「優秀な遺伝子」という欺瞞・ネアンデルタール人論259

ネアンデルタール人は、フリーセックスの社会をいとなんでいた。それはつまり、父親が誰であるかわからない子を産んでいたということだ。一般的には、セックスは自分の遺伝子を残そうとするいとなみである、などとよくいわれるが、もしそうであるのならフリーセックスなんか成り立たない。
人類史の99パーセントの時代は、フリーセックスの社会だった。それによって男は一年中発情している存在になっていったし、すべての男にセックスの機会が与えられていなければそういう進化は起きないに違いない。そうして、どんどん人口を増やしていった。おそらく人口増加による飢餓の危機は再三再四あったのだろうが、それでもセックスしまくって子を産みまくってきた。
「祭り」の場のフリーセックス、それによって人類は一年中発情している猿になっていったし、勃起したペニスが大きく硬くなっていった。
メスがオスを選ぶ社会で、オスの発情が一年中起きるようになってゆくということは、論理的にありえない。
「浮気型」の男は自分の遺伝子を広くばらまくことができるが、すべての男が同じ戦略をとり、すべての女が「尻軽型」でどんな男でも受け入れる社会になれば、すべての子供の父親が誰かわからなくなり、ばらまいていることの確証が持てなくなる。
したがってフリーセックスの社会では、男が「自分の遺伝子を残すためにセックスをする」ということは成り立たない。
それに対して女は自分で子を産むのだから半分は自分の遺伝子が子に伝わっていることがわかるが、もしも「遺伝子を残す」という目的のためであるのなら、残りの半分がどの男のものかわからないまま子を産むなんて不安だろう。
ネアンデルタール人にとっては、そんなことはどうでもよかった。優秀な遺伝子を残したい、という気などさらさらなかった。子供は、子供であるというそのことだけで愛らしく大切な存在だった。
まあ人間でさえそういう無邪気なことができるのだから、ほかの動物にだって「メスは優秀な遺伝子を残すためにオスを選択する」などというよく語られる動機があるのかどうかわかったものではない。
ドーキンスだって「何がオスとしての優秀さかということはわからない」といっている。
優秀な遺伝子の持ち主が生き残っていって進化が起きるのではない。優秀であるということは、それ以上進化しないということだ。優秀ではないことに身もだえしながら進化してゆくのだ。人類は、生きられない弱いものをけんめいに生きさせようとしてきたし、生きられない弱いものが生き残ってゆくことによって爆発的に進化してきたのだ。
進化の契機は、「生きられない弱いもの」のもとにある。そういうものを生きさせるかたちで「進化」が起きる。
ネアンデルタール人の社会においては、すべての男にセックスの機会があった。洞窟の中では、毎晩のように男と女が抱き合ってセックスしていた。その苛酷な環境のもとでは、誰もが「生きられない弱いもの」だった。そして男も女も、誰もが相手にセックスアピールを感じていた。
彼らに「優秀な遺伝子を残そう」という意図はなかった。誰もが「生きられない弱いもの」だったのだから、「優秀な遺伝子」という意識そのものがなかった。しかし彼らは、セックスアピールを感じる遺伝子を持っていた。

ドーキンスは「メスが優秀な遺伝子の持ち主のオスを選択するのは、遺伝子の要請である」といっているが、そうだろうか。
「優秀な遺伝子」などという言葉を軽々しく使われると、なんだか癇に障る。
一夫多妻制のライオンだろうとゴリラだろうとゾウアザラシだろうと、メスからすれば、ハーレムに君臨する強い個体だから「優秀な遺伝子の持ち主」だと思ってセックスさせているのではおそらくない。オスだったら誰でもかまわないからそのオスにさせてやっているだけのこと。ライオンの場合、草食獣の狩りなんか主にメスだけでしているだけじゃないか。ろくに狩りもしないで、優秀もくそもあるものか。メスの性器にセックスができる兆しがあらわれるときにそばにいるオスがやらせてもらうだけのこと。メスからしたら、そのオスでなければならない理由などない。だからオスは、ほかのオスが近づいてくると必死に追い払うし、メスがそのオスを優秀な遺伝子の持ち主だと認めてその遺伝子を残そうとするのなら、メスたちが協力して侵入者を追い払うことだろう。
同じライオンだもの、遺伝子に優秀もくそもないのであり、ライオンの遺伝子ならなんでもいいのだ。おそらくそれが、ライオンの遺伝子がライオンに要請していることだろう。ドーキンスのいっていることは正しいと思うし、本格的な科学者の探求心はほんとにすごいなあとも思うのだが、「優秀な遺伝子」などという言葉は、なんだか知らないが耳障りが悪い。
セックスが遺伝子を残すいとなみであるということは、自然の摂理としてはきっとそうだろう。しかしその遺伝子が優秀でなければならない理由なんか、自然の摂理としては何もないのだ。
「おおもとの遺伝子の組成は起源から現在まで変わらないし、すべての生きものにおいてもみな同じなのだ。その最小の遺伝子に生きもの=生命であることの証拠がある」とドーキンスはいっている。だったら、「優秀な遺伝子」かどうかと吟味する必要なんか何もないだろう。そして自然界においては、「優秀な遺伝子」だから生き残るとはかぎらないのだ。シロクマはゴキブリよりも強くて優秀だが、シロクマのほうが生き残る能力があるわけでは絶対にない。もちろん,シロクマどうしゴキブリどうしのあいだでも同じこと。
論理的にというか科学的にいって、おおもとの遺伝子にとってその遺伝子プールが「優秀」でなけれなならない理由なんか何もないのだ。「優秀な遺伝子」だから生き延びるとはかぎらないし、おおもとの遺伝子にとっては、すべての遺伝子プールが等価なのではないだろうか。だから、多様な生物が存在しているのではないだろうか。
セックスが遺伝子を残すいとなみであるとしても、「優秀な遺伝子」を選択するいとなみであるのではない。
セックスアピールとは、「優秀さ」としての「強さ」でも「賢さ」でも、さらには「美しさ」でもない。それは、「思考停止に陥らせる気配」のこと。遺伝子は「利己的」だから、そのパッケージである生きものの体が滅んでゆくことと引き換えに生き残ってゆく。ここでいう「思考」とは「自己制御」のこと。われわれが「もう死んでもいい」という勢いで「思考停止」しながらわれを忘れて何かにときめいたり熱中したりしてゆくことは、その「おおもとの遺伝子」の要請なのだ、たぶん。