『利己的な遺伝子』の感想補記・ネアンデルタール人論261

この感想記は、前回でやめるつもりだったのだが、じつは気になっていることがまだまだたくさんある。たくさんあるけど、自分の手に負える本ではないという気が引ける部分があって、早々に立ち去ろうとしただけだった。
書けば書くほど自分の無知をさらけ出すようで、こわごわ書いてきた。
科学というか生物学に詳しい人が「お前は何もわかっていない」といってきてくれればもっと早くやめたかもしれないのだが、幸か不幸かそんな反応もなかった。
この『利己的な遺伝子』という本は、べつに専門家でなくても理科系の学生ならたいていの人が読んでいるはずで、僕の書きざまなど彼らが文科系をバカにするときの絶好の餌食に違いなく、「お前がドーキンスを批判するなんてしゃらくさいんだよ」とひとりくらいは言ってくるのではないかと思ったりしたのだが。
やっぱり『利己的な遺伝子』には、どうしても納得できない記述がところどころにある。
ドーキンスはこういう。

この地上で、唯一われわれ(人間)だけが、利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できるのである。(…中略…)一方で遺伝子は人間の行動に統計的な影響力を行使すると考え、しかし他方で、その影響力を他の影響力によって変形させたり、克服したり、あるいは逆転したりできると信じることは完ぺきに可能である。(…中略…)私たちの脳は、遺伝子に対して反逆できるほどには十分に、遺伝子から分離独立した存在なのである。


この部分は、「科学」というよりは「思想」を語っているのだろうか。しかしそうはいうが、脳は無数の細胞でできているのだし、その中のすべてに遺伝子が埋め込まれてあるのではないのか。どう転んでも「遺伝子から分離独立」することなんかできないだろう。われわれは遺伝子で考えているだけだ、といわれても僕は納得する。まあ、遺伝子で考えながら、「遺伝子から分離独立」していると思い込むことは可能に違いない。
ようするにここでのドーキンスは、「人間は利己的な遺伝子から分離独立して利他的な存在になることができる」といっているわけだが、そうやって「利己的=悪」に対する「利他的=善」というような二項対立の思考を持ち込んでいるところが気に入らない。そんなのどっちでもいいじゃないか、と思う。この人も、科学者の顔から思想家の顔になったとたん、ナイーブになってしまう。

何はともあれ人間が利他的な思考や行動も持っているのは、遺伝子それ自体がそのようなかたちで成り立っているからだろう。そうでなければつじつまが合わない。
遺伝子は、それ自体だけでは生きられない「はかない存在」であり、人の心に「もう死んでもいい」という勢いをもたらす。そうやって人は、わが身を捧げるかのような利他的な思考や行動をしている。
べつにいつ死んだってかまわない、死ぬときは死ぬときだ……人間性の自然においてそういう思いが誰の中にも息づいているわけで、それによって人にときめいたり利他的になったりもするし、文明人の観念がそれを塞いでむやみな生命賛歌をしていったりもしている。
この世の中には、利己的な動機の「献身」もあれば、純粋に利他的なそれもある。
たとえば、ナチスの時代にユダヤ人の身代わりとして我が身を差し出して死んでいった偉いキリスト教の牧師がいたそうだが、彼は自分がもっとも気持ちよく死んでゆけるチャンスを狙っていただけかもしれない。そんなことはもう、他人にはわからない。われわれにいえることはただ、遺伝子は「はかない」存在であり、人の心に「もう死んでもいい」という勢いをもたらすはたらきを持っている、ということだけではないだろうか。
われわれの体の中の遺伝子はたくさんあり、生き延びるまいとする遺伝子もあるのだ。「遺伝子のはたらきの本質は<利己的に>生き延びようとすることにある」などといってしまったら、それはもう科学ではない。この地球上のすべての命のはたらきは、利己的でも利他的でもなく、「命のはたらきははかない」ということがいえるだけではないだろうか。
遺伝子の存在の本質は「生きられなさ」にある。「生きられなさ」こそ、命のはたらきを活性化させる。「生きられる」ことは、命のはたらきの停滞なのだ。そんなことは、論理の問題としてそうだろう。ドーキンスは「進化は、急激に起こるのではなく、安定的な水準から安定的な水準へとゆっくりと移行してゆく」というようなことをいっているが、「生きられる=安定的な水準」が進化の契機になるだなんて、言語矛盾だろう。すでに「生きられる」のなら、進化=変化してゆく必要なんか何もない。「生きられなさ」に「身もだえ」しながら進化してゆくのではないのか。そして「生きられなさ」それ自体を生きようとするから、ゆっくりと進化してゆく。だったら生きられないままでいればいいではないかといっても、生きられなければ「身もだえ」してしまうわけで、それが進化になる。
この地球上の生きものは、環境世界に対する「異物」として、「生きられなさ」に飛び込んでゆくはたらきを持っている。それによって進化=変化が起きるのではないだろうか。
命のはたらきに、「安定的な水準」などというものはない。

ips細胞の作成は、「生きられなさ」を生きさせようとする試みとして見いだされていったのだろうか。その細胞をいったん白紙の生きられない状態に戻してやる。そうして肝臓の中に置いてやればもう、肝臓の細胞になるしか生きられるすべはない。肝臓の細胞にさせられてしまう、と言い換えてもよい。命のはたらきは、無防備なときめきを生きているところでこそ活性化する。
遺伝子はべつに、生きようとする作為的な欲望をたぎらせているわけではない。
原初の細胞に遡行するとは、生きられない状態に戻るということ。誕生から死への過程を繰り返すことを生態としているすべての生きものは、そこから生きはじめる。ips細胞が肝臓の細胞として生きられるということは、肝臓に寄生して肝臓から生かされていることでもある。その細胞は、肝臓をつくりつつ、肝臓に寄生して肝臓から生かされている。これはもう、われわれが国家や会社や学校や家族という「パッケージ」の中で生きていることと同じだろう。そのはたらきは、遺伝子のレベルからすでにはじまっている。
遺伝子のはたらきと身体のはたらきは、なんにも矛盾しない。遺伝子のはたらきに「反逆」する必要なんか何もないし、「反逆」したら、むしろ命のはたらきは停滞・衰弱してゆく。
遺伝子のはたらきに添うて生きていればいいだけだし、現代の文明社会では、そのように生きることがとても困難になってしまっている。

利己的な遺伝子』は、マルクスの『資本論』に匹敵する偉大な著作だと思う。でもやっぱり、どこか変だ。「遺伝子に反逆する」という言い方は、「革命」とか「労働者独裁」を叫ぶこととたいして違いはないと思える。われわれの「身体という労働者」は、遺伝子に「反逆」しないといけないのか。
ドーキンスは、「利己的」という言葉を採用した時点で、すでに科学から逸脱してしまっている。キリスト教徒の国の人の悪い癖だ。彼らは、「能動性」とか「主体性」などといって、作為的であることが命のはたらきの本質・自然だと思っているところがある。
僕はもう、遺伝子のはたらきのままに生きるしかない、とこのごろ考えている。
まあこの国の天皇は、この国におけるひとつの「遺伝子」として機能してきたのかもしれない。彼は、生きられないこの世のもっともはかなく無防備な存在である。彼には「能動性」とか「主体性」というようなものは、何もない。そして、だからこそ世界のどこよりも長く存続してきた。遺伝子のように。
遺伝子とは、この世界の環境に無防備な滅んでゆく存在なのだ。それを、細胞や身体が必死に守っている。この国の民衆が天皇を祀り上げ守ろうとしているように。
感動するとは、祀り上げ守ろうとすることだ。そうやって「古典=伝統」が守り継がれてゆくのだろうし、それはもう、母親が赤ん坊を守り育てるという生物学的な行為だって同じにちがいない。