この生の外の世界・ネアンデルタール人論224

いっとくけど、ネアンデルタール人が氷河期の北ヨーロッパに住み着いていたということは、誰もが「生きられないこの世のもっとも弱いもの」として生きていたということなのですよ。世の多くの人類学者たちが合唱しているような、その頑健な身体能力だけで生きていた、ということではないのですよ。それは、「寒さに耐える」ということとはまた別の問題なのだ。頑健だから寒さに耐えられるというわけでもないし、女子供が大人の男ほど頑健だったわけでもない。
彼らは、誰もが寒さに震えて生きていた。「もう生きられない」というぎりぎりのところで生きていた。しかしだからこそ、生きてあることのよろこびもかなしみも、たぶん同時代のアフリカのホモ・サピエンスよりもずっと深く豊かに体験していた。その極寒の環境に身をさらしながら、「生きられなさ」を生きていたのだ。
彼らは、男であろうと女であろうと、大人であろうと子供であろうと、その厳しい寒さの前では、誰もが明日も生きてあるという保証なんかなかった。そういう人たちに、それなりの生きてあることの感慨が湧いてこないはずがないじゃないですか。
人類は、「生きられなさ」を生きる歴史を歩むことによって、猿のレベルを超えて深く豊かな感慨を持つようになり、知能を進化発展させてきた。
今どきの平和で豊かな社会の幸せとやらにまどろんでいるあなたたちのほうがネアンデルタール人よりも人として生きてあることの深くて豊かな感慨を汲み上げていると思うのだとしたら、そんなものはただのうぬぼれであり幻想にすぎないのですよ。
人類の知能や文化は、「生きられなさを生きる」ことによって進化発展してきた。そういう「生きられなさ」というハードルを飛び越えるようにして進化発展してきたのであり、ネアンデルタール人の知能がアフリカのホモ・サピエンスよりも劣っていたということなどありえないのだ。

今どきは幸せ自慢をしたり幸せを手に入れるためのノウハウを語る人が尊敬されたりもてはやされたりしている時代なのだろうが、それを手に入れる能力が知性や感性が高度であることの証しにはならないし、手に入れたからといって高度になるわけでもない。
むしろ、そうやって幸せに潜り込んでゆくというか執着・耽溺してゆくことによって知性や感性が停滞してしまうのだし、人を攻撃したり蹴落としたりするサディズムも起きてくるし、卑近なことをいえば、世の中は幸せに執着・耽溺したサディストから順番にインポテンツになってゆく。サディストはみな、「自我の安定」という幸せに執着・耽溺している。サディズムとは、「自我の安定」を守ろうとする衝動のことだ。
人格者ぶってやさしい語り口をしていても、その心の底には、その笑顔の裏には、「自我の安定」を守ろうとするサディズムが渦巻いている。
「自我の安定」がそんなに大事なら、自分の外の他者やこの世界は「自我の安定」のために干渉してゆくだけの対象で、ときめいてなんかいない。「自我の安定」に執着しているものほど、他者や世界に干渉したがる。そうやって、他者や世界に「反応」してゆく知性や感性は停滞している。
幸せは、自我の安定をもたらす。それによって、他者や世界にときめいてゆく知性や感性は停滞してゆく。
思う通りにならない他者や世界に苛立ってあれこれ干渉していってもしょうがないし、干渉してゆく成功体験を自慢しても、その時点で知性や感性はすでに停滞してしまっている。
「生きられなさ」に身を置いていなければ知性や感性は育たない。それは、そこで生きようとがんばるのではない。「もう死んでもいい」という勢いでこの生の外の「非日常」の世界に超出してゆくことが、「ときめく」という体験であり、「答えを発見する」という体験になる。
生き延びようとがんばったらいけないというか、がんばって得た知性や感性には限界がある。「ときめく」とか「なに・なぜ?」と問うことは、「生きられなさ」に身を置くことだ。「わからなさ」に身もだえすることだ。
中途半端な知性や感性にかぎって、何もかもわかっているかのような言い方をしたがる。

もっとも本格的な科学者は、もっとも高度で手に負えない「問い」を前にしながら「生きられなさ」を生きている。たくさんのことを知っているから本格的なのではないし、ある答えを見つけて「これで問題が解決した」と満足しているのでもない。つねに「まだダメだ」「まだわからない」と身もだえしている。それではまだ答えになっていないと検証できるのも、本格的な知性の条件だろう。まあ、宇宙の神秘なんか、永遠に解決がつかない。
二流三流の知性ほど、中途半端な答えで満足してしまう。もうそれ以上検証できる能力がないからだ。
知性とは「まだダメだ」と検証できる能力のこと。そこで一流と二流の差が出る。人類の知性や感性は、そうやってつねに「生きられなさ」の中に飛び込みながら進化発展してきた。
才能のある人は、中途半端な達成では満足しない。才能とは、「まだダメだ」と検証してゆくことができる能力のこと。そうやって「生きられなさを生きる」ことができる能力のこと。
「生きられなさ」の中に身を置いて、この生の外にジャンプしてゆく。それが、この生の中に閉じ込められてあることの解放感になる。
恋をすることだって、「生きられなさ」の中に飛び込んでゆくような体験だろう。愛されているという確証なんかいつまでたっても持てないし、そもそも恋心などというものはいつ冷めるかもわかからないしろものなのだ。
おそらく、一緒に死ぬこと以上の恋の成就はない。「もう生きられない」という感慨を共有しながら、二人してこの生の外に立つこと。二人だけの世界。まわりには誰もいない。
心中なんてしたことがないし、したいとも思わないからよくはわからないが、彼らはそんな場所を目指しているのだろう 。
「生きられなさ」を生きる人間存在にとっての答、すなわち解き放たれる場所は、この生の外にある。
人は根源において、「生活の充実」が欲しいのではない。生活と決別した場所に飛び込んでいってしまう。科学者の探求だろうと心中だろうとようするにそういうことで、原始人がより住みにくい土地へと拡散していったことだって、この生すなわち生活と決別する行為だった。そのように「もう死んでもいい」という勢いで、「生きられない」土地に住み着いていった。

今どきの、離婚してシングルマザーになる道を選ぶ女たちだって、より住みにくい土地に住み着いてゆく人類拡散と同じようなものだろう。以前、二人の幼い子を部屋に閉じ込めて餓死させた若いシングルマザーの事件があったが、シングルマザーになることは、生活に追われることであると同時に生活と決別することでもあり、そういう人間性の普遍としての快楽=官能に目覚めてゆくことでもあるのだ。彼女の心は、すでにこの生の外にあった。
彼女だけではない。人は、誰だって、そういうこの生からはぐれてゆく官能性の問題を抱えて生きている。
「寝食を忘れて熱中する」などという。寝食(=生活)に耽溺する幸せを自慢しても、心のどこかしらでそうした「もう死んでもいい」という勢いの体験に嫉妬している。衣食住がそんなに大事なら、どうして映画を見たり音楽を聴いたりするのか。旅に出ることは、日常の衣食住の外に出ることだ。
この生の外、すなわち「非日常」の世界に超出してゆく体験がないと人は生きられない。
誰にとっても、生きてあることはいたたまれないことなのだ。生きてあることだけに耽溺していることなんかできない。
衣食住=生活が大事というなら、それ以外のことにお金を使うべきでないのに、どうして結婚式や葬式にご祝儀や香典のお金を包む習慣が定着しているのか。
われわれの生きるいとなみが、どれほどこの生この生活を犠牲にして成り立っていることか。お気楽な生命賛歌だけではすまないのだ。
答はこの生の外にある。そうやって人類は二本の足で立ち上がり、地球の隅々まで拡散していった。
生きてあることなんかいたたまれないことで、生きてあることを忘れてときめき感動してゆくことによって人類の知性や感性が進化発展してきた。
僕の知る限り、本格的な科学者というのは、生きてあることからはぐれてしまっているところがある。
われわれ凡人だって、誰もがどこかしらに生きてあることからはぐれてしまっている心を抱えている。まあ、その心を携えて人と人が出会うのであり、男と女が抱きしめ合っているのではないだろうか。