サディズムという能動性、あるいは欲望・ネアンデルタール人論218

不遜なことをいわせていただけるなら、「ゆるーい幸せ」に執着して正義ぶった大人ほどたちの悪い生きものもいない。正義ぶった人格者なんか、みんなサディストだ。人はかく生きねばならないとか、人の世はかくあらねばないと主張することが、そもそもサディズムなのだ。それは、そうではないことを許さない、といっているのと同じであり、かれらは、この世界を何もかも予定調和のことにしてしまおうとする。そしてそんな自分の正当性を確認するためには、そのサディズムを発散するしかない。彼は、許さない対象を追跡し、監視しながら、そのサディズムを発散する機会をうかがっている。あるいは、ふだんは穏やかな人格者でも、許さない対象と出合うと、とたんに執念深いサディストに変身する。
サディズムとは何か、という問題はとても気になる。
攻撃衝動、支配衝動、排他衝動等々、文明社会には、戦争や殺人だけでなく、日常のささいな人と人の関係にも、いろんなサディズムが渦巻いている。
教育とか他者を説得しようとするとかということだって、相手の心の世界に侵略してゆくひとつのサディズムだといえなくもない。
いやもう、「言葉の意味を伝達する」ということじたいが、すでにサディズムの範疇であるのかも知れない。
人は根源・自然において、言葉の意味を伝達しようとする衝動を持っていない。聞く方が言葉の意味に気づいてゆくことことによって、言葉の意味が成り立っている。言葉の起源においては、言葉の意味を自覚して言葉を発したのではない。思わずある音声を発してしまっただけであり、聞く方がその意味に気づいていった。発したものだって、みずからもその音声を聞いて、はじめてその音声の意味に気づいていった。人と人の会話は、根源的には、たがいに言葉の意味を気づき合っているだけであり、そうやってたがいに「反応」してゆくことによって会話が成り立っている。
つまり、「能動的」というのはすべて、ひとつのサディズムかも知れない。人は人に対してというか、生きものは世界に対して「反応」する存在であって、能動的にかかわろうとしているのではない。

命のはたらきは、世界(=環境)に対する「反応」として起こっている。われわれの命は、世界が存在するという前提を持ってつくられているのではない。酸素があるとか水があるとか、たまたまこの世界(=環境)にフィットして生きられるようになっているが、この先酸素も水もないように世界(=環境)が変わってしまえば、誰も生きられない。未来の世界(=環境)がどのように変わるかということは誰もわからない。変わらないという保証なんかない。生きものは、一瞬一瞬「未知の未来」に投げ入れられるようにして生きている。「未知の未来と出会って反応する」というかたちで、命のはたらきが起きている。
いいかえれば、未来があらかじめ分かっているのなら、「反応する」というはたらきがちゃんと起きてこない。そんな予定調和のスケジュール通りの生き方ばかりしているから、「反応する」という命のはたらきが停滞して認知症にもインポにもなってしまうのだ。命のはたらきは、未来どころか、世界が存在するということ自体すら前提として持っていない。持っていないからこそ、「反応する」というはたらきが起きる。
命のはたらきは、能動的にはたらきかけてゆくのではなく、「反応する」というかたちで起きている。
能動性は、命のはたらきとしては不自然なのだ。
先験的な命のはたらきなどというものはない。世界(=環境)の存在によってそれが引き起こされる。
生きものの体の進化は、世界(=環境)がつくってきたのであり、世界(=環境)にフィットしない命のはたらきの生きものは、そのつど滅んでいった。
世界(=環境)にフィットしなければ滅んでゆくしかないのだ。進化は、生きもののがわがフィットするようにつくってきたのではない。われわれの命のはたらきは、あらかじめ限定されている。そうして、フィットしない生きものは、すべて環境によって淘汰されてきた。
生きものが生き残るかどうかなんて、環境が決定していることで、生きもの自身の生き延びようとする衝動によるのではない。
殺虫剤に強い害虫があらわれてくることだって、その害虫が生き延びようとしたからではなく、その殺虫剤に豊かに「反応」したからであり、「反応」できない個体が滅んでゆく。その現実を肯定し受け入れ「反応」してゆくことが「進化」をもたらす。その害虫が、殺虫剤を否定し抹消してしまうことも、殺虫剤の成分を弱めることもできない。「反応」できない個体から順番に滅んでゆく。
命のはたらきとはつまり、「もう死んでもいい」という勢いで世界=環境を肯定し「反応」してゆくことであって、世界=環境を警戒し否定して生き延びようとすることではない。

生き延びようとすることは、ひとつのサディズムなのだ。そうやって世界=他者を警戒し否定し、抹消しにかかってゆくこと、そういう自意識=自我をサディズムという。
警戒しないで無防備なまま生き生きと「反応」していった害虫が生き残ったのだ。それは、世界=環境によって体質を変えられてしまうという、いわば受動的な体験であって、みずから変えていったのではない。
心だろうと体だろうと、自分で自分を変えることなんかできない。命のはたらきは、徹底的に既存のかたちをコピーしてゆくことにある。すべての細胞は、どんどん生まれ変わってコピーされてゆく。成長するのも衰えてゆくのも、環境による作用がはたらいているからだ。「反応」しながら成長し、「反応」できなくなって衰えてゆく。
「反応」できないところに「進化」はない。
目の前の女に反応しときめいているのなら、強姦なんかできない。性欲が強いから強姦するのではない。それはサディズムの問題であり、心の底に女に対する警戒心とルサンチマンのようなものを抱えているわけで、女の体を蹂躙しながらまずそれを発散してしまうことによって、はじめて「ときめき=反応」が起きる。というか、最初から女を蹂躙する視線を持っている。蹂躙しながら勃起している。女というより、世界=環境そのものに警戒心とルサンチマンがある。警戒心とルサンチマンを生きている。何かを蹂躙したくてうずうずしている。生きられない弱いものを見ると、蹂躙したくてたまらなくなる。
そういう「憎悪」の感情が渦巻いている。「好き」だとか「愛している」といっても、「憎悪」の感情がこもっている。「憎悪」の感情で生きている。蹂躙してしまいたいほど好きだ、ということ。
まあサディズムもひとつも愛情であり、相手かまわず能動的になる。それはひとつの自尊感情であり、そうやって自尊感情を満足させるために相手に干渉してゆく。そしてその自尊感情による「欲望」は、心の底の世界や他者に対する「警戒心」や「憎悪」の上に成り立っている。
「欲望」とは何だろう、という問題がある。「欲望」という「能動性」、それが人間の本性だといわれても、欲望の薄い人はいくらでもいるし、薄い人は人間的ではないのかという反論もできる。文明社会は欲望を培養するような仕組みの構造になっているということはいえても、それが人間性の本質だとはいえない。
「能動的」という言葉は、どこかいかがわしい。それは、サディズムという文明社会の病理の問題を含んでいる。
「反応」が貧弱だから、それを補完するように「欲望」や「サディズム」という能動性が起きてくる。現代人の多くは、「自我=自尊感情」が強すぎて「反応」が貧弱になってしまっている。大人になると、だんだんそうなってゆく。

「反応」とは、「何だろう?」と問うこと。
「反応」の薄さが、「欲望」や「サディズム」になる。
たとえば、「あの山の向こうには邪悪な人間が住んでいる」と思えば、そこに向かって旅をしてゆこうとは思わないだろう。文明人はそういう思い込みで戦争をするようになっていったのだが、原始人はそんなことなど思わなかった。だから人類拡散が起きたわけで、ただもう「何だろう?」と思いながらそこに引き寄せられていった。そういう「遠い憧れ」がはたらいて人類拡散が起きたのだ。
「反応」とは、「わかる」ことではない。「邪悪な人間が住んでいる」と勝手に決めつけてわかった気になってゆくのが、文明社会の病理なのだ。文明社会にはそういうデマゴーグがたくさん渦巻いているし、文明人はかんたんにわかった気になってしまう病理を抱えている。そうやって干渉してゆく。そうやってなんとかハラスメントとかいじめが起きている。
女に対する「反応」を失ったインポおやじほど女に対して能動的な「欲望」の強い人種もいない。強姦だって、ようするに女に干渉してゆこうとする行為だろう。インポおやじだって、そんな強姦もどきのSMプレイに浸っている。
人が人を想うことだって、相手のことを「何だろう?」と思うところからはじまるのであって、相手のことが分かった気になってあれこれ干渉してゆこうとする「欲望」を募らせることでもあるまい。
そこに「あなた」がいるということに対する「反応」は、「何だろう?」と問う「ときめき」として起こるのであって、干渉してゆこうとする「欲望」を募らせることではない。
この世のもっとも深く豊かに人を想うものは、「何だろう?」という問いを抱えて途方に暮れている。それが「ときめく」ということだ。