クジャクの羽と利己的な遺伝子の関係・ネアンデルタール人論256

僕は理科系のことに疎いから、リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』のちゃんとした感想文は書けないが、ただ、クジャクの羽の進化についてちょっと気になる記述があり、そのことから何か展開できないだろうかと思った。
あの豪華で派手な目玉模様の尾羽のこと。
ドーキンスだけではないが、多くの生物学者が、「メスはその模様に引き寄せられる」という。それはまあそうなのだが、「引き寄せられる」ということは、その模様を豪華で立派だと思っているわけでも、それがオスとして健康で優秀な遺伝子の持ち主であることの証拠だとわかっているということ意味するわけでもないだろう。
生きものの体内の遺伝子はたらきは「利己的」で、役立たずでできそこないの遺伝子はどんどん死滅させていってしまうそうだ。そうやって役に立つ遺伝子ばかりが生き残ってくることによって生きものは「進化」してきたわけで、それがダーウィンのいう「自然淘汰」のほんとうの意味だ、とドーキンスは語っている。
だから、優秀な遺伝子の持ち主に「引き寄せられる」ということだろうか。
しかしきっと、クジャクのメス自身は、本能的にも表面的な意識のはたらきにおいても、そんなことは何もわからないのだ。
それでもそのオスとの交雑を受け入れてしまう。それが問題だし、そんな「引き寄せられる」という言葉では説明がつかない。
そのときメスは、セックスをしたがっているわけではない。したがっているのなら、メスほうから寄ってゆくし、そうなればオスは何もわざわざ羽を広げる必要もない。人間じゃあるまいし、相手がいい男かどうかとか自分が生きてゆくのに役立つかどうかと吟味したりして、それではじめてセックスがしたくなるというようなことがあるものか。いいかえればそうやってデートがしたいとか結婚したいと思うことは、厳密な意味でのセックスの衝動ではない。たんなる人間社会の制度的な思考習性の問題だろう。

クジャクのオスが羽を広げることは、それだけ天敵から見つかりやすいことだし、天敵が近づいていることに気付いて羽を閉じて飛び立つまでに数秒の遅れが生じる。そんな危険を冒してまで、どうしてそんなことをしないといけないのか。それは、メスにその気がないからだろう。そしてメスは、その羽模様を見て、セックスがしたくなるのではない。「もうどうでもいい」と思考停止に陥るだけだ。それは、たくさんの大きな「目玉」に見つめられる体験であり、本能的に思考停止に陥り動けなくなってしまう。それだけのことではないだろうか。
メスにはセックスしたいという衝動がない。だから、オスの求愛行動がどんどん進化エスカレートしてきた。
人の世界においても、男のセックスアピールの根本は、女を「思考停止」に陥らせることであって、べつに男としての優秀さをひけらかすことにあるのではない。そんなことをされて女が引いてしまうのは、よくある話ではないか。
一夫多妻制のゴリラの世界では、オスとメスの体格差が大きい。オスの体の大きさは、メスを思考停止に陥らせる効果になっているのだろう。人間の社会でも、男の権力が強い社会では一夫多妻制になっている。
「性選択」などというが、メスはオスを選択なんかしない。生きものにそういう「意識」があるのではなく、あくまでも「自然淘汰」としての遺伝子のはたらきによって起きている、たんなる「結果」のことにすぎない。カマキリのメスは食べてしまいやすい力の弱いオスを選択するわけではないだろう。それはもう、ゴリラのようにオスが優位の関係においてもそうで、オス=男に寄ってこられてメス=女が思考停止に陥ったときがセックスをするときだ。
まあ、男を社会的な「意味」や「価値」の意識で「選択」した女ほど「マリッジブルー」に陥りやすい。そうやって彼女は、本能としての遺伝子のはたらきに裏切られる。彼女には、メスとしての「思考停止に陥る」という本能が欠落している。その「もう死んでもいい」という勢いが。

羽が立派なクジャクのオスは、天敵が近づいたときに羽を閉じて逃げる時間がそのぶん遅れるし、メスを思考停止に陥らせる成功率が高いから、閉じて逃げようとする判断も遅れがちになる。だから、羽が立派なオスが選択されてその遺伝子ばかりが残ってゆくとはかぎらない。羽が立派なオスから順番に天敵に食われてしまう。結果として、羽が貧弱なオスのほうが長生きする。貧弱なオスはメスに求愛行動をしないというわけではないし、メスの身体生理や気分のタイミングさえ合えば、そんなオスでもやらせてもらえる。そうやって貧弱ななものどうしみんなで羽が立派になっていったのだ。このことをドーキンスだって「共進化」といっている、
キリンの首が長くなっていったことだって、その進化の最初のころは木の葉を食ったり草を食ったりしていたのだろうが、首の長い個体は上を向いて木の葉ばかり食っているから、やっぱり天敵の接近に気づくのが遅れてしまう。それに、そのころはまだ木の葉の毒性を完全に解毒できる消化器官になっていないのだから、とうぜん寿命も短くなってしまう。キリンの首だって、首の短い個体どうしが、みんなでゆっくりと長くなっていったのだ。「もう死んでもいい」という勢いで首が長くなっていったのだ。それが生き延びるために有利だったからではない。
繁殖力が旺盛な種は、すべての個体に交配の機会が与えられている。その種が残ってゆくためにはたくさん繁殖した方がいい場合もあれば、その機会が抑えられていたほうがよい場合もある。肉食動物が増えすぎたら、食料となる草食動物がいなくなってしまう。まあ、結果としてちょうどいいところで進化してゆく。
ともあれ、すべての個体に繁殖の機会がなければ、個体数が増えてゆくことはない。人類が爆発的に個体数を増やしてきたのは、すべての個体に繁殖の機会があったからだろう。
では、すべての個体に繁殖の機会が与えられるためには、女もセックスの衝動を持てばいいのかといえば、そうはいかない。女にもそれがあれば、男のそれが発達する必要はない。そうしてけっきょく、おたがい相手を選び合って、選ばれたものどうししか繁殖の機会を持てないし、男の性衝動もあまり強くならないから、それほどたくさん繁殖しない。ペニスだってあまり固くならないから、いつもセックスができるというわけにいかなくなってゆく。
自然の摂理というか、ドーキンスのいう「自然淘汰」の問題において、男のペニスが硬く勃起するためには、女にセックスの衝動がない方がいいのだ。

西洋の夫婦は女のほうがセックスに積極的で、それでも離婚が多くなってしまうのは、それだけ男たちが「女房が相手ではもう勃起できない」という状態になってしまうことが多いのかもしれない。この国でもだんだんそうなりつつあるらしいが、そうなるともう、婚姻生活を続けるためには、趣味や知的レベルの共有によって会話が弾む(=価値観の一致?)とか、経済の安定が保証されているとか、そういう要素のほうが大事だったりする。そうやって、「少子化」の現実になっている。
女=メスにも性衝動があったら繁殖力が豊かになるとはいえない。極端にいえば、メスにも性衝動があったら繁殖できないのだ。だから自然は、メスには性衝動がないようになっている。メスはもう、「思考停止」して「やらせてあげてもいい」と思うだけなのだ。今どきは、女が「思考停止」しないから、「少子化」になってしまっている。男と女の関係も、おたがいに選択し合って、なんだかぎくしゃくしてきている。
「選択する」とは、「決着しない」ということ。それは、もっといいもの、さらにもっといいもの、と追いかけ続ける永久運動になってゆく。「選択する」ことには、「思考停止」という「決着」がない。「思考停止」しなければ「決着」はつかない。
根源的には、生物の世界に、メスによる「性選択」、などという現象はない。どんな生きものも、現実にはちゃんと「決着」してセックスしている。
おそらく自然としての遺伝子には、メスの性衝動などというものは組み込まれていない。そうでなければ繁殖は成り立たないのだ。
クジャクのメスは、オスの尾羽の模様に「引き寄せられる」のではない。「思考停止」しながら、「もう死んでもいい」という勢いで「やらせてあげてもいい」という状態になっているだけなのだ。そしてオスだって、「もう死んでもいい」という勢いで羽を広げているのであり、その勢いがなければ羽を広げることはできない。
カマキリのオスは、「もう死んでもいい」という勢いでメスと交尾してゆく。
生きものの命のはたらきには、「もう死んでもいい」という勢いが組み込まれている。その勢いがなければ、命のはたらきは活性化しない。おそらく、そういう遺伝子の仕組みになっている。
したがって、われわれの生きてあるこの状態が、どんなに天文学的な数字の確率の偶然の達成であれ、「幸運」だとはいえない。生きものは、それを「不幸」として「もう死んでもいい」という勢いを紡ぎながら生きている。
楽しいことだって、「もう死んでもいい」という勢いで体験されているのだ。
人類の「祭り」は、「もう死んでもいい」という勢いの「ときめき」が豊かに生成するフリーセックスの場として生まれてきた。
ただの生命賛歌では、進化の本質も人間性の自然も語れない。命のはたらきは、「もう死んでもいい」という勢いで活性化する。女は、「もう死んでもいい」という勢いでセックスをし、子を産み育てている。
おそらく数学的にも、オスにもメスにも等しく性衝動があるという問題設定でシュミレーションしても、それで爆発的な繁殖が起きてくるという答えにはならないのではないだろうか。女に性衝動があったら、男の性衝動は発達しないし、爆発的な繁殖も起きない。そこのところでは「共進化」というわけにはゆかない。「共進化」は、「もう死んでもいい」という勢いのところで起きている。
遺伝子のはたらきは、「自己保存」にあるのではない。自己を死なせて「自己複製」してゆくところにある。そして「自己複製」しながら親から子へと伝えられてゆく過程で、遺伝子の仕組みの一部分に必ずその個体特有の「まぎれ」が加わる。そうやって「進化」してゆく。べつに「突然変異」がなければ「進化」は起きないというわけではない。

まあ『利己的な遺伝子』という本の思想的色合いは一種の生命賛歌で、そこのところはちょっと気に入らないのだが、世界に対する新しい見方を提出した、という功績はたしかに大きいのだろう。そのことはなんとなくわかるし、魅力的な本だとも思う。
現在の世界はもう、「オタク」や専門家がものしりを気取って業界用語や専門用語をあれこれ振り回しながら自分を見せびらかしてゆくという時代は終わっているのだ。
ドーキンスは、遺伝子研究の新しい発見をしたわけではない。遺伝子について語りながら、世界や進化についての、誰も気づかなかった新しい見方を提出したのだ。
僕だって、人間に対する新しい見方を提出したくてこのネアンデルタール人論を書いているわけで、ただドーキンスとはちょっと違って、生命賛歌では生命は語れない、という思いがある。
ドーキンスのいう「利己的」とは、遺伝子群のはたらきは役立たずの遺伝子をどんどん死滅させながら「自己複製」してゆく、ということだろうか。
植物であれ動物であれ人間であれバクテリアのような微生物であれ、すべては30数億年前の地球で一個の生命(有機物?)が発生したところからはじまっており、現在のすべての生物はその気が遠くなるような長い「進化」の歴史の果てに存在している。そうやって30数億年のあいだ「自己複製」を繰り返しながら現在まで生命が引き継がれてきた。そのあいだには無数の生物が(役立たずの存在として)絶滅していったわけで、われわれが今ここに存在することはものすごい天文学的な数字の確率の「偶然」であり、その幸運に感謝しよろこんでも罰は当たらない、とドーキンスはいう。
だいたい、セックスして子供が生まれるということだって、何億分の一の精子が生き残って起きることだ。
まあ感謝しよろこぶのは人の勝手だが、そうやって偶然この世に生まれ出てきたことをとんでもなくありえない確率の「不幸」だと考えても、べつに間違いだともいえないだろう。科学的には、そういう「事実」があるだけで、「幸運」でも「不幸」でもないだろう。それを「幸運」としようと「不幸」としようと、人それぞれの勝手というもの。たとえ不幸であっても、われわれはこの世界の輝きにときめきながら生きてしまっている。それはきっとこの生命の根本である「自然淘汰」のはたらきによるのだろうが、そこに「意味」や「価値」を付与してゆくのは、科学の役割ではないだろう。そういう「事実」になっている、というだけのことだろう。
価値だからよろこぶというのではなく、とにかくそのとき、既成の命のはたらきでは対応しきれない状態に陥り、体じゅうの血や脳のはたらきが揺らいでいるのだろう。もしかしたらそれは、「役立たずの遺伝子」が死滅していっている状態かもしれない。もしかしたら、優秀な遺伝子が生き残ることよりも、役立たずの遺伝子の死滅してゆくはたらきのほうが重要であるのかもしれない。なにはともあれ、そうやって命のはたらきが活性化する。
ドーキンスは、遺伝子の「利己的」なはたらきを裏切るというか克服するかたちで人に「利他的」な心が生まれてくる、というようなことをいっているのだが、それはちょっと科学的におかしいのではないだろうか。その「利己的」なはたらきそのものが「利他的」なはたらきでもあるのではないだろうか。われわれが「本能」と呼んでいるものは、それがネガティブなはたらきであれポジティブであれ、すべてはそういう遺伝子のはたらきに由来しているのではないだろうか。生きものの「意識」のはたらきの根源は、遺伝子のはたらきに由来しているのではないだろうか。
カマキリのメスが交雑するときにオスの体を食べてしまうことは、メスの「意識」が「利己的」という以前に、カマキリの遺伝子の「自然淘汰」の仕組みがそうなっているというだけのことで、それはドーキンス自身がそういっている。
まあ、「利己的」とか「利他的」とかというようなことをいってもしょうがないのかもしれない。キリスト教文化圏の人はそういい方をしたがり、そういういい方が説得力を持つのかもしれないが、われわれのような無宗教文化圏というか雑多な宗教が混在している文化圏の人間には、いまいちピンとこないところがある。

役立たずの遺伝子を死滅させることは「利己的」か?
まあ擬人化していえば、役立たずの遺伝子がみずから滅んでいっているだけのことかもしれない。滅んでゆくことはけっして不幸なことではないし、交尾中のカマキリのオスは、メスに頭部を食われて滅んでゆくその「思考停止」の瞬間にこそ、もっともダイナミックに放精する。
もしかしたら役立たずの遺伝子が滅んでゆくことこそ、命のはたらきにもっとも重要な役割を担っているのかもしれない。そうやって「思考停止」しなければ、命のはたらきのダイナミズムは起きない。
ここでいう「思考停止」の「思考」とは、命のはたらきを制御するシステムのことであり、そうやって人は「思考=選択」しながら生き延びようとするし、「思考停止」して「もう死んでもいい」という勢いの命のはたらきの活性化が起きる。
人間には、みずから役立たずの存在になろうとする衝動がある。女は、女としての美しさを失ってでも子を産もうとする。ひとまずそれは社会的な美しさにすぎないのであるが、「もう死んでもいい」という勢いでこの生からもこの社会からもはぐれてゆかなければ、子を産むという「自己複製」はできない。
役立たずの遺伝子が滅んでゆかなければ、進化しない。役立たずの遺伝子が滅んでゆくことこそが進化を生み出している。それはきっと、人の心のはたらきの基礎にもなっているのだろう。
「致死遺伝子」というようなものがあって、年をとればそれが増えてくるらしい。ともあれ年をとれば、誰だって役立たずの存在として滅んでゆくしかないのだし、若くても、けっきょく命のはたらきはみずから滅んでゆくというかたちで活性化する。若者ほど「もう死んでもいい」という勢いを持っているし、男よりも女のほうが「もう死んでもいい」という勢いを豊かに持っている。
むやみに生命賛歌をすると、命のはたらきは停滞衰弱してしまう。そういう正義は、科学的ではない。ドーキンスは、生きものの命のはたらきを知ることはとてもおもしろい、といっているわけで、その「事実」だけでいいのではないだろうか。
生きてあることの不幸やかなしみを共有している社会が悪いともいえない。人の世は、だいたいそういうものではないだろうか。「社会=集団」の単位が小さくなればなるほど、生きてあることのいたたまれなさやかなしみの「嘆き」が共有されてゆく。「国家」とか「地球人類」とか、その集団意識が大きくなればなるほど、生命賛歌が共有されてゆく。
生きてあることのかなしみは、「この世界の片隅」で共有されている。
アメリカやイスラム社会の宗教原理主義の「神がこの世界や生命をデザインした」という世界観は、けっきょく「自己の充足」ばかり追求して、「今ここ」の現実の「世界の輝き」を見失っている。
幾何学模様のアラベスクに覆われたモスクの中にいると、じつにまったりと自己が充足してゆくらしい。「神がこの世界や生命をデザインした」ということにしておけば、じつにまったりと自己が充足してゆく。それはきっと命のはたらきが停滞衰弱している状態で、そうやって人は、自己の充足安定に執着耽溺しながら、自己の外の「世界の輝き」を見失ってゆく。
「世界の輝き」は、「自己=この生」のいたたまれなさやかなしみに浸された心のもとにあらわれる。誰の心も、じつはそうしたいたたまれなさやかなしみに浸されているのではないだろうか。この世の役立たずの存在として、役立たずの遺伝子が滅んでゆくことのいたたまれなさやかなしみとともに。