐれて「非日常」の世界に超出してゆくというかたちで豊かなときめきや感動を体験している。もう死んでもいい、未来なんかなくてもいい、と思うことは、そのぶん「今ここ」にときめいているということであり、「今ここ」に体ごと反応しているということだ。つまり、そうやって命のはたらきも心のはたらきもより活性化している、ということだ。
ネアンデルタール人の場合は、生きてゆく未来を思い描くことができない環境を生きていた。どんなに屈強な男でもそれを思い描くことができない状況に立たされていたし、誰もが生まれたときからずっとそういうかたちで生きてきたのだ。彼らは、生き延びようとがんばったのではない。世界の輝きにときめくというそのことが彼らを生かしていた。ときめいていれば、寒さを忘れられる。ときめいていなければ、意識が「自分=この身体」にばかり向いて、寒さに耐えられなくなってしまう。それはつまり、「生活と決別する」ということだ。
人は、死にそうなものをけんめいに生かそうとする本能のようなものを持っている。彼らは、誰もが死にそうなものだったのであり、誰もが死にそうなものである他者を生かそうとしていた。彼らを生き残らせたのは、生き延びようとする欲望であったのではなく、自分を忘れて他者にときめき、他者を生きさせようとしていったことにある。
誰もが「生きられないもの」である社会こそ、心も命ももっとも豊かにはたらくのだ。人は、そうやってこの生この生活と決別しながら世界や他者にときめいてゆく。
人の思想は、根源において「この生=生活」と決別している。思想くらい誰でも持っているし、あなたたちが語る「この生活=この人生=この社会」に執着耽溺した思想が普遍的な説得力を持つとはかぎらない。ほんとうは、誰もがそんなものなど忘れたがっている。少なくとも若者たちの心はそれらのものからはぐれてしまっているのであり、そこに立ってこの世界や他者にときめいている。他愛なくときめいている。ときめきは、他愛ない場合ほど豊かなのだ。
われわれは、どこまで他愛ない存在になれるかと試されている。そこにこそ、人間的な文化の本質があり、人間的な官能=快楽の本質がある。べつに、ご立派な人格者ばかりが偉いのではない。人は、避けがたく「生きられない」存在になってしまう。そこでこそ心も命も豊かにはたらく。
この生活もこの人生もこの社会も、どうでもいい。何もかも忘れて夢中になってゆく体験ができるのなら。