原始宗教(アニミズム)なんかなかった・神道と天皇(2)

先史時代の日本列島の住民は「神」というものを知らなかった。
まず、このことからはじめないといけない。
それは、仏教という大陸文化の伝来とともにはじめて知ったにすぎない。
縄文時代弥生時代には、「神」はおろか、原始宗教(アニミズム)というようなものすら存在しなかった。
ただ「祭り」があっただけだ。どこからともなく一か所に人が集まってきて、歌ったり踊ったり、さらにはフリーセックスの賑わいになってゆく。そんな生態を人類は、100万年も200万年も前から持っていたのであり、その生態とともに地球の隅々まで拡散していったのだ。そうやって氷河期の北ヨーロッパネアンデルタール人が登場してきた。「祭りの賑わい」が人類拡散をもたらした。
ネアンデルタール人が大勢で狩りをしていたことだって、ひとつの祭りだった。
洞窟で焚き火を囲みながら、みんなで語り合ったり、歌ったり踊ったり……そんな生態なしにネアンデルタール人の暮らしは成り立たなかったし、そのことにアニミズムを結び付けねばならない理由なんかない。
人が寄り集まって暮らしていれば、たとえ原始人だろうと寄り集まっていることの賑わい=娯楽は生まれてくるし、それがなければ寄り集まっている暮らしは成り立たない。
人類は、はじめに「祭り」を生み出した。その賑わいとともに集団の数が猿のレベルを超えていった。

人類の歌や踊りがいつごろから始まったのかは知らないが、少なくとも宗教の歴史よりはずっと古いはずだ。祭りの賑わい、すなわち人が集まって歌ったり踊ったりすることに、必ずしも宗教が必要なわけではない。それは、人と人の出会いのときめきの表現であって、集団のアイデンティティを確認するというようなことは、他の集団と戦争をしたりするようになってきてからのことだ。
宗教は、集団のアイデンティティを確認するためのよりどころとして生まれてきた。
人はわりとかんたんにデマゴーグを信じてしまう。集団催眠というのか集団幻想というのか、ひとりなって考えればかんたんに嘘だと思えるようなことでも、集団の中にいると信じてしまう。時代に踊らされてしまう。集団幻想としてお化けを信じ、集団幻想として戦争に突入してゆく。
神が存在するなんて、ひとりになって考えれば信じられるはずもないのだけれど、集団の圧力がかかるとだんだん信じられてくる。
集団の圧力がかかると、「個体」としての意識が薄れて、集団の輪郭に自己の存在の輪郭を重ね合わせてゆくようになる。つまりそのとき、「個体」として世界と向き合っているのではなく、集団として世界と向き合っている。集団がそのデマゴーグを信じていれば、自分も疑いなく信じてゆく。
「神が自分を支配している」と思うとき、「個体」としての存在の輪郭を失って、神と自分との関係が自分の存在の輪郭になっている。
自閉症的」であるとは、自分の存在の輪郭が膨張してしまって、「個体」であることができないことの不安と、自分の存在が膨張していることの全能感とのあいだを揺れ動いている状態にほかならない。そうして、その「不安」を覆い隠すために、「全能感」に浸りきろうとする。そうやって全能の神に支配されつつ、全能の神との一体感に浸っている。そうやって、自分はナポレオンの生まれ変わりだとか神だとかと言い出す。
つまり氷河期明けの人類の歴史は、猿=自然としての限度を超えた集団の膨張による集団の圧力とともに「個体」としての輪郭を失ってゆき、神との関係の「一体感=全能感」を持つようになっていった。
「神は存在しない」といっても、人類はすでに「神という概念」を持ってしまった。有神論者たちにしてみれば、神が存在することは「科学的な真理」ではなく、あくまで「信じる」ということの上に成り立っている真理であり、科学者がどんなにその「非存在」を説いても、「信じる」ということを手放すつもりはない。
彼らは、神との関係の「一体感=全能感」を生きている。
まあ国家をはじめとして共同体の制度そのものが「信じる」ということの上に成り立っているわけで、ありえないデマゴーグを信じる「都市伝説」というのもそういう状況から生まれてくる。そうやって人は、ありえない神を信じている。そこには、「集団の圧力」が作用している。
自閉症的」、すなわち「自閉症スペクトラムアスペルガー症候群」とか「統合失調症分裂病」などというのは共同体の病で、彼らの生存は、何が客観的な真実かということよりも、あくまで主観的な「個体」としての自己の存在の輪郭を取り戻すことこそが喫緊の問題になっている。彼らは自己を失っているがゆえに「自閉症的」になってしまっているわけで、そういう傾向は、この社会で暮らすわれわれの誰もが多かれ少なかれ抱えてしまっている。だから「スペクトラム(諧調)」という。たとえ未開社会の民族であれ、人類の観念というか脳のはたらきはすでに社会的自閉症的にになって、「個体」としてのみずからの存在の輪郭を失いかけている。
人類史における神の存在を信じる宗教は、集団が無際限に膨張していった「文明の発祥」の地で生まれてきた。
人類最初に「神」という概念発見し「宗教」を持ったのは、6千年前のメソポタミア文明の地だったのだ。それは、原始宗教(アニミズム)として生まれてきたのではない。

人類史の原始的な段階の社会にはアニミズムが存在しなければならないのか。多くの歴史家がそう決めつけているのは、現在の未開社会にそのような習俗があるからだろう。それが進化してきて、やがてユダヤ教キリスト教や仏教のような世界宗教になってきた、と彼らは考えている。
だったら、未開の民族たちはなぜ、5千年も1万年も、あるいはもしかたら5万年も10万年も、そんな未発達の宗教のままでいるのか。彼らが人類最初に神を発見したのなら、彼らの社会(とくにアフリカ)でこそ人類最初の世界宗教が生まれてこなければならない。
アフリカだろうとアジアの南の島々だろうとアマゾン奥地だろうと、彼らの宗教が未発達なのは、つい最近宗教を持つようになったからだ。そんなのは、あたりまえじゃないか。
水が上から下に流れてゆくように、人類の文化は、文明社会から未開社会へと伝播してゆく。未開社会の文化が文明社会に伝わって文明社会の文化の進化発展をもたらす、ということなどありえない。文明の発達(=観念の上昇)は、後戻りなんかできない。それはもう、文明社会と未開社会とではどちらが先に「言葉」を持ったのか、ということと同じで、未開人が先だったということなどありえない。
では、古代エジプトメソポタミアで生まれた宗教は、現在の未開の民族のアニミズムと同じようなものだったのかといえば、そうともいえない。なにしろ現在の未開人の宗教は、文明社会から伝播してきたものを自分たち流にアレンジして、つい最近獲得したものなのだ。
たとえば、現在のアジアのポリネシア諸島には、「もしもわれわれの未来に飢えて困窮するときがあれば、どこかから白い肌をした救世主がたくさんの荷物を持ってやって来てくれるだろう」という信仰がある。これなどは西洋近代の大航海時代に生まれたものに違いなく、それまで「白人」の存在など知らなかったはずだ。彼らは、白人によってそういう「神=救世主」という観念を植え付けられてしまった。おそらくそこから彼らの宗教がはじまっているわけで、それはべつに原始宗教(=アニミズム)でもなんでもない。
そして彼らは、子供と同じようにかんたんに「信じてしまう」人たちだった。
ドーキンスは、子供がかんたんに信じてしまうことをダーウィン流の「自然淘汰」の問題として、こう説明してくれる。「子供は親の庇護がなければ生き延びることができないのだから、それは自然淘汰という遺伝子存続のための戦略として必然的にそうなっている」、と。
しかしそうはいっても子供は、親のいうことだけでなく、自分を庇護してくれる対象でもないまわりの人間すべてや、犬や猫やおもちゃのいうことすらも信じてしまう。この世に生まれてきて間もないない子供は、この世界のことが知りたくてうずうずしているのだ。また、三歳ころに第一反抗期がやってくることを、ドーキンスはなんと説明してくれるのだろう。反抗し疑うことも生き延びることに重要な戦略だと目覚めるからだ、とでもいうのだろうか。そんなことをいったって、それならまず、親以外の対象に向けられねばならない。なのに、人格など持たないはずのおもちゃに対しては、ますます人格を持った対象であるかのように信じて親密になってゆき、ときにはおもちゃと話をしたりしている。そうやって子供の心は「もう死んでもいい」という勢いでこの生の外に超出してしまっているのであり、そこでこそ命や心のはたらきがよりいっそう活性化している。
そのときポリネシア諸島の人々は、「ああそうか、神という存在はいるのだ」と信じてしまった。白人は、自分たちとは異質な顔かたちをし、自分たちの外の世界からやってきて、またそこに帰っていった。それは神に違いない、と思った。
この生の外の世界があると知ること、それが神の発見であるらしい。
「生きられなさ」を生きている存在である人の心は、どうしてもこの生の外に引き寄せられてしまう。とくに子供や未開人はそうだ。

人類は、猿のレベルを超えて無際限に大きな集団を持っていったことによって、この生の外の存在である「神」という概念を発見した。その大きな集団の中に置かれていることの「生きられなさ」は、「神と自己の関係」を意識することの「全能感」という自意識の肥大化によって癒されていった。そうしてその自意識は、異質な神を持つ異民族と敵対していった。人類史における起源としての戦争は「宗教戦争」だったのだし、現在でも本質においては変わりない。
人類史における宗教は、世界の構造を説明するひとつの新しい「科学」として生まれてきた。
古代エジプトメソポタミアの宗教者はすべて科学者だった。現在の欧米の宗教者が科学のことに口をはさんでくるのはそういう伝統であり、彼らは、異質な世界観をけっして許さない。この世界は神によって決定されている。その世界のかたちを変更しようとするものは、科学といえどもけっして許さない。というか、自分たちこそ真の科学者だという思い込みがある。
「科学では解き明かせないものがある」などというが、彼らからすれば、宗教は科学では解き明かせないものすらも解き明かしている科学なのだ、という思い込みがある。
古代エジプトメソポタミアでは、神を頂点とするヒエラルキーの世界を構築していった。ピラミッドやバベルの塔はまさにそういうかたちをしているし、王は神にもっとも近い存在かもしくは神の子であると認識されていった。
それに対して文明社会からもたらされた「宗教=神」を受け入れていった未開社会においては、大きな集団に投げ入れられているストレスも異民族との敵対関係もないから、「神と自己との関係」を意識しながら自意識を安定させる必要も事情もなかった。神はあくまで、この世界の外の存在として認識していった。たとえ「精霊」や「生まれ変わり」を信じても、それが「神のはからい(デザイン)」だとは思わなかった。他の動物や森の木が神の分身だと思っても、神そのものは、あくまで自分たちが困ったときに助けに来てくれるこの世界の外の存在としてとっておきたかった。
森の中で不思議な音がこだまして「神の声」だと思うことはあっても、「創造主」としての神はうまくイメージできなかった。彼らにとって神は創造主ではなく、自然そのものだった。

人類史における創造主という神は、文明社会の「自意識」において、はじめて見出されていった。
「神」とか「霊魂」とか「生まれ変わり」とか「天国・極楽浄土」とかという問題は、文明社会の自意識=制度性の問題であって、原始社会ののどかな暮らしから生まれてきたのではない。
宗教は原始社会から生まれてきたということは、宗教は子供が生み出した、子供が最初に神を発見した、といっているのと同じなのだ。この世の中は、子供が大人によって洗脳されることはあっても、子供が大人を宗教に目覚めさせてやる、などということはない。
原始社会に宗教などというものは存在しなかった。それは、文明社会から伝播してこないかぎり、生まれてくるはずがない。
この国の縄文時代弥生時代に原始宗教(アニミズム)などというものはなかった。四方を荒海に囲まれた日本列島は、世界中でもっとも宗教や共同体の観念が伝播してくるのが遅れた国のひとつであり、そのあいだに独自の言葉や祭りや集団の文化を洗練発達させていた土地柄でもあった。何しろ1万5千年以上前の氷河期においては、世界でもっとも発達した石器文化や土器文化を持っていたのだから。そして、だからこそ1500年前に大陸から宗教(仏教)や共同体の制度の文化が伝播してきたときには、たちまちそれを自分たちのものにしていった。
残念なことにアフリカでは、それができなかった。未開社会に宗教が植え付けられると、文化の発達が停止してしまう。原始社会に原始宗教(アニミズム)が存在していてそれが世界宗教に発展してゆくのなら、今ごろそれは世界のどこにも存在していないはずだ。
国家文明を持たない原始社会に宗教など存在しなかった。
宗教は世界の構造を説明する「科学」として生まれてきたのであり、世界の構造を変更することを許さない。だから、アフリカやポリネシア諸島だけでなく、文明発祥の地であるエジプト・メソポタミアだって、その後の歴史においては時間が止まってしまったような停滞が続いた。
それに対して人類拡散の行き止まりの地であるヨーロッパや日本列島においては、世界の構造に対する認識を変更してゆくことができる文化風土があった。そこは人類拡散の歴史を背負ってそこにたどり着いた人々の土地だったのであれば、どこよりも人の往来がさかんで、誰もが旅人がもたらす知らない世界の情報に好奇心を抱いていった。
メソポタミアの地で生まれたユダヤ教が世界に対する警戒心と緊張の上に成り立っているとすれば、ギリシャ神話は人に対する好奇心があふれている。それは、中国大陸から伝わってきた仏教が「戒律」の上に成り立っているのに対して、日本列島の古事記の神々に与えられた豊かなキャラクターとの違いにも似ている。
ユダヤ教も仏教も「戒律」とともに人の生き方を支配してくる仕組みになっているが、ギリシャ神話も古事記もそこのところにはほとんど触れていない。前者は、徹底的に人と神(仏)との関係にこだわり、後者はあくまで神々の世界だけを語っている。
ヨーロッパもまた、日本列島と同じように、輸入物の宗教が主流になっていった。ギリシャ神話も古事記も、げんみつには宗教とはいえない。なぜなら「自己と神との関係」がないからだ。だからヨーロッパの知識人の多くは「神は死んだ」といいたがるし、日本人は、そういうことをいう必要もないくらい神との関係を持っていない。「神は隠れて見えない」という。神に手を合わせても、「関係がないという関係」しかない。つまり、日本人の神との関係は、つねに「一方的」なのだ。神はけっして人を支配してこないし、人もまた神との一体感を持つことがない。
われわれはべつに、ユダヤ人のように「神に選ばれた」民族ではない。
神と自己との関係を持ってしまうと、人との関係が不調に陥る。「自閉症的」になって、たとえ人との関係を支配しコントロールする能力が身に付いたとしても、人に対する他愛なく豊かなときめきは湧いてこない。そうやって文明発祥の地の歴史が停滞していったのだ。
ヨーロッパはキリスト教で、日本列島は仏教で、どちらも借り物の宗教で歴史を歩んできた。しかしだからこそ、骨の髄まで宗教に汚染されてしまうことなく、この世界の構造に対する認識を変更してゆくことができる文化的な自在性や、人と人がときめき合う文化を進化発展させてくることができたともいえる。