人類なんか生き延びなくてもよい・ネアンデルタール人論257

承前

人の体は、遺伝子が自己複製しながら永遠に生き続けるための、たんなる入れ物=生存機械にすぎない、とドーキンスはいう。人の体がバスだとしたら、運転手も乗客もみな遺伝子で、この乗客たちは時と場合によって運転手を交代する。遺伝子が体のはたらきを操作している。人の体が死滅するのは、それが遺伝子の存続に都合がいいかららしい。
しかしこの問題は、ちょっとややこしい。
だったら、人の体が死滅することによって遺伝子が存続させられている、ともいえる。人の体のはたらきが遺伝子によって操作されているといっても、遺伝子に「意志」なんかないわけで、遺伝子はただ存在しているだけの物質にすぎない。
われわれの遺伝子のはたらきは、この地球環境でしか通用しない。地球環境がこの遺伝子をつくった。地球環境が、遺伝子の詰まった人の体を生かしている。
地球環境が変わってすべての生きものととともにすべての遺伝子が消滅してしまうこともありうる。
もしも地球上の生命の歴史を最初からやり直したとしたら、またヒトが登場くるという保証はないが、また同じようになる可能性がなくもない。ともあれ、いろんな「たった一回だけの偶然」が重なってヒトという生きものの登場になった。
遺伝子は、世代から世代へと、ほとんど半永久的に手渡しされてゆくようにプログラミングされているらしい。
遺伝子をつくったのは自然というか地球の環境世界で、それによって生きものの命のはたらきが淘汰・決定されてきた。環境世界にうまく適合している生きものだけが生き残り。適合しなければたちまち滅びてゆく。そして、環境世界に適合するように進化してゆく。進化はたんなる「結果」で、環境世界がそのように選り分けて(淘汰して)きたにすぎない。
遺伝子の最小の単位は30数億年前と同じものらしいが、それは環境世界がそのようにしてきただけであって、遺伝子自身がそのようにあろうとしているといってもせんないことではないだろうか。その遺伝子だって、しょせんは地球環境でしか存在しえないのだ。

落葉樹の葉のほとんどは、まわりがギザギザになっている。それが落ちて木のまわりの地上に積もったとき、そのギザギザによって葉と葉がくっつき合い、かんたんには風に吹き飛ばされなくなる。そしてそれがカーペットの役割を果たすことによって木のまわりの土を冬の寒気から守り、やがて腐葉土として木の栄養になってゆく。自然というのはうまくできているものだなあと思う。ギザギザのない葉の落葉樹は、すべて淘汰されてきたのだろう。葉がギザギザになる遺伝子がある。その遺伝子がギザギザになるようにデザインしているらしいのだが、しかし、そういう遺伝子を生み出したのは環境世界だともいえる。夏と冬がなければ、ギザギザの葉の落葉樹は存在できない。その葉が勢いよく繁ったりやがて落葉して腐葉土になってゆくライフサイクルは、環境世界によってデザインされている。
ギザギザのない葉の木が淘汰されてきたということは、遺伝子が生き残ろうとするはたらきを持っていないことを意味する。生き残ろうとするはたらきを持っているのなら、そんな葉にはならない。すべては「なりゆき」まかせで、生き残ったり滅んでいったりしているだけだ。
人間であれほかの動物や植物であれ、すべての生きものは「こうしか生きられない」というところで生きているのであって、生き残るための戦略なんか持っていない。生き残るかどうかは、環境世界が決定する。
生きものは、生き残ろうとして生き残ってゆくのではない。環境世界が、生きものを生き残るようにデザインしてゆく。そういう「なりゆき」を「進化」というのだろう。
確かにドーキンスの思考はそれこそ天才的に自由自在でとても鮮やかな語り口だと思うのだけれど、英語には「なりゆき」という言葉がないし、「なりゆき」という言葉になじんでいるわれわれからすると、「利己的」といわれると、どうしても違和感が付きまとってしまう。

細胞内にはたくさんの遺伝子が詰まっていて、遺伝子は自分が生き残るように生きものの体をデザインしてゆくといっても、ほかの遺伝子のはたらきがより活性化するようにみずから死滅してゆく遺伝子もあるのだ。今は活性化している遺伝子でも、環境しだいではみずから死滅してゆくことにもなる。「もう死んでもいい」というはたらきを持たなければ、遺伝子であることはできない。
命のはたらきとは、「もう死んでもいい」というはたらきであり、そういうかたちで活性化する。
勃起したペニスは。膣の中で射精してしぼんでゆく。それは、死んでゆくみたいなことだろう。「もう死んでもいい」という勢いで勃起して射精するのだ。
生きものは「なりゆき」に身をまかせて生きている、生き残るかどうかは、環境世界が決定する。遺伝子だって、生きものの体にそんなことを要求しているのではあるまい。「もう死んでもいい」という勢いで生きよ、あとは「なりゆき」まかせでよい、というようなかたちでわれわれの体にはたらきかけてきているのではないだろうか。それはつまり、「(今ここに)反応せよ」ということで、ドーキンスだって「遺伝子のはたらきに未来という時間は勘定に入っていない」というようなことをいっている。
「遺伝子自身が生き延びようとする目的を持っている」だなんて、そんな比喩はピンとこない。
ドーキンスによれば、遺伝子は、最終的には自分が住み着いた体に対して「遺伝子が生き延びるためにはなんでもせよ」という指令を発するのだとか。それがまあ「利己的」ということなのだろうが、そういう言い方は、何かキリスト教の匂いがする。
命のはたらきとは「反応する」ことで、生きものの歴史は、「反応する」ことによって生き延びられるように淘汰されてきたのではないだろうか。「もう死んでもいい」という勢いで「反応」してゆくことによって、逆説的に生き延びてきたのではないだろうか。
人の体も心も生き延びてゆくようにプログラミングされている。しかしそれは、「もう死んでもいい」という勢いを持つようにプログラミングされている、ということでもある。
30数億年前の太古の遺伝子のかたちが現在の遺伝子の中にも残っている。だから遺伝子には「利己的」に「自己保存」してゆくはたらきがあるといっても、みずから滅んでゆくはたらきもあるのだ。滅んでゆかなければ、残ってくることはできなかった。
遺伝子自身にだって生き延びようとする目的なんかない。
われわれのこの生は、30数億年の生命の歴史によって積み重ねられてきた天文学的数字の無数の偶然による「幸運」ではなく、「不運」なのだ。
人間なんかこの地球の役立たずの存在で、人間が存在しなくてもこの地球はちゃんと存在できるのだ。そのほうがもっと地球らしく存在できる、ともいえるのかもしれない。
生き延びることなんか無意味だ。人類は、生きることの「嘆き」を共有しながら知能や文化や人と人のときめき合う関係を進化発展させてきた。
この世の中というか文明社会には、生き延びるための処世術に汲々としながら知性も感性もどんどん麻痺させている人間が少なからずいて、うんざりさせられる。

はるかに遠い将来、地球の寿命が尽きて滅亡のときがやってきたとき、すべての人類が別の星に移住してゆくかといえば、ぜったいそんなことにはならない。ほとんどのものは置き去りにされて、地球と運命を共にするしかないことだろう。また、みずからの思いで地球と運命を共にしながら滅んでゆこうとするものも少なからずいるにちがいなく、人は「生きられなさを生きる」存在であり、その滅亡のときこそ人類がもっとも深く豊かに生きる時代であるのかもしれない。
「すべての人類がほかの星に移住してゆく」だなんて、のんきな科学者のただの空想・妄想にすぎない。
人類なんか、地球と運命を共にしたほうがいいのかもしれない。まあ、「この生」や「自分」に執着・耽溺したブサイクなものたちだけで移住してゆけばよい。そうしてブサイクな世界をつくればいいさ。
ネアンデルタール人は「もう死んでもいい」という勢いで氷河期の北ヨーロッパに移住していったのであって、それが生き延びるための最善の方法だったのではない。生き延びるための最善の方法なんか選んでいたら、学問も芸術もスポーツも人と人がときめき合う関係も進化しない。生き延びる方法を手に入れることなんか、ただの堕落であり、命のはたらきの衰弱でしかない。文明人は、そうした「幸せ」に執着耽溺しながら、どんどんブサイクになってゆく。
遺伝子は、けっして「利己的」ではない。「利己的」ではないからこそ、30数億年という歴史を生き残ってきたのだ。いいかえれば、「利己的」でないことが「利己的」であることだともいえるわけで、人間だろうとほかの動植物だろうと、すべての生きとし生けるものが、じつは、ある意味「利己的」に「こうしか生きられない」というところで生きているのであって、「生き延びるためには何でもする」というわけにはいかないのだ。利己的であることは利己的でないことであり、利己的でないことは利己的なのだ。
シロクマはもう滅んでゆくしかないのだろうし、滅んでゆくことの尊厳というのもある。そしてそれはきっと、遺伝子のはたらきにプログラミングされていることに違いない。
あなたは、すべての人類が他の星に移住してゆく時代がやってくると思うか?
僕は、生き延びるためには何でもする人間が偉いとも自然だとも思わないし、遺伝子にそんなはたらきがあるとも思わない。。
生きものにとってセックス(=生殖)することは、生き延びるための行為ではなく「もう死んでもいい」という勢いで滅んでゆこうとする行為であり、もしかしたらそれは遺伝子による指令かもしれない。命のはたらきは、その勢いとともに活性化してゆく。