なぜセックスをするのか・ネアンデルタール人論263

承前

700万年続いた人類史のフリーセックスの生態は、文明発祥とともに後退していった。
そのとき人類は、「所有=私有」の観念に目覚めた。男が女を所有するとか女が男を所有するとか、そういうことひとまずどちらでもいいが、その「婚姻」という関係は、第三者を排除することの上に成り立っているわけで、そうやって「所有=私有」の観念に目覚めていった。第三者であるまわりの異民族を排除することによって、共同体の結束が生まれてくる。それが基礎になっているのかもしれない。
ネアンデルタール人の社会には、そういう婚姻関係はなかった。彼らは誰もが他愛なくときめき合っていたが、その洞窟集団の結束というようなものはなかった。集団はたえず離合集散を繰り返していた。集団から出てゆくものはいつもいたが、そういうものたちだって他の集団に身を寄せていっただけだし、どこの集団も旅人を歓迎した。だから、寒くなって人口が減れば、複数の集団が合流してひとつになることもできた。みんなで寄り集まっていないと氷河期の寒さには耐えられなかった。結束して第三者を排除するというようなことがなかったからこそ、そういうことができた。まあ現在のユーロ連合だって、そういう伝統かもしれない。
フリーセックスの社会は「結束」しない。そして現在の共同体(国家)は、フリーセックスをやめて「結束」することの上に成り立っている。
しかしそれでも現在だって、誰の中にもそういう心模様は残っている。そうやって人は「恋愛」をする。恋愛は、ひとつのフリーセックスなのだ。それは「出会いのときめき」の上に成り立っており、「共生=結婚」という関係になることによって終わる。人は、たとえ「共生=結婚」という関係になっても、「出会いのときめき」を残していようともする。いやもう、人の世そのものが、「出会いのときめき」が機能していなければ成り立たない。友情だってそうだし、人がどこからともなく集まってきて「都市」が生まれるとか「祭り」の場が生まれるということもまた、フリーセックスの生態のひとつにほかならない。
人の世の根源・本質は、フリーセックスの関係の上に成り立っている。

人類は、フリーセックスの関係の社会を持つことによって、一年中発情している猿になってゆき、その伝統から娼婦制度が生まれてきた。
女にセックスの衝動があって男を選択する本能があるのなら、娼婦なんかできるはずがない。セックスがやりたいから娼婦になるのではない、「やらせてあげてもいい」という気分でなるだけのこと、女は、本能的にそういう気分になれる。家庭の主婦が夫とセックスするときであれ、おそらくすべての女がそういう気分でセックスしている。そりゃあまあ「やらせてあげたくてたまらない」ということもあろうが、何はともあれ女にとってセックスは「やらせてあげる」行為なのではないだろうか。人間だけではない、猫や鳥のセックスだってそのことで説明がつくはずだ。
生きもののセックスは、必然的に遺伝子が残ってゆく「結果」をもたらすが、遺伝子を残そうとする「目的」があるのではない。
ネアンデルタール人の男たちに自分の遺伝子を残そうとする「目的」などなかったからこそ、フリーセックスの社会が成り立った。
女たちだって、父親が誰かわからない子を産むのだから、その子が優秀な遺伝子の持ち主かどうかということなど、考える由もなかった。女たちだって、自分の遺伝子を残そうとする「目的」などなかったのだ。
おそらく生きものの本能として、自分の遺伝子を残そうとする目的などないのだ。
日本列島の縄文時代弥生時代だって、おそらくフリーセックスの社会だった。そこには「母子関係」はあっても、「家族」という単位はなかった。
根源的には、人類の男に自分の遺伝子を残そうという目的はない。そういう目的は、文明社会の自我意識から生まれてきた。
哺乳類はメスだけで子育てができるようになっているから、女にも男に子育てを手伝ってもらおうという本能的な目的意識はない。ドーキンスは「女(メス)には男(オス)に捨てられたくないという動機(本能)がある」というが、そんなものは、文明社会の構造によってもたらされるたんなる自意識にすぎない。哺乳類は、メスどうしが子育てに協力し合ったり、子供のメスが子育てに参加したがったりする。人間の女の子がままごとをしたりお人形さんごっこをしたがるのもしかり、哺乳類の命のはたらきは基本的にメスだけで子育てができるような仕組みになっているからだろう。妊娠とは、自分の体の中で子育てをすることだ。そしてそれは、自分の遺伝子を残すことであると同時に、自分のではないオスの遺伝子を残すことでもある。プラスマイナスゼロ。遺伝子を残そうとする目的そのものがない、ということだ。
遺伝子を残そうとする目的の究極は、もっとも優秀な遺伝子を残そうとすることにたどり着く。そしたら、もっとも優秀な遺伝子の持ち主でないものは遺伝子を残したらいけないことになる。しかし、いろんな意味で、もっとも優秀な遺伝子などというものは論理的に存在しない。未来において、何がもっとも優秀なのかということは、誰にもわからない。遺伝子じしんにもわからない。そうして、誰も妊娠子育てをしなくなる。「もっとも優秀な遺伝子」とは、それ以上進化しない遺伝子のことだ。「遺伝子を残すため」という動機で遺伝子を残してゆくことは、論理的に不可能なのだ。
まあ現実の世界では、つまらない女がつまらない男に引っかかって子を産み育てているだけであり、人間だけではなく、それがすべての生きものの世界の現実なのではないだろうか。
誰もがつまらない男であり、つまらない女であるだけじゃないか。「優秀な遺伝子」などというものありはしないし、根源的には誰もそんなものを当てになんかしていない。

人の世は離合集散の生態の上に成り立っており、それは、遺伝子のはたらきの本質にほかならない。役立たずの遺伝子はどんどん死んで消えてゆくし、寄生してくる細菌を呑みこんでみずからの遺伝子群の一部にしていったりする。
「進化」とは、遺伝子群の「離合集散」なのだ。
人は死に、人は旅立ってゆく。「別れ」は人類世界の通奏低音であり、そういう関係を受け入れつつ、たえず新しい「出会いのときめき」を体験してゆくところにフリーセックスがある。
ドーキンスによれば、生きものの体は遺伝子を残してゆくための「機械」であるらしいのだが、それが生きものの自覚的な意識になっているとはいえない。まあドーキンスだって自覚的な意識であるとはいっていないわけだが、遺伝子の「自己複製」だって、ひとつの「別れ」の体験にほかならない。自己複製するということは、生き延びることを断念する、ということでもある。
生き延びることは、たんなる「結果」にすぎない。遺伝子のはたらきは、生きられなさに身もだえしつつ、生き延びることを断念しながら、生き延びてゆく。
命のはたらきの根源において、生きものは自分の遺伝子を残そうとなんかしていない。この地球において生命体は、残ってはならない「異物」であり、残ることができない「異物」なのだ。だからこそ遺伝子は、細胞や体などの幾重もの被膜に覆われている。そうやって遺伝子は、環境世界と決別して存在している。決別しなければ存在できない。細胞という遺伝子群が「被膜に覆われいる」とは、そういうことではないだろうか。遺伝子は、環境世界と決別した被膜の中でしか存在できない。そして、環境世界に「反応」しながら存在している。
「出会い」と「別れ」は人の世の通奏低音であり、そうやってフリーセックスの関係になったり、娼婦になったりする。すべての女は娼婦である、といっても、間違いともいえない。女はセックスをやりたくてやるのではない、「やらせてあげてもいい」という気になるだけだ。

「セックスは自分の遺伝子を残そうとする行為である」と、「結果」でしかないことを「目的」であるかのようにいうのは、フェアではない。それでたいていのことの説明がついてしまうとしても、なんだか僕はだまされたような気になってしまう。それは正しい。でも正しいというだけのことだ。
虫や植物の世界の「保護色」とか「擬態」は、相手をだまそうとしているのか。そんなことはたんなる「自然淘汰」の「結果」であって、彼らがそんな「目的」を持っているとはいえない。遺伝子がそんな「目的」を持っているからだといえばなんだかもっともらしいが、そんな「仕掛け」を持つことができなくて滅んでいった虫や植物だってごまんとあるに違いない。つまり、環境世界によってそんな「仕掛け」が選ばれて生き残ってきたというだけのことではないのか。
クモとかアリとかハチとかの世界にも、相手をだましたり出し抜いたり、とても高度な連携や計画性を持っているかのように見える例がいくらでもある。ドーキンスはそれらの生態を、「遺伝子を残すため」ということで説明してくれる。たしかにそれでみごとに説明がつくのだが、それらの行動がかんたんなロボットをつくるだけで再現できたりする科学の実験もある。ロボットには「脳」も「遺伝子」もない。それでも自動的に、そういう騙したり助け合ったり目的を持っていたりするかのような行動になる。
科学でアリやハチはつくれない。しかしアリやハチのような行動をするロボットはつくることができる。つまり、遺伝子なんかなくても、そういう行動をとらせることができるのだ。したがってそれは、遺伝子によって要請されたはたらきであるとはいえない。。
何はともあれ遺伝子が残ってゆくためには、自分が滅んでゆくことと引き換えに「自己複製」してゆかなければならない。「滅んでゆく」ことが「残ってゆく=生き延びる」ことなのだ。問題はそこにある。
遺伝子は滅んでゆこうとするはたらきだから、生き残るためにはどうしても「へま」をしてしまう。遺伝子のはたらきは、「自己保存」に失敗して「自己複製」してゆくことにある。

まえにも書いたが、「農業をするアリ」というのがいる。土の中の広い巣に葉っぱを敷き詰め、キノコを栽培し、それを食糧にしている。そのためにはほかにも、たとえばアブラムシを飼育してキノコの菌を培養させるとか、いろいろとややこしい作業をしなければならないらしいのだが、とにかく彼らは、まずは食うことをそっちのけでその作業に熱中してゆく。その生態は、「遺伝子を残すため」というパラダイムで説明することもできだろうが、そんなことを忘れた「もう死んでもいい」という勢いだともいえる。
「食うことを忘れる」ということは、「生き延びることを忘れる」ということだろう。遺伝子にも身体にも「生き延びよう」とする目的があるのなら、そんな行動が起きてくるはずがない。べつに、そのキノコを食わないと生きられないというわけでもあるまい。いや、そういう体になってしまっているとしても、その生態は、「食うことを忘れて熱中してゆく」ということがなければ成り立たない。そうやって生きものは、「生きられない」という状態に立ってしまう。遺伝子そのものがそういう状態に立っている存在だからだろう。
海では生きられない存在である人間が海水浴をしたがることだって、ようするにそういうことだし、生きものは生きることそっちのけで何かに熱中してゆく。体というか命のはたらきの中心に「生きられない」存在である遺伝子を抱えているから、どうしてもそうなってしまう。
花の中にも、われわれと同じ構造の根源的な遺伝子が存在している。その根源的な遺伝子が生き延びるためなら、何も花が花である必要なんか何もない。花が鳥になってしまおうと魚になってしまおうと、ぜんぜんオーケーなのだ。カエルがカエルである必要なんか何もない。ブタがブタである必要なんか何もない。
生き延びることなどそっちのけで細胞という遺伝子群が出来上がっていったからこそ、あれこれの「まぎれ」が生じ、花は花になりブタはブタになっていった。ただ「生き延びる」ためだったら、花が花である必要もブタがブタである必要もなかった。「生き延びる」ことなどそっちのけで熱中していった「結果」として、花は花になり、ブタはブタになっていった。花が花でありブタがブタであるという事実の必然性と尊厳は、生き延びることなどそっちのけで存在していることにある。
生き延びることから逸脱してゆくところにこそ、遺伝子のはたらきの本質がある。だから遺伝子は、幾重もの被膜で保護している必要がある。
キリンは、生き延びることなど忘れて木の葉を食っているうちに首が長くなってしまったのだ。もともと草食の動物が、何を好き好んでわざわざ毒性のある木の葉を食べたがらないといけないのか。
生きものは、「生きられなさ」に飛び込んでゆきながら多様な種に枝分かれしていったのだ。生き延びるためなら、もっとも効率的なひとつの種があればそれでいい。
「もう死んでもいい」という勢いで花になり、カブトムシになっていったのだ。「もう死んでもいい」という勢いとともに命のはたらきは活性化してゆく。
すべてのものは赦されている。花が花であることが赦されているように、人が「生きられない愚かで弱いもの」であることもまた赦されている。

ある人のコメントに対して、僕は次のように返信した。

「生きられない弱いもの」の魅力と尊厳は誰だって感じているわけで、そこにこそ命のはたらきの本質があると誰だって心の底では思っているのでしょうね。
鳥の親がどうして雛を育てるのかということを、「自分の遺伝子を残すため」というパラダイムで説明されても、いまいち納得できないものが残ってしまうのですよね。
たとえば、4羽の雛しか育てられないのに5羽の雛がいるとする。だから一番弱い雛を間引きすればそれで解決するかといえば、そうもいかなくて、いちばん強い雛が二羽分食ってしまうのなら、けっきょく問題の解決にならない。そのいちばん強い雛を残すためには、二羽間引きしないといけない。鳥の親には、そのいちばん強い雛が憎たらしくなってしまうことはないのでしょうかね。けっきょく5個も6個も卵を産んでしまう鳥の遺伝子は淘汰されてゆくのだろうし、みんなにちょっと足りないくらいずつ与えながら、ぜんぶの雛が死んでしまったりぜんぶ生き残ったりしながら、5個も6個も産めるように進化していったりする場合もあるかもしれない。ちょっと足りないくらいでも成長してゆけるように進化してゆく場合もあるかもしれない。けっきょく、そういう生きるか死ぬかのぎりぎりのところで進化してゆくのではないのでしょうか。
鳥がたくさんの卵を産めるようになっていったのは、ちょっと足りないくらいでも成長してゆけるようなっていったからだろうし、一番弱い雛はちょっと足りないくらいでも満腹になり成長してゆくことができる。最良最強の遺伝子をひとつだけ残すこととと、そうではない遺伝子を複数残すことと、どちらが進化につながるのか。このあたりの数学的シュミレーションは、なかなかややこしいしいのでしょうね。いずれにせよ、ひとつだけ残すなんてリスクが大きすぎるし、そもそも生きものは残そうとする目的で存在しているのではない、と僕は考えています。
何はともあれ、生きられない弱いものが生きてあることに対する感動というのはあるわけで。


生きものは、「遺伝子を残すために」セックスするのではない。「もう死んでもいい」という勢いでセックスをする。みずから滅んでゆこうとする遺伝子を、身体の幾重もの被膜が保護している。
遺伝子は、細胞内にプールされてある。細胞は、一瞬一瞬滅びつつ、一瞬一瞬再生産されてゆく。
べつに、地球上の生きものがセックスした数だけ生きものが生まれているわけではない。人類は、「もう死んでもいい」という勢いとともに一年中発情している存在になり、たくさんの個体数を持つ種になっていった。
この生は、個体それ自体で完結している。「遺伝子を残す」なんて、どうでもいいのだ。そんな「目的」で生きものが生きているともセックスをしているとも、僕は思わない。
犬にとっても猿にとっても鳥にとっても魚にとっても虫にとっても、セックスをすることは、滅びてゆく行為なのだ。僕には、そのようにしか見えない。
滅びてゆこうとしなければ、命のはたらきは活性化しない。そうやってアリやハチの驚くような生態も生まれてくるのではないだろうか。遺伝子を残すことに汲々としていたら、遺伝子は残ってゆかないのだ。「自分」に執着して生き延びることばかり考えていると、命のはたらきはどんどん停滞衰弱してゆく。命のはたらきとは、「もう死んでもいい」という勢いのことだ。
生きものは、「生きられない」存在だからこそ、「生きる」という行為を生み出してしまう。生きられない存在だからこそ、生きられない存在を生きさせようとする。みずからの命を投げ捨ててでも、生きられない存在を生きさせようとする。なぜなら「生きられなさ」すなわち「消えてゆく」ことこそみずからの存在証明だからだ。存在するから、消えてゆくことができる。命のはたらきとは命のエネルギーを消費することであり、そうやって消えてゆこうとすることが命のはたらきなのだ。
遺伝子は消えてゆこうとしている存在であり、だから、幾重もの被膜で覆ってやらないと存在できない。消えてゆこうとしている存在だからこそ、遺伝子も細胞も体も、「自己複製」してゆく。
何はともあれ命のはたらきが起きるということは、体の中に「遺伝子」という「消えてゆくもの」を抱えているからだろう。消えてゆくものを抱えて「身もだえ」してしまうことが、われわれの命のはたらきになっている。
遺伝子は、自分が生き延びるためにあれこれ画策してくるような「利己的な」はたらきではない。ただもう、生きることができないこの世のもっとも弱くはかない存在として消えてゆこうとしているだけだ。誰の中にも「生きられないこの世のもっとも弱くはかないもの」が棲み着いている。そしてわれわれは、そういう存在に対する「遠い憧れ」を抱いている。そうやって生きられない弱いものを生きさせようとしたり、そういう存在に対してこの世のものとは思えないような美しさとか尊厳を感じたりしているのではないだろうか。