宗教と非宗教のはざま・神道と天皇(9)

原始人はアニミズム(原始宗教)を持っていた、などとかんたんにいってもらっては困る。
原始時代に宗教などなかった。それは、国家文明の発祥とともに生まれてきたのだ。
宗教が存在しないことは、人類史のはじまりであると同時に究極のかたちでもある。
人類はいつか宗教の存在しない社会を持つことができるのかどうかはわからないが、人の心には、宗教的な部分と非宗教的部分があるわけで、われわれの心は、宗教的でありながらも、つねに非宗教の世界から照射され続けている。
神と自分との関係をどんなに意識しても、誰だって自分を忘れている瞬間はある。人は自分を忘れてこの世界の輝きにときめいてゆく。神がときめかせてくれるわけではない。神のことなど忘れてときめいてゆくのだ。
神を意識することは、自分を意識することであり、自分と神との関係を意識することだ。
神は人を裁く。そうやって人は、神との関係の上に立って人を裁く。まあ文明社会の発祥とともに、そういう心の動きが肥大化してきた。神など信じていないといっても、文明人はもう、無意識のうちにそういう関係の上に立っているし、それでも人間であるかぎり、誰だって、裁くことなど忘れて他愛なくときめいてゆく体験もしている。
快楽というかたちで、それが自分に死をもたらすであろうということがわかっていても、それを裁くことなく、それに魅せられてゆくこともある。
まあ原初の人類はそうやって二本の足で立ち上がっていったのであり、そうやって「もう死んでもいい」という勢いで原始人は地球の隅々まで拡散していったのだ。
人間なんて、まったく愚かな存在ではないか。しかしその愚かさこそが、人間的な知性や感性を進化発展させてきた。
人間性の自然は、非宗教的であることにある。それが人間性のはじまりであり、最終的なかたちなのだ。

国家文明とは、人が人を支配する社会システムのこと、文明発祥とともにそういう関係が生まれてきた。
そのとき人類は、「支配=被支配」の関係に目覚めていった。そうして「神」という絶対的な支配者を想定することによって、「支配=被支配」の関係が存在することの根拠というか免罪符を得た。そのとき人々は、「支配=被支配」の関係を生きようとしていった。誰もが支配者になり、被支配者になっていった。
誰もが神に支配されている存在になることによって、支配されることのよろこびに目覚め、同時に支配しようとする欲望を持つようになっていった。神に支配されることのよろこびは、支配しようとする欲望の正当性=免罪符をもたらした。
では、いったい何を支配していったのか。人を支配し、自然環境を支配し、そして自分自身を支配していった。
「神に支配されている」というかたちで自分自身を支配していった。神との関係に目覚めた新たな自分が、もともとの自分を支配していった。そうやって、「あるがままの自分」ではなく、「あるべき自分」を生きようとしていった。「あるがままの社会」ではなく、「あるべき社会」をつくろうとしていった。おそらくこれが、原始人から文明人へのステップになっている。
ようするに、「自意識=自我」の問題なのだ。「自意識=自我の目覚め」というか、「自意識=自我の肥大化」というべきか、文明社会の発祥とともにそういうことが起きた。そうやって人類は、「神」という概念を見出していった。
神という自意識、ということだろうか。自意識過剰というか、支配欲旺盛というか、そうならなければ、人や世界を支配している神なんか思い描けない。つまり、文明社会になってはじめてそういう意識が生まれてきたのであって、原始人は、自然それ自体に支配されて生きていた。そうやって、「あるがままの社会」を「あるがままの自分」を生きていた。

大陸に都市国家という文明社会が生まれたのがおよそ6000年前で、日本列島では1500年前の奈良盆地にようやく大和朝廷という国家支配の社会構造があらわれ、その社会構造を確立するために仏教が輸入された。それまでは「あるがまま」の原始性をそのまま洗練発達させながら歴史を歩んできたわけで、もしもアニミズム(原始宗教)を持っていたのなら輸入しようとしなかったに違いない。
このへんはややこしいところで、アニミズム(原始宗教)で文明社会をつくることができないのは現在の未開社会の存在が証明しているし、いったん宗教を持ってしまったらそうかんたんにはその世界観を変更することができないのは、現在の文明社会の宗教原理主義民族主義が証明している。
「霊魂」とか「生まれ変わり」とか、宗教としての迷信や妄想は文明社会から生まれてきたのであって、それがそのまま「原始的な感覚」だったのではない。
まあ1500年前の仏教伝来は、世界観の変更の試みであったし、それを変更することができないから神道が生まれてきた。
そのとき神道は、宗教を持たない歴史を歩んできた民族の宗教(のようなもの)として生まれてきた。彼らが仏教の世界観に染まってしまうには、すでにあまりにも原始的・非宗教的な感覚の世界観による文化を洗練発達させ過ぎていた。
仏教であれキリスト教であれ、宗教は横(水平)の世界の広がりを意識する。つまりそれは「この生」にこだわった生命賛歌をしようとしているということであり、この生の延長として極楽浄土や天国を描く。どんなに天国という上空を描いても、それはあくまでこの生=地上とセットになっている上空にすぎない。そうやって永遠無限の生を描く。そうやって、霊魂は不死であるとか、生まれ変わり(輪廻転生)という発想になってゆく。
それに対して縄文時代以来のこの国の世界観においては、この生=地上は有限であり、空の広さは無限である、と認識している。だから、死んだら何もない「黄泉の国」に行く、という。それはもう、おそらく縄文時代以来の伝統の死生観・世界観であり、それでは宗教にならないから仏教を輸入したのだし、仏教に染まりきれないから神道が生まれてきたのだ。。
古事記における最初の神々は、あらわれてすぐに隠れてしまった。それは「死んでいった」ということかもしれない。古事記の神なんか、かんたんに死んでいったり、神が神を殺したりする。つまり、「永遠の生」なんか説いていない。これが、宗教といえるだろうか。

仏教では、阿弥陀如来(=救世主)は西方浄土からやってくる、という。これだって、地上とセットになった空の広がりのイメージにすぎない。いいかえれば、無限の空の広がりとセットにして「地上=この生」を永遠無限のものにしようとしているわけで、それは日本列島の伝統の「黄泉の国」の死生観にそぐわない。だから、仏教に対するカウンターカルチャーとして『古事記』や「神道」が生まれてきた。
原始人には宗教などないといっても、原始人だって死生観や世界観は持っているし、原始人の死生観や世界観は宗教ではない。
まあ宗教のはじまりは、基本的に、「死の恐怖」や「不幸」を意識しはじめた人類が「永遠の生」や「幸福=生命賛歌」のイメージを膨らませてきたことにあるのだろうが、原始人にそのような欲望は希薄だった。彼らはむしろ、死や不幸に対する親密さとともに生きていたのであり、それによって人類の知性や感性が進化発展してきた。
「死ぬ」ことに対してはそれほど怖くなくても、「殺される」となると、大きな恐怖がともなう。人類が戦争をするようになればそうした恐怖は避けがたく膨らんでくるし、「死ぬ」ことそれ自体が「殺される」というニュアンスの強迫観念として体験されるようにもなってくる。まあ、運命の神に殺される、ということだろうか。「この生=自分」に執着するそのぶんだけ、死は恐怖になる。死んだら天国に行く、とは、「自分」は「霊魂」となって永遠に生き続ける、ということだろう。
文明発祥とともに肥大化していった人類の自意識が、宗教を生み出した。
原始人にとってこの生はいたたまれないものだったのであり、ただもう、世界の輝きにうながされて生きていただけだ。「この生=自分」を忘れてときめいてゆく体験が、彼らを生かしていた。「この生=自分」を忘れながら生きて、死んだら「この生=自分」が消えてゆくと考えた。だから、死んだら何もない真っ暗闇の「黄泉の国」に行くと考えるのは当然の論理的帰結であり、彼らには暗闇に対する親密な感慨があった。
彼らのそのような死生観は、けっして宗教ではない。彼らは、「神」も「霊魂」も「天国」や「生まれ変わり」も思い描かなかった。そんな概念というか妄想を駆使して生き延びようとする欲望などなかった。そこのところは、生き延びることにあくせくして生きている現代人の物差しでは測れない。
はじめにアニミズム(原始宗教)があって、それ変化しながら世界宗教になっていったということなどありえない。宗教の世界観は、けっして変更されないのだ。だから、人類最初の文明を発祥させたエジプト・メソポタミア地方は、そうした世界観を抱え込んだままその後の世界の歴史から取り残されてゆくことになった。
宗教を抱え込んだまま知性や感性を育ててゆくということはできないのだ。だから人は、誰もが非宗教的な部分を持っている。世界は、そこにおいてこそ輝いている。宗教は、つねに世界を警戒し緊張している。彼らの「今ここ」の世界は輝いていない。
まあ、警戒し緊張していれば生き延びる能力は発達し、そうやって自意識を膨らませながら金儲けが上手くなったり出世したりするのだろうが、そこに人間性の自然や原始人の世界観があるのではない。

古代人が「死んだら何もない黄泉の国に行く」という死生観や世界観を持っていたということは、彼らは他愛なく豊かにときめき合いながら生きていたということであり、それは極めて原始的で非宗教的な死生観や生命観だった。
日本列島の文化の伝統は、とても原始的で非宗教的なのだ。そういうかたちで文化を洗練発達させてきた、ということ。
原始人がアニミズム(原始宗教)を持っていたとかんたんに決めつけてもらっては困るし、古事記は、神を知らない人々が語る神の物語なのだ。彼らは、宗教ではない宗教を生み出すしかない時代の状況を背負って、神道を生み出した。
その後の神道が「神」や「霊」という概念をあれこれいじくりまわす歴史を歩んできたとしても、日本列島の伝統風土は「神ながらの国」ということにあるのではない。本質的には、「神を知らない」土地柄なのだ。誰もが神社に初詣や七五三のお参りに行っても、ほとんどのものはどんな神が祀られてあるかということなど知らないまま手を合わせている。
神社が存在することの本質的なコンセプトは、宗教として宗教から解放されることにある。神を神として語りながら、神であることを換骨奪胎してゆく。そういうアクロバティックな想像力とともに、古事記の物語が生まれ、神道が生まれてきたのだ。
本居宣長は、古事記の神(迦微)について、

「凡て迦微(かみ)とは,古の御典(みふみ)等にも見えたる天地の諸々の神たちを始めて,其の祀れる社に坐す御霊をも申し,又人はさらにも云わず,鳥獣木草のたぐい海山など,其の余(ほか)何にまれ,尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて,可畏き物を迦微とはいうなり(『古事記伝』一の巻)」

と説明しているが、それは必ずしも「可畏(かしこ)きもの」ばかりではない。古事記には、愚かな神も醜い神も、いっぱい出てくる。神は人間の祖先なのだから、人間くさくないといけないし、人間くさくあってはいけない。そこに立って古代人は想像力をはばたかせていった。
本居宣長のいうことが間違っているとは思わないが、そんな言い方をするから、明治以降の国家神道に利用されてしまうほかなかったのだろう。
仏教伝来以前の日本人は、「かみ」という言葉を持っていたとしても、「神という存在」は知らなかった。自然に対する畏れやありがたさを「かみ」といったとしても、自然をつくったり支配したりしている存在のことなど考えなかった。
「かみ」は「かむ」の体言。「かむ」とは「気づく」こと。「噛む」ことは食い物の味に気づいてゆく行為のこと。違うかたちのものどうしがぴったり合わさることを「咬む」という。つまり、「深く納得する」こと、すなわち「腑に落ちる」こと。
だから、本居宣長負いうように古代人は神を深く信じていたにちがいないが、しかしそれは「かしこきもの」というのとはちょっと違う。
その言葉は、西洋の「ゴッド」のように「神」のことだけに使われていたわけではなかった。もともと「神という存在」など知らなかったのだから、「神」専用の言葉などなかった。知っていたら、専用の言葉を持っている。「神」という漢字が入ってきて、「しん」とか「じん」という言葉の響きではいまいち納得しきれなくて、「かみ」というようなニュアンスだろうか、と推測していった。
まあ、自然との関係が深くなって思いがこみ上げることを「かむ」といった。自然に対して驚いたり怖れたりときめいたり、この世に自然ほどたしかな存在もない、という思いを込めて「かみ」といった。そして、自然それ自体が「かみ」であり、自然の中には「かみ」が宿っている、と思った。
彼らは、この世界をつくった存在としての神についてはいまいち納得できなかったが、この世界の存在それ自体を「かみ」というなら、しっくりと納得することができた。まあ、この世界の万物それ自体にぴったり合わさっているものを「かみ」という。したがってこの場合の「かむ」は、「噛む」というより「咬む」というニュアンスのほうが近いのかもしれない。
万物それ自体の存在の「気配」を「かみ」という。
彼らの「神(かみ)」のとらえ方は、とても抽象的でアクロバティックだった。
現在の日本人の「神(かみ)」のとらえ方だって、のほほんとして無造作なようで、じつはとても抽象的でアクロバティックであるのかもしれない。たとえいいかげんであっても、神社の神に対してとても親密なのだ。小林秀雄流にいえば、日本列島の「神(かみ)」は、そういう「精神の離れ業」の上に成り立っている。
もともと神を知らない民族だから。