セックスアピールの遺伝子・ネアンデルタール人論258

承前

生きものの体や命のはたらきは、「遺伝子の存続に都合がいい」というかたちで進化してきた、とドーキンスはいう。『利己的な遺伝子』という本を読めば、それはまあ、「ああなるほど、そういうものだろうな」とうなずける。
われわれの体は「遺伝子が運転する遺伝子の乗り物」にすぎないのであり、われわれの「自分=自意識」が所有し支配しているものだと思うのはとんだ思い上がりにすぎない、ということだろうか。
誰の思考も行動も、けっきょくのところ「利己的な」遺伝子の支配下にあり、遺伝子の存続に奉仕させられているだけだ、とドーキンスはいっているようにも思える。
たしかに、まあそんなところかもしれない。
生きものの命のはたらきは生きるよう出来ている、といわれれば、「そうだろう、きっと」とうなずくしかない。
まったく、たしかにそうなのだろうが、しかし僕としては、どこかしらに腑に落ちないものが残る。
何が?と自問自答してもよくわからないのだが。
たとえば……
人間でもハツカネズミでもいいのだが、やや飢餓的な状態に置かれた三つの個体がいて、そこにひとつの食料があったとする。この食糧は二つの個体で分ければひとまず飢餓状態を脱するが、三つに分ければ三つともさらに飢餓状態が続く。そしたら、三つのうちの二つの個体は、一番弱い個体には食べさせないという行動に出る。どうせ一番弱い個体が最初に死ぬのだからそれがいちばん合理的だ、と二つの個体の中の遺伝子が判断し、そのような行動に出るように仕向ける。生きものの世界には、たとえ親子や仲間どうしでも騙したり蹴落としたりする行動に出る例はいくらでもある。それはもう遺伝子のはたらきがそのように「利己的」になっているのだからしょうがないのだ、とドーキンスはいう。そうやって進化の歴史がつくられてきた、と。
では、このとき食糧にありつけなかった一番弱い個体はそのまま死んでいったかというと、そうではなく、なんとか踏ん張って生き残ったとしよう。そうしてさらに飢餓状態が進んでいったとき、飢餓状態に対する耐性を養った一番弱い個体が生き残って、あとの二つは耐えられずに死んでゆく、ということが起きたりする。
生きものの命は「もう死んでもいい」という勢いのはたらきを持っているから、飢えたからといっても発狂しないし、飢えに対する耐性は進化する必然を持っている。
で、この地球の環境世界は、いちばん生きられそうもない一番弱い個体を生き残らせた。
自然淘汰」といっても、生きられそうもない弱い個体をどんどんふるい落としながら起きてきたというわけでもあるまい。
キリンの首が長くなってゆく進化のはじめにおいては、首の短い個体のほうが多く生き残っていった。これはもう、本格的な科学者が数学的なシュミレーションをすると、どうしてもそういう答えになるらしい。首の短い個体どうしがみんなでゆっくりと長くなっていったのだ。それは、安全な地上の草を食べることをやめて、毒性のある木の葉ばかりを食べるようになってゆく歴史だった。「もう死んでもいい」という勢いで木の葉を食べながら、その毒性を解毒できる消化器官になっていった。「もう死んでもいい」という勢いがそうさせた。
「もう死んでもいい」という勢いは、必然的に生きられそうもない弱い個体のほうがより豊かにそなえいる。
まあ、これらのことだって「遺伝子の利己性」という理論で説明がつくことかもしれないが、ドーキンスのいうことだってどこかにほころびがあるのかもしれない、という気がしないでもない。
遺伝子のはたらきがそうなっているからといって、そうかんたんに生命賛歌をしてしまっていいのか、という疑問はどうしても残る。

ネズミの群れがさかんに繁殖して限度を超えて過密状態になってくると、自然に繁殖力が低下してゆくらしい。
これをドーキンスは、将来の飢餓状態にそなえてネズミ自身が調節しているのだ、という。いや、ネズミにそんな先のことがわかるというのではなく、長い進化の歴史を潜り抜けてきた遺伝子にそういうはたらきがあるのだ、といっているのだろう。
たとえ比喩だとはいえ、それでも「みずから調節する」などというのは、ちょっと言い過ぎではないのか。
そんなことは、べつに遺伝子のはたらきで説明しなくても、つまり遺伝子のはたらきなんかそっちのけでそうなってしまうということもありうるのではないだろうか。
群れの過密状態に対するストレスで自然にそうなるという説もあるわけだが、ドーキンスはこれをあっさりスルーしている。しかし僕は、この説のほうに説得力を感じる。
まあ、人間社会の都市と農村の比較においてもそうだが、過密状態の都市では、人に対して「すれて」くる。男と女の関係も「すれて」くる。女が男に対してすれてきて、かんたんにはときめかなくなり、「やらせてあげてもいい」という「思考停止」の状態になりにくくなる。
過密状態のネズミの群れでも、こういうオスとメスの関係の変化が起きているのではないだろうか。それに子宮のはたらきも衰え、いつもは5匹産んでいるのが3匹になるとか、オスだって精液の中の精子の数が減って受胎させにくくなるということも起きてくる。過密状態のストレスが、そうさせる。
現在の若者の精液の中の精子の数が減ってきているということは、ずいぶん前から言われてきたことで、今や日本中が「都市化」してきていることが原因のひとつになっているのかもしれない。「都市化」して、誰もが人に対して「すれて」しまっている。
ときめきが薄くなることは、命のはたらきが弱くなるということでもある。
遺伝子のはたらきにによって自然に産児調節が起きる、といわれてもねえ。いまいちピンとこない。
そんなことをいったら、人間社会のアフリカでは飢餓地帯になるのがわかりきっているのにどんどん子供が生まれてにっちもさっちもいかなくなる、という状況が起きているではないか。生き延びようとする遺伝子に操られているのなら、セックスなんかしなくなるはずではないか。
生きものは、根源的には飢餓を怖れていない。先のことを怖れていない、と言い換えてもよい。「今ここ」しかない。「今ここ」に「反応」しながら、「結果」として生き残ってゆく。そのようなかたちで「進化」してきた。飢餓に遭遇すれば、飢餓を生きるように進化してゆく。命は「もう死んでもいい」というかたちではたらいているから、飢餓を生きることができるようになってゆくし、生殖しなくなるようにもなる。メスの命はそれ自体で完結しているから、セックスの衝動がないし、「もう死んでもいい」というかたちで「やらせてあげる」こともできる。
そのネズミの群れの危機は、現在の過密状態にあるのであって、未来の飢餓状態にあるのではない。飢餓なんかやってこないかもしれないし、飢餓に耐えられるように進化してゆきもする。過密状態であることそれ自体が危機であるし、「もう死んでもいい」というかたちで命のはたらきが起きる存在である生きものは、危機それ自体を生きようともする。だから、バッタのようなとんでもない規模の大群が発生したり、アフリカの飢餓地帯でなおも人口増加が続いたりする。
人類は、二本の足で立ち上がるという危機それ自体を生きながら、一年中発情している猿になっていった。だから、過密状態の飢餓に陥っても、なおも生殖する。貧乏人は「子だくさん」になる。そして、たくさん産んで弱い個体を振るい落としてきたかといえば、そうでもなく、弱い個体が生き残って進化してきたともいえる。弱い個体だからこそ、進化の可能性がある。弱い個体のほうが、「もう死んでもいい」という勢いを豊かに持っている。それは、遺伝子のはたらきに逆らうことではない。遺伝子だって、みずから滅んでゆく。ドーキンスによれば、それによって他者の体に棲みついた同じ遺伝子が生き延びることになるからだということだが、とにかく遺伝子には「みずから滅んでゆく」というはたらきも持っているということだろう。「みずから滅んでゆく」というはたらきを持たなければ「進化」は起きない。

科学オンチの僕には、この『利己的な遺伝子』という本の客観的な評価はできない。
まあ、西洋人の科学的な思考というのはすごいものだ、と感心させられる。これでもかこれでもかと理詰めで迫ってくる。そういう意味で、この本はマルクスの『資本論』に匹敵するのかもしれない、と思ったりする。
たぶん、ここに書かれてあることは、すべてといっていいくらい正しい。
しかし小林秀雄に倣っていえば、「たしかに正しい、しかし正しいというだけのことだ」という感想もぬぐいきれない。
生きもののの生は、「生き延びようとする」はたらきだとは思わない。「もう死んでもいい」という勢いの上に成り立ったはたらきだと思う。「もう死んでもいい」という勢いを持たなければ生き延びられないし、進化は起きてこない。生き延びることや進化は、そういう逆説だと思う。
この生の根源に、「生き延びようとする意志」がはたらいているとは思わない。生き延びようとするのはあくまで「観念」のはたらきであって、遺伝子のレベルまで遡行した無意識のはたらきにおいては、「もう死んでもいい」という勢いのベクトルになっているのではないだろうか。

たとえばドーキンスは、「鳥の世界の求愛行動が執拗なのは、それによって鳥の遺伝子がもっとも効率よく生き延びる(=子孫に手渡されてゆく)ことができる関係のかたちになっているからだ」という。そうやってメスはオスを戦略的にじらせている、ということを理詰めで鮮やかに説明してくれている。それは、きっと正しい。なるほど進化論的にはそういうかたちになっているのだろうな、と思う。
ドーキンスは、生きものが生き延びて進化してゆく「数学的経済的な仕組み」を教えてくれる。それは、きっと正しい。しかしそれが生きものの本能的な衝動かといえば、どうしても腑に落ちないものが残る。
おそらくそのとき鳥自身はべつに遺伝子を効率よく子孫に伝えていこうという意識なんかないだろうし、メスは結果的にオスをじらせていることになるが、じらせようと思っているわけでもないだろう。
ようするにメスにはセックスの衝動がない。そう考えたら、間違っているのか?セックスの衝動がないということは、繁殖の意志がないということだ。それでもいつか「思考停止」して「やらせてあげてもいい」という気になる。「思考停止」するのは、遺伝子のはたらきが何はともあれ「滅んでしまってもかまわない」というかたちになっているからではないのか。
現在の地球上にどれだけたくさんの種が存在するとしても、30数億年のこれまでの生命の歴史においては、その何万何十万何千万倍の種が滅んでいったのだろうし、生きものが必ず死ぬというということは、遺伝子のはたらきそのものに「死ぬ」という仕組みがあるからではないのか。おおもとの遺伝子は30数億年前と同じかたちになっているといっても、そのつど死んで自己複製してきただけであって、30数億年前の遺伝子がそのまま残っているわけでもないだろう。地球という環境世界においてはその遺伝子でなければ生命(生物)というかたちにならない、ということはあるだろうが、生命(生物)になるということは「死ぬ」ということではないのか。
ウミガメの子は、卵からかえって海に出たとたんに99パーセントがほかの生きものに食べられてしまう。生きものの命のはたらきは「もう死んでもいい」という勢いを持っているから、そういう現象が起きるのではないのか。
「遺伝子のはたらきは生き延びるためのはたらきである」といわれても、われわれの希望にはならない。それは、生き延びてきたのではなく、そのつど死んで「自己複製」してきただけではないのか。
ドーキンスの進化論「数学」においても、「生き延びるためには何でもする」という流儀の個体はすべて淘汰されてきて、けっきょくは「こうしか生きられない」というかたちで進化してきたということになっている。

大声を上げたり派手に羽を広げたりする鳥の求愛行動は、天敵に見つかって食われてしまうことを覚悟しなければできることではない。それでもオスは、必死にがんばる。鳥のメスは、なかなか「やらせてあげてもいい」という気にならない。ドーキンスはそれを「メスだっていいオスを見つけて繁殖したいのだけれど、あとになってオスが逃げてゆかないようにそういうかたちで担保を取っている。つまり、オスを子育てに参加させるための戦略である」という。それはまあ結果的にはそういうことで、そういう「比喩」は成り立つのだろうが、あくまで「たまたまのなりゆき」としての「結果」であって、自然環境によってそういう生態が淘汰選別されてきたともいえるはずだ。「遺伝子の意志である」といわれると、どうも違和感が残る。その論理で鳥が鳥であることの本質が語れるのか?僕は、そこが問いたいのだ。おそらくその行為は、オスもメスも「もう死んでもいい」という勢いで「思考停止」してゆかなければ成り立たないし、それ自体遺伝子のはたらきによるのではないのか。「思考停止」して戦略も意志も捨てたからそういう生態が生まれてきたのではないのか。
鳥は、哺乳類のように長くメスの体内で子育てする(=妊娠)ということはない。受精してすぐに卵を産み、メスの体の外で子育てをはじめる。だから、巣作りとか、卵を温めるとか、餌を運んでくるとか、オスがその行為に参加することができるし、参加してもらわないと困る。
哺乳類は、基本的にメスの世話だけで子育てができるようになっている。
だから鳥の場合は、セックスの衝動がより薄いメスが淘汰されて生き残ってきた。自然環境がメスをそのように進化させてきた。「遺伝子の意志だ」といわれても困る。遺伝子のプールとしての「細胞」は、役立たずの遺伝子がどんどん自滅してゆきながら整理統合されてゆくのだから、「べつに死んでしまってもかまわない」というはたらきを持っていないと成り立たない。

生き延びるためには何でもするというのではなく、「こうしか生きられない」というかたちで存在することは、「もう死んでもいい」というかたちで生きることだ。そしてそこから命のはたらきが活性化してゆく。
鳥にだって「こうしか生きられない」という事情がある。生きものが「生き延びるためにはなんでもする」という流儀で生きているのなら、「生物多様性」なんか成り立たない。今ごろは、もっとも生きることが上手なひとつの種に整理統合されている。動物であれ植物であれ、どんな生きものも「こうしか生きられない」というそれぞれの事情を抱えて存在している。
生きものなんか、みんな生きることが下手なのだ。その与件の上に立って命をやりくりしながら生きている。
この地球の環境世界が生きものを生きさせている。生きものが生きることは環境世界に「反応」することであり、それは生き延びようとするはたらきではなく、むしろ「もう死んでもいい」という勢いで起きている。そうやって命のはたらきが活性化する。
「もう死んでもいい」という勢いを持たなければ、命のはたらきは活性化しない。生きることはエネルギーを消費することであり、「もう死んでもいい」という勢いがなければ消費されない。
がんばれば、疲れ果てるに決まっている。それでもわれわれ生きものはがんばって生きてしまう。
生きものは、「もう死んでもいい」という勢いで環境世界に「反応」してゆく。「反応」することはこの生のエネルギーを消費して死に向かうことであり、それでも「反応」してしまう。
実際問題として、生き延びる戦略に長けたものほど命のはたらきが豊かだとも魅力的な存在だともいえない。生き延びる戦略を持つことは正しい。しかし正しいというだけのことだ。
はたして命のはたらきは、「生き延びるための戦略」という問題設定だけで説明がつくのか。たしかに生き延びることができるものが生き残ってゆくのだが、「もう死んでもいい」という勢いを持たなければ命のはたらきは活性化しない。われわれ生きものの命は、生きるか死ぬかのぎりぎりのところではたらいている。「生き延びるための戦略」を持たねばならないと同時に、持ってはならない。

鳥のメスはセックスをする気がない。それでも最後には「もう死んでもいい」という勢いで「思考停止」して、「やらせてあげてもいい」という態度になってゆく。鳥のセックスは一瞬で終わる、などとよくいわれるが、それは、やる気がないものにやらせてもらうのだから、あまり長くやるのはメスに対して失礼というものだからかもしれない。
われわれ人間が娼婦を買うときだって同じことで、初見からいきなり長く挿入し続けるのは相手に対して失礼というもの、すぐに射精してしまっても、相手はありがたいお客だとほっとすることはあっても、バカになんかしない。セックスを楽しみたかったら、長く通ってねんごろになってからすればよい。それが、フーゾク通いのエチケットというか、たしなみというもの。
オスに執拗な求愛ディスプレイをさせる鳥のメスの態度を、ドーキンスは「生き延びるための恥じらい戦略」だという。それはまあ結果的にそうに違いなく、その論理は正しいのだろうが、正しいというだけのことで、その「比喩」がはたして命のはたらきの本質を表現しえているだろうか。それでは、クジャクのオスの羽模様が豪華で派手になっていったことの説明はつかない。メスにそんな「戦略」があるのなら、オスの羽模様なんかに関係なくただもう長く続けさせればいいだけだし、羽模様が貧弱なオスほど求愛行動が成功するということになる。
その羽模様は、メスを「思考停止」に陥らせる。命のはたらきは、生き延びることなんか忘れて、すなわち「思考停止」しながら世界に「反応」してゆくことによって活性化する。
ドーキンスは、「進化は、遺伝子が生き延びる戦略をひたすら緻密に思考してゆくことによって起きる」という「比喩」で語っている。それは論理としては正しいが、正しいというだけのことだ。
それでもここでは、こういいたい。生きものの命のはたらきは、「もう死んでもいい」という勢いで「思考停止」しながら「愚かで弱いもの」になってゆくことによって活性化する、と。
ドーキンスの説明なら、遺伝子のはたらきは生きものを生きることが上手な賢いものにしてくれるということになり、それは数学的科学的に正しい論理だろうが、正しいというだけのことだ。それでもわれわれは、生きることが下手な「愚かで弱いもの」として「こうしか生きられない」というかたちで生きている。そういうかたちでしか命のはたらきは活性化しない、という与件を背負って生きている。おそらく数学的科学的にも、それが現実の命のはたらきではないだろうか。
思考停止しながら「自分=生き延びる」ことなど忘れて世界の輝きに他愛なくときめてゆくことによって命のはたらきが活性化する。
「自分=生き延びる」ことに執着ばかりしていたら、「ときめく」という命のはたらきはどんどん停滞衰弱してゆく。

僕は、「セックスアピール」とはなんだろう、とずっと考えてきた。いろいろ考えてみたが、どうしても「これだ」という解釈にはたどり着けなかった。でも、「思考停止に陥らせる」ということはかなり納得できるし、今のところこれ以上の答えは浮かんでこない。
われわれ愚かな弱いものたちは、「思考停止」という言葉をもっと大切に扱わないといけない、とあらためて思う。それは、命のはたらきにおいて、とても大切なことなのだ。
「思考停止に陥る」とは、「自分=生き延びること」を忘れて「世界の輝き」に他愛なくときめいてゆくこと。命のはたらきが活性化する仕組みは、科学的にも数学的にも、じつはそのようになっているのかもしれない。
原初の生命が二つに分裂したことは、「自己保存」を維持することの失敗であり、「もう死んでもいい」という勢いの現象だった、といえなくもないに違いない。傷が癒えて、新しい皮膚が生まれてくる。いったん死ななければ、新しく生まれてくるということは起きない。死んでゆくはたらきのない生命なんかない。「思考停止に陥る」とは「死んでゆく」ということ。命のはたらきは、そこから活性化してくる。
まあ、生きていれば、余分なものがどんどんたまってくる。それらをたえず捨てながらというか、洗い流しながらわれわれは生きている。生きることは足し算ではなく、引き算なのだ。長く生きてきたからえらいというものではない。生きてあることの基本のかたちは誰しも同じで、生きることが上手になってゆく足し算なら人によって差が生まれてくるだろうが、引き算なのだから、いつまでたっても差がつかない。つまり、生きることの基本のかたちを保ちながらいつまでたっても生きることに慣れない人は、いつまでたっても驚きときめくことができる。
遺伝子のはたらきは、べつに生きることが上手になるためのはたらきでもなかろう。そうやって生きることに慣れてしまったらおしまいなのだ。そこから命のはたらきの停滞衰弱がはじまる。
生き延びるための戦略なんか知らない。われわれはもう、生きてあることの不思議となやましさといたたまれなさに身もだえしながら、出たとこ勝負で生きてゆくしかない。