身もだえする遺伝子・ネアンデルタール人論260

承前

利己的な遺伝子』という本の中で、ドーキンスは、とてもいいことをいってくれている。ちょっと話がずれるが、それはこういうことだ。
「問題が存在するとわかるほうが、答えを考えるよりずっとむずかしい(406ページ)」
その通りだと思う。
これこそ本格的な科学者の思考態度なのだと思う。まず、どこに問題が存在するかということに気づかなければ思考も研究もはじまらない。そこに気づけば答えはもう半分わかったようなものであるが、本格的な才能を持っていなければ問題に気づく(=見つけ出す)ことはなかなかできない。
本を読んだりネットで調べたりすればわかるような「答え」をどんなにたくさん知っていても、しょせんは二流の研究者でしかないし、そんなことでは研究者にはなれないともいえる。問題のありかに気づくことは、凡庸な才能ではなかなかできない。
問題に気づいて「問う」ということ、それは「わからない=生きられない」という状況に飛び込んでゆくことであり、たくさんの「答え」を知っているということは、そうやってみずからの「生きられる」能力に執着耽溺しながら本格的な知性が停滞してしまっている状態にすぎない。つまり、「もう死んでもいい」という勢いで「問い」という「生きられなさ」の中に飛び込んでゆくだけの「ときめき」をすでに喪失してしまっているのだ。
そしてこのことは、われわれ庶民の人と人の関係についてもいえる。
ときめいている人は相手にいろんなことを問いかけてゆくし、ときめきを失って他人を警戒することばかりして生きている人間は、そういう「問い」を省いて自分で勝手に決めつけながらわかった気になってゆく。そうやって他人を安く見積もって安心しようとする。彼には「問題の存在」が見えない。まあ、今どきのえらそぶった大人なんか、たいていがこんなふうかもしれない。他人を裁くことばかりして、他人の存在に対する好奇心やときめきがまるでない。「問う」だけの知性を持っていない。
それでは、あなたの知性は「進化」しない。
生きものの進化は、「生きられなさ」の中に飛び込んで身もだえしながら問うてゆくことによって起きてきたのであって、みずからの生き延びる能力に執着・耽溺しながら起きてきたのではない。
生き延びようとしたのではない。「もう死んでもいい」という勢いとともに「今ここ」の状況に身もだえしていっただけであり、それによって生き延びることができるようになっていったのは、たんなる「結果」にすぎない。
生きものは、「生きよう」とするのではない。「生きてしまう」のだ。「もう死んでもいい」という勢いで身もだえすれば「生きてしまう」のだ。そこのところで僕は、ドーキンスの問題設定に対して、今ひとつ納得できない。まあドーキンスからすれば、「そうやって遺伝子のはたらきが個体の体を生かしてしまうのだ」ということかもしれないが、僕としては、そうした「遺伝子」のレベルにおいて、すでに「もう死んでもいい」という「生きられなさ」がついてまわっているのではないかと思える。
われわれの命は、身体と遺伝子のあいだで作動しているのだろうか。それは、「無意識」のはたらきについて問うことでもある。
この生のはたらきを問うことは、死について問うことでもある。すなわち、この生のはたらきは、「生きられなさ」に「身もだえ」することである。人の意識が死を知ってしまったということは、そういうことを知ってしまったということではないだろうか。
息をしないと死んでしまう。われわれの命は、それほどにはかない。それは、遺伝子そのものがそういう「はかない」存在だからかもしれない。

30数億年前の地球の海に原初の生命が生まれたとき、それは長く生きながらえたかといえば、おそらくそうではない。
生まれた次の瞬間に死んでいった。
なぜならそれは、地球環境の「異物」だったからだ。「異物」だから、地球環境にそれを除去しようとする化学反応が起きる。そうやってたくさんの生命が生まれてたちまち死んでゆく海になった。
まあ今でも、地球上の生きものなんか、すべて「異物」だろう。すべての生きものは、環境を壊しながら生きている。息をすることは、酸素を壊して炭酸ガスに変えてしまうことだ。すべての生きものが環境を破壊し、そうした「排泄物」をどんどん垂れ流しながら存在している。この地球の「異物」以外の何ものでもない。「生命の尊厳」だなんて、地球に対して失礼というもの。そんな傲慢で厚かましいことは、いうべきではない。
生きものの死体は土や水や空気になってゆく。それは、地球環境による「異物」を除去しようとする化学反応だろう。
そして生きもの自身だって、「異物」として「身もだえ」しなければならない。「身もだえ」しながら、分裂して、ドーキンスいうところの「自己複製子=遺伝子」が生まれてきた。
「この世界の<異物>として身もだえする」とは、「消えてゆこうとする」ことだ。それが、生きものの命のはたらきの根源のかたちではないだろうか。消えてゆこうとして分裂しながら、少しずつ生きながらえられるようになっていった。
生物学の専門的なことはよくわからないが、ドーキンスのいう「生きものの心や体は遺伝子の存在の影響下にある」ということは、おおいにうなずける。だからこそ、「生きようとする」という問題設定では納得できないのだ。
そのおおもとの遺伝子はこの世界の「異物」として生まれてきたのであり、「異物」が生きようとなんかするものか。それは、「異物」として、たえず地球環境から排除しようとする淘汰圧にさらされているのであり、自身もまた、「異物」として「消えてゆこうする」はたらきを持っている。
だから遺伝子は、細胞や身体などの幾重もの被膜に覆われている。被膜で覆わないと生きられないのだ。
生きものの体が動くということは、「異物として身もだえする」ということ。「身もだえする」というかたちで「命のはたらき」が生まれてきたのではないだろうか。この生の「受苦性」は根源的であり、それこそが遺伝子の存在に由来するのではないだろうか。
生きものは「もう死んでもいい」という勢いで「生きてしまう」のだ。原初の生命の海でじっとしていればそのまま直ちに化学分解されて消えていったものを、「身もだえ」したことによって「生きてしまう」体になっていってしまった。それが「生命になる=遺伝子が発生する」という最初の現象だったのではないだろうか。

ウイルスは、生きものの体に病気になるとかの「作用」を及ぼす。それは、ウイルスが「身もだえ」する、という現象なのではないだろうか。そういう意味で、ウイルスだって(自律的に)動く、といえるのではないだろうか。
生命現象とは、自律的に動く、ということだろうか。
心が動くことは脳のはたらきが動くことで、たのしいとかうれしいということだって、生命現象としては、ひとつの「身もだえする」という現象ではないだろうか。生きものは、この世界の「異物」として「身もだえ」しながら生きている。「異物」だからこそ心が動くのであり、よろこびもすればかなしみもする。われわれ生きものは、地球環境から淘汰圧を受けながら「身もだえ」して生きている。
そして地球環境の淘汰圧は、われわれ生きもののの体や生態を「進化」させる。それは、細胞の中の遺伝子が淘汰圧を受けている、ということではないだろうか。おおもとの遺伝子が淘汰圧を受けながら、遺伝子の集まりである細胞を進化=変化させてゆく。
遺伝子は細胞に寄生していて、細胞は体に寄生している。そうやって遺伝子の「身もだえ」が、体のはたらきや組成にまで及んでゆく。そうやってまず遺伝子が、地球環境の淘汰圧を受けている。遺伝子だって、「生きられない」存在なのだ。「生きられない」存在だから細胞に寄生するようになっていったのだし、「生きられない」存在だからこそ、生きるためのはたらきを生み出すのだ。「もう死んでもいい」という勢いで「身もだえ」しながら、「結果」として生きてしまうはたらきを生み出してゆくのだ。
遺伝子それ自体で生きられるのなら、何も細胞に寄生する必要もない。今なお地球の海というスープの中に漂っていればいいだけなのだが、今やもうそこには存在せず、すべての生きものに寄生して生きながらえている。

最後に『利己的な遺伝子』の結びの文章を引用しておくことにする。

自己複製子は、もはや海の中に勝手に散らばってはいない。彼らは巨大なコロニー(個体の体)の中に包み込まれているのだ。(…中略…)この地球でおなじみのような個体の体は存在しなければならない、というわけではなかった。宇宙のどんな場所であれ、生命が生じるために存在しなければならなかった唯一の実体は、不滅の自己複製子である。


そんなことをいったって、「自己複製子=遺伝子」が存在するためには、個体の細胞や体という「保護膜」が存在しなければならなかったのではないだろうか。それは、原初の海で、生まれてたちまち消えてゆく存在だった。それが生きながらえるためには、細胞のようなある「パッケージ」が必要だった。それは最初、水の泡のようなものだったのかもしれないが、泡そのものが遺伝子と反応し合って被膜のよう物質になっていったのか、とにかくそこに潜り込んだことによって、はじめて生きながらえることができるようになった。
細菌の遺伝子は、われわれの体の細胞に潜り込んでくる。命のはたらきとは、寄生することだろうか。
その、遺伝子の最小単位としてのおおもとの遺伝子は、原初のかたちのまま30数億年のあいだ途切れることなく自己複製し続けてきたのだから「不滅」といえば確かにそうなのだろうが、もとはといえば生まれてすぐに消えてゆくものだったのだし、今でも消えてゆきながら自己複製し続けているだけだろう。
われわれの体の細胞は、古くなったものを捨てて、たえず新しくつくりなおされてゆく。そのとき、細胞とともに遺伝子も消えてゆく。遺伝子とは、「消えてゆくもの」ではないのか。消えないのなら、「自己複製」する必要なんか何もない。遺伝子とは、この世界のもっともはかない存在でもある。それは、30数億年前の原初の海に漂っていたときと同じように、今でもたえず生まれては消えてゆくということを繰り返している。たしかに「不滅」ではあるのだが、ただ「不滅の」といっただけではすまない。それは、この世のもっともはかないものこそもっとも不滅である、という逆説の上に成り立っている。

ドーキンスは、「(遺伝子と比較して)個体はあまりにも大きすぎ、はかなすぎる遺伝単位である」といっているのだが、そのおおもとの遺伝子こそ「あまりにもはかなすぎる遺伝単位」であり、はかなすぎるから「不滅」になっているのではないだろうか。遺伝子のほうが、もっとはかないのだ。
「はかなさ」を命のはたらきではないとするその「文脈=語り口」が、僕にとっては違和感が残る。もしかしたらそれは、彼がキリスト教徒の国の人だからかもしれない。彼が語っていることはまったく正しいと思えるし、この本からたくさんのことを学ばせてもらったのだが、どうしても違和感が残ってしまう。
原初の生命物質は、生きものなのに生きられなくて「身もだえ」したから、「パッケージ」の中に入り込んでしまった。「身もだえ」することこそ、「進化」の契機なのだ。
遺伝子の身もだえが細胞に伝わり、細胞の身もだえが体に伝わってゆく。そうやって生きものの命のはたらきが起きているのではないだろうか。
命のはたらきとは、「生きられなさ」に「身もだえ」することではないだろうか。
「生きられない」という契機がなければ、命のはたらきは起きてこないのではないだろうか。
ips細胞は、どんな臓器の細胞にもなれるらしいが、それは「どんな臓器の細胞でもない」ということだろう。「どんな臓器の細胞でもない」のなら、「細胞であることすらできていない」ともいえる。その「生きられなさ」に「身もだえ」しながら、なにがしかの細胞になってゆく。まあ、ただの言葉遊びかもしれないが、僕はけっこう大真面目にそう考えている。
われわれは、この世に生まれ出て、「生きられない」存在の赤ん坊として生きはじめ、成長(進化)してゆく。いやもう、「生きられない」ひとつの精子あるいは卵子として生きはじめたのだ。
原初の生命だって、「生きられない」存在として発生し、やがて30数億年の「不滅」の歴史を歩みはじめた。
遺伝子を「不滅」というのは正しい。しかし正しいというだけのことだ。
命のはたらきが起きるためには、「生きられない」という契機が必要なのだ。その生きられなさの中で「身もだえ」することを、命のはたらきという。僕には科学的な言葉を駆使することはできないが、これは科学というか生物学の問題だろうと考えている。文学的な表現をしているつもりはさらさらない。そんなことよりも、ips細胞のことを念頭に置きながらそういっている。
個体が永遠に生きてゆくということなどできない。生きものの命は、つねに「誕生=発生」という体験にたちかえりながらつながってゆく。それは、「生きられなさ」に遡行して生きはじめる、ということだ。なぜ、わざわざそんなところからやり直さねばならないのか。たぶん、「生きられなさ」から命のはたらきが起きるからだ。それが命のはたらきの本質なのだ。
生きものの命の歴史は、つねに「遺伝子」の レベル、すなわち「生命の発生=繁殖」にたちかえりながらつながってゆく。まあドーキンスはこれを「ボトルネック」といっている。
そうやって30数億年の歴史を生きてきた遺伝子は、たしかに「不滅の存在」であるが、それと同時に、「自己複製」しないと生きられないということにおいて、「この世のもっともはかない存在」でもある。
生きものが生きるいとなみをするということは、環境世界から淘汰圧を受けているということであり、もっともそれを強く受けているのが遺伝子なのだ。遺伝子は、「生きられなさ」に「身もだえ」して震えている。だから、体や細胞など、幾重もの保護膜に守られている。
遺伝子が存在するためには、細胞や体が存在しなければならないのだ。それらの保護がなければ、遺伝子は存在できない。遺伝子=生命は、原初の海で「生きられない」存在として生まれてきた。その分子の鎖は、裸のまま環境世界に放り出されたら、たちまち分解して消えてゆく。
遺伝子は、「生きられなさ」を自己複製しているのだ。
生命とは「生きられない」はたらきである……これが僕の問題設定で、こんなことを門外漢がいっても、科学者からは一笑に付されるだけだろうが、僕としては、それほどかんたんな問題ではなく、一生かかっても解き明かせない迷宮に入り込んでしまっている、という心地で、科学の知識がないままこんなことを考えてもどうにもならない、と途方に暮れてもいる。