遺伝子のかなしみ・ネアンデルタール人論262

承前

おそらく、フリーセックスの社会こそ、もっとも進化的に安定している。
安定しているからその社会は停滞しているかといえばそうではなく、人と人のときめき合う関係が豊かに機能しているからこそ安定しているのだ。
現在のように社会のかたち(=時代)が目まぐるしく変わってゆくのは、人と人のときめき合う関係がすぐに機能不全に陥ってしまうからだろう。
ネアンデルタール人はフリーセックスの社会を50万年続けたし、この国の縄文時代もそういうかたちの社会で1万年以上続いた。いやそれ以前に、700万年前に二本の足で立ち上がった人類は文明発祥の1万年前(あるいは5〜6千年前)までずっとフリーセックスの社会の歴史を歩んできたのだった。それによって、一年中発情している猿になっていったし、その後には爆発的な脳の進化も起きた。
誰もが誰とでも毎晩のように見境なくセックスできるのなら、その社会は進化的に安定する。しかし文明発祥とともに「私有=所有」という観念が発達して「競争」がさかんになってくれば、その関係はもう崩壊してゆくしかなかった。それが大陸では5〜6千年前ころで、大陸から離れた絶海の孤島であった日本列島では、2千年前ころになってようやくそのような社会の状況が生まれてきた。
人類はもともとフリーセックスの社会をつくる生きものだった。人類史の99パーセント以上は、フリーセックスの社会だった。

生きものは近親度が増せば増すほど親密な関係になってゆく、とドーキンスはいっている。まあ、そうだろう。なぜそうなるかといえば、自分の遺伝子を残したいからだ、と彼はいう。
だったら、「近親憎悪」という関係を、どう説明するのだろう。イギリス人と日本人が結婚することを、なんと説明するのだろう。男と女は、近親度から遠く離れた関係のほうがより親密になりやすい。近親相姦の禁止というタブーが存在するからだ、といっても、世界中どこでも貴族王族は近親度を守るために近親相姦を繰り返してきたし、アリやハチの社会は近親相姦の上に成り立っている。近親相姦の禁止なんて、文明社会のたんなる制度にすぎない。基本的に男も女も、血縁から遠く離れた相手とセックスしたがる。「男と女」ということそれ自体が、遠く離れた関係なのだから。
フリーセックスの社会では、子供の父親が誰かわからない。それは、誰も近親度なんか意識していないということだ。つまり、「自分の遺伝子を残す」という目的など持っていない、ということだ。それでも最終的には血のつながりがシャッフルされて、誰もが平等に同じだけの近親度になってゆく。科学的生物学的な近親度の数値がなんであれ、ネアンデルタール人の社会は、主観的にはとても近親度が高い社会だったのだ。だから彼らは、集団のみんなで子供の世話をしていた。
フリーセックスの社会では、すべての人の近親度が同じになってゆく。そうやって誰もがときめき合い、社会のかたちが安定してゆく。

生物学的には、その近親度はおそらく、遺伝子の近似性というより、顔や姿かたちが似ているというようなことなのだろう。まわりのみんながだいたい同じような姿かたちをしていて、自分もまわりから親密に見られているのなら、自分も同じような姿かたちなのだろうとわかる。まあ、われわれはみな同じ人間でシカやウマとは姿かたちがまったく違う、と思うだけで親密になれる。そして、シカやウマはまったく姿かたちが違うという理由で親密な感慨を持ったりもする。男と女の関係のように。
進化した多くの動物種は、個体識別の能力を持っている。
太平洋の真っただ中でウミガメのオスとメスが出会って、たがいに同じ種族だと認識し合って交尾をする。今までウミガメと出合ったことなどなくても、そう認識できる。もしもそんなことがあるとすれば、ウミガメに「性選択」などない。出会えるチャンスなどめったにないのだ。いや、ウミガメの生態はよく知らないが、魚にしても、とにかく単独行動の彼らが出会った相手を「自分と同じ姿かたちをしている」と認識することができるのは、とても不思議な気がする。同じ種だとか近親だとか、何か本能的に感じるのだろうか。とにかく基本的には、同じ種であれば誰でもいいのだ。
コウモリなどは、複数の群れの個体を混ぜ合わせても、同じ群れの近親かどうかがちゃんとわかるらしい。コウモリは目が見えないから、鳴き声の感じとかでわかるのだろうか。
とにかく生きものにとって近親度はそのまま親密度でもあるらしい。しかしその原因が、自分の遺伝子を残したいから、という説明では納得できない。近親度が高いということは姿かたちや行動が似ているということだろう。そういう近似性の問題を、遺伝子の問題にしてしまえるのだろうか。
遺伝子は、べつに近親でなくてもライオンとライオンがセックスをすれば残されてゆくし、強いライオンでなくてもかまわない。同じ遺伝子なのだから、ライオンであればそれでよい。同じライオンであるという近似性が大事にされているだけのことだし、セックスの場合はその垣根さえも越えてしまうことがある。まあそれでもやっぱり、「同じような姿かたちをしている」という認識の範疇のことだろうか。

生命体は、この世界の「異物」として存在しているから、相手が自分にとっての「異物ではない」ということに安心するし、「異物である」ことに関心を持ったりする。われわれは、「異物」であることの「生きられなさ」を生きるほかないし、だからこそ相手が自分にとっての「異物ではない」ことに救いを見出したりもする。
細胞は、体に侵入してきた「異物」である細菌を呑みこんで、みずからの存在の一部にしてしまったりする。ミトコンドリア遺伝子は、そのようにして細胞の中に棲み着いたものらしい。「異物である」ことと「異物ではない」こと、命のはたらきは、どちらに対しても反応するし、心は、どちらに対してもときめいたりする。
まあ、「近似性」をもとにして交配しながら多様な種に枝分かれしてきたのだろうし、「異物」と交配するから進化が起きてくる。
どちらも環境世界に対する「異物」であることを共有しつつ、たがいに相手に対する「異物」として出会っている。そうやって男と女はときめき合い、セックスをするのかもしれない。
近親度が高いということは、「環境世界に対する<異物>であるという自覚を共有している」ということかもしれない。そうやって家族は仲良くし、男と女だってそうやってときめき合っている。ドーキンスがいうように「遺伝子のはたらきは近親度の高い個体どうしをより親密な関係にしてゆく」のなら、そういう主観性だって遺伝子の要請だといえなくもない。というかそれは、「自分の遺伝子を残そうとする」ということよりも、もっと直接的実質的な遺伝子の要請ではないかとも思える。
遺伝子は、30数億年前の地球で、この世界の「異物」として生まれてきたのだ。だからそれは、細胞膜や体などの幾重もの被膜に覆われているし、ほかの細胞に潜り込んで寄生していったりもする。生きものの細胞は、寄生し寄生されながら進化してきたのだ。男のペニスが女の膣の中に潜り込んで寄生してゆくように。
寄生し寄生されながら共生してゆく、ということだろうか。ただ一方的に寄生されるのではない、細胞は、「呑みこむ」というはたらきも持っている。そうやって生物の細胞が進化してきたし、そうやってメスの卵子はオスの精子を呑みこむ。
たがいに「異物」であり「生きられない」存在なのだから、「身もだえ」するように関係を持ってゆく。それがセックス=交尾という行為であり、そうやって有性生殖は進化してきた。
遺伝子そのものが「生きられない異物」なのだから、とうぜんそうなるだろう。
ただ「不滅の」といえばすむというわけではない。遺伝子は「生きられない」存在だからこそ、「不滅」の歴史を歩んできたのだ。
人間だって、「生きられなさ」に「身もだえ」するようにセックスしているではないか。それはきっと、遺伝子の要請なのだ。

ドーキンスが「利己的な遺伝子」というのなら、僕は「遺伝子のかなしみ」ということにしよう。
「生きられない」存在だからこそ、「生きる」といういとなみをする。これは文学ではない、、生物学的な事実だ。生きものは、「生きる」といういとなみをしなければ生きてあることができない。床の間の花瓶のように、じっとしているだけで存在できるわけではない。原初の海で生まれた最初の生命体は、まず生きるいとなみを身につけていった。すなわち「自己複製する」こと、それこそがじつは、「生きられなさ」に「身もだえ」することだった。そしてそれは、もっとも原初的な生きるいとなみであると同時に、われわれ現在の人類のそれの正味のかたちでもある。
ドーキンスが、「この地上で、唯一われわれだけが、利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できるのである」というとき、すでにみずからの「利己的な」という言葉によって自縄自縛に陥っている。遺伝子のはたらきは「利己的」でもなんでもないし、何がかなしくてわれわれがそれに「反逆」しないといけないのか。
遺伝子は、「生き延びよ」とわれわれの身体に命じているのではない。遺伝子のはたらきには、そんな作為的な「目的」などない。ただもうこの世界に「反応」しているだけであり、遺伝子自身がこの生の基礎=根源として「生きられなさ」に「身もだえ」しているだけだろう。
われわれの体の奥では、ひっそりと何ものかが「生きられなさ」に「身もだえ」している。
あなたは、その気配を感じないか?