進化論という無神論・神道と天皇(1)

はじめに

ネアンデルタール人論はしばらく中断することにしました。
今、リチャード・ドーキンスの『神は妄想である』という本を読んでいます。これが、とても面白く刺激的です。で、僕もそういうことが書きたくなりました。読んでいる途中だからこの本の感想文を書くつもりもないけど、宗教に対するアプローチが、ヨーロッパ人でしかも科学者であるあの人のようにはいかない文科系の日本人としてはちょっと引っかかるところがあって、ひとまず文科系のアプローチというか、日本列島の歴史としてこの問題を考えてみたくなったというわけです。
ヨーロッパはキリスト教が深く定着している地域だから、彼らは「神は存在するか否か」という議論を当然のことのようにしてきた。ドーキンスは「それは科学の問題である」と言い切る。この無限の宇宙のことを知ろうとしたら、とうぜんそういう問題にぶつかる。無限の彼方のそのまた彼方のそのまたまた彼方に神がいるのか。そしてキリスト教の神は人間を創造し人間を裁いたりしてくる「人格神」でもあり、このことは「進化論」の科学と決定的に対立している。欧米の宗教者は、人間は猿から進化したという「進化論」をけっして認めない。しかし科学者は、すべての生きものの歴史は一個の極小の遺伝子(あるいは有機物質)だったところから始まっているのであって、べつに神がつくったわけではない、という。
まあ、宇宙であれ生きものであれ、おおもとのそういう「起源」のところに「神のはからい」があったのだという宗教者もいるわけだが、そんなことをいっても聖書には神が人間や猿や犬や虫や魚や木や草をつくったと書いてあるし、今でもそのことをかたく信じきっている民衆がたくさんいて、信じ込ませようとしている宗教者がいる。欧米では、ほとんどの科学者が無神論者であるにもかかわらず、民衆のあいだにはそういう「迷妄」が今なお強くはびこっているという状況になっているらしい。そうやって科学者と神学者が、「神は存在するか否か」という問題を議論し続けている。
科学者が宗教に転ぶのは思考停止だし、宗教者が「進化論は間違っている」などと科学の問題に口を挟むのは越権行為だ、とドーキンスはいう。
しかしこの国では、そういう議論で盛り上がるということはほとんどない。もともと神なんか知らない民族だし、神なんかすべて受け入れるし、神なんかそのときその場に合わせた「衣装」みたいなものだというお気軽な感覚で歴史を歩んできた。
まあ信じようと信じまいとそれはただの「概念」であり、神が存在するという証拠などないのだ。人類はあるときからそういうものの存在を信じるようになってしまった、という歴史の事実があるだけで、誰でもその存在を信じることができるという証拠などない。今どきの伊勢白山道とか江原なんとかとか、この国にもその存在を人々に信じ込ませることができる扇動者はうようよいるが、その証拠を取り出して見せたものなど世界中にひとりもいない。
地球は丸いという証拠ならいくらでもあるが、神が存在するという科学的な証拠などひとつも存在しない。神を信じたくなる人の心があるだけだし、信じたほうが「生きられなさ」から逃れて「自分」を支えることができる。無神論者になったら、「生きられなさ」を生きなければならない。べつに科学者になるつもりもないのだし、科学的な「問い=生きられなさ」などないほうが気が楽だ。すべて「神のはからい」ということにしておけば、それで何もかも裁くことができる。それで、自意識は満足できる。


神は存在しない、と示せる証拠もないが、存在しないという「蓋然性(確率)」を数値として導き出すことは可能だし、それは科学の仕事だ、とドーキンスはいっている。
それはまあそうだろうし、ひとまず僕も無神論者なのだけれど、次に引用するような言い方をされると、「ちょっと待ってくれよ」といいたくもなる。


「宗教は極めて浪費的なもので、非常な無駄遣いである。そしてダーウィン流の淘汰はふつう、浪費を狙い撃ちにして、消滅させる。自然はしみったれた会計係で、一銭でも出し惜しみ、時間ばかり気にし、ほんのわずかな浪費にも罰を与える。(…中略…)自然には、勝手気ままな洒落遊びを許す余裕などない。たとえつねにそのように見えないにしても、非情な功利主義が勝利を収めるのだ。」

宗教の歴史においては、はたくさんの人が殉死していったし、たくさんの敵を残虐に殺してもきた。そういう意味において「浪費的」なものかもしれないが、それは自分たちの教義やアイデンティティ(=自意識)を守ろうとするもので、宗教こそきわめて「しみったれた会計係」である」といえなくもないだろう。
僕は、「自然淘汰=進化」は、「勝手気ままな洒落遊び」で起きてきたものだと思っている。
キリンの先祖が草を食むことをやめて頭上の木の葉を食おうとしたのは、「勝手気ままな洒落遊び」だったはずだ。木の葉には毒性があるし、上を向いてばかりいたら天敵の接近にも気づかない。だから最初は、木の葉ばかり食いたがる首の長い個体から順番に死んでいったのだが、やがて全体でゆっくりと首が長くなってゆき、木の葉ばかり食うようになっていった。最初の木の葉ばかり食いたがった首の長い個体は、進化の歴史のいわば「殉死者」だったのかもしれない。
進化は、気ままでおっちょこちょいの洒落遊びから起きてくる。地球上の生きものが現在のようなかたちになってくるまでには無数の試行錯誤があり、その過程で無数の滅びていった種や個体がある。生きものはおっちょこちょいの洒落遊びをしてしまうから、現在のような多様な種に分岐してきたのだろう。べつに遺伝子という「しみったれた会計係」が、「その中のひとつでも生き残ればいい」という計算で多様な種をつくろうとデザインしたわけでもないだろう。それだったら「遺伝子は神か?」ということになってしまう。
クジャクの羽模様があんなにも派手なのは繁殖して遺伝子を残すのに有利だからだ、とドーキンスはいうが、それだって最初は、羽模様が他のオス以上に派手で見せびらかしたがるおっちょこちょいの個体から順番に天敵から食われていったはずで、そういう「無駄=殉死」を潜り抜けながらみんなでゆっくりと派手になっていったのだろう。今やクジャクのオスの羽模様にそれほど大きな個体差などないはずで、どのオスにもチャンスはあるはずだ。いつどこでメスがその気になるか、という問題があるだけだろう。べつに群れをつくって共演し、その中のとびきり派手な模様の持ち主が選択されるというわけでもなかろう。そんな生態なら、派手になってゆくことなんかできない。
羽模様が派手ではないクジャクのオスというのがいるのか?
クジャクのメスは、人間の女みたいにあれこれオスの羽模様を見比べているのか?
おそらく「進化=自然淘汰」は「勝手気ままな洒落遊び」であり、創造主としての神は「しみったれた会計係」なのだ。宗教の不自然さは、そこにこそある。


キリスト教神学者がアダムとイヴの話にこだわって「進化論」を認めようとしないのは、それだけ宗教がかたくなで「しみったれた会計係」だということを意味するのではないだろうか。だから彼らは、生まれ変わろうとしたり、天国まで生き延びようとしたりする。
僕は文科系の人間だから、ドーキンスの理論が間違っているということなどいえない。『利己的な遺伝子』や『神は妄想である』という本はとても興味深い読み物だし、それでもしかし「進化」や「宗教」に対する彼の考え方というか言い回しには、どうしても違和感が残ってしまう。
日本列島と西洋の宗教的土壌の違い、ということもある。
ドーキンスによれば、宗教は生き延びることに有効ではないということだろうが、僕はそうは思わない。なにしろ、天国まで生き延びることができるし、何度でも生まれ変わることができる装置なのだ。霊魂は、けっして死なない。永遠不滅であるらしい。
しかし生きることの自然は、生き延びようとすることではなく、この生を超えてこの生から消えてゆこうとすることで、生きものはそうやって生きて死んでゆくのだと僕は考えている。
キリンは、「もう死んでもいい」という勢いで木の葉を食うようになっていったのだ。生きものの進化には、そういう「無駄死に」が無数に堆積している。すべての生きものは、滅んでゆくことと背中合わせで生き残ってきた。そういうことを「天の配剤」といったりするが、それはもうただの偶然のなりゆきで、滅んでしまってもかまわなかったのだ。神が生き残るように按配してくれたわけではもちろんないし、「しみったれた会計係」としての遺伝子がそのように計算したわけでもない。

ドーキンスは、「現在の生物のすべての種は、長い<自然淘汰>の蓄積の歴史の結果として環境に<最適化>して存在している」という。「自然(淘汰)はしみったれた会計係である」という彼の文脈ではとうぜんそういうことになるのだろうが、こういう言い方をされると僕は、すごく癇に障る。
どこが「最適化」しているのか?すべての生物は、存続と滅亡のはざまで四苦八苦しながら生きているだけではないか。この世界に「最適化」して存在している生きものなどひとつもない。
今ここで山火事が起きれば、木も草もシカもネズミもリスも、みんな死んでしまうのだ。生きものは、環境に適応しているのではない、環境に対する「異物」なのだ。
まあ、人類が二本の足で立ち上がったのも意識のはたらきを発達させたのも、ひとつの「受難」だったのであり、そのためにつねに滅亡の危機に置かれてきたのだ。とっくに滅んでしまっていても、なんの不思議でもない。生き残ってきた必然性など、何もない。たまたま生き残ってきただけだ。それは、神のはからいでも、遺伝子という「しみったれた会計係」の計算だったのでもない。
命のはたらきは、生きるためのはたらきであると同時に、死んでゆくためのはたらきでもある。純粋に生物学的な問題としてそうではないかと、僕は思う。
われわれが二本の足で立っていることの不具合は、骨や筋肉から内臓のはたらきにいたるまで、いくらでも挙げることができる。そのために死んでゆかねばならない人もたくさんいる。意識の発達のせいで、心を病んだり発狂してしまったりする危機を誰もが抱え込んでしまっている。人の心なんか、誰だってどこかしら病んでいる。
人類滅亡は、明日かも知れない。滅亡したって、不思議でもなんでもない。「もう死んでもいい」という勢いで命をはたらかせて生きているのだもの。
われわれは、神がデザインした通りの存在ではない。
「最適化」などというようなことをいうから、神学者につけいられるのだ。
進化なんか、ただのおっちょこちょいの気まぐれなのだから、いつ滅んでしまってもしょうがないのだ。神がいたら、進化なんか起きないし、神は進化を許さない。

「自然は神だ」といわれれば、人は「なるほどそうかもしれない」と思う。この国の神道は、ひとまずそうやって生まれてきた。
人間は自然ではない。自然と向き合っている存在なのだ。したがって自然=神が人間をつくったのではない。神は神をつくるだけで、人間なんかつくらない。これが、古事記によって語られている神道というか神の物語だ。
生きものは、この世界の「異物」として存在している。「個体」であるということは「異物」であるということだ。人間以外の生きものだって、「個体」であるということにおいては、自然の一部ではない。自然と向き合っている自然の外の存在なのだ。
古事記という神の物語を生み出した古代の日本列島の住民は、けんめいにこの生の外の存在を模索していった。だから人間離れした神ばかり登場してくる。そうして、神がだんだん人間になってきた、というストーリーになっている。日本列島においては、神は人間ではないと同時に、人間でもある。神は、人間をつくらないが、人間になった。
それに対して西洋の場合は「神が人間をつくった」ということになっている。人間は自然の一部で、人間も神がつくった。インテリジェントデザインというのだろうか、西洋の神は万物の創造主で、そうなると科学者の仕事なんかなんの意味もなくなってしまうし、神学者が科学のことに口を出してくることにもなる。そうやって彼らは、「神は存在するか否かと」と飽きもせず議論し続けている。そうして、どちらがこの生の真実に届いているかという議論になり、どちらが生きることに有効かということにもなってゆく。
ガリレオが地動説を唱えて処刑されたなんて、日本人からしたら信じられないことだ。この国の宗教者は、そこまで口出しはしない。浄土真宗が「死んだら極楽浄土に行けるということなんか考えるな。そんなことはすべて、世界の中心である阿弥陀如来にお任せせよ」と説いたように、世界の構造や外縁を無理に知ろうとしない、「今ここ」の世界の「中心」が定まればそれでよい、という流儀で歴史を歩んできた。
まあ四方を海に囲まれた土地柄だから、この世界もこの生も「外縁」など知りようがないし、どうでもいいのだ。
日本列島の「無常感」においては、世界の外縁すなわち死んだら天国や極楽浄土に行くということどころか、生き延びることそれ自体がどうでもいいのであり、「今ここ」においてこの世界が輝いて見えればそれでいいのだ。そうやって古事記を語り合った古代の奈良盆地の民衆は、ひとまず自然が輝いていることの根拠として「自然は神だ」ということにしていった。
そういう意味において、この国の神道は宗教だとはいえないのかもしれない。
この国の歴史においては、生きることははかなくどうでもいいことで、生き延びるためには何が有効かという議論など存在しない。そういう「しみったれた会計係」など存在しない。
生き延びることなどどうでもいい、誰の生存だろうと無駄な生存であり、誰の死もただの無駄死になのだ。「それでも世界は輝いている」というだけのこと。これは、文科系の発想だろうか。日本的な発想だろうか。
まあ、日本列島の伝統ということだけでなく、ネアンデルタール人以来の人類の伝統として、この国の神道天皇制の問題を考えてみたいわけです。