神なんか知らない・神道と天皇(3)

日本列島の仏教伝来以前においては、「神」は存在しなかった。
宗教なんかなくても、神なんか知らなくても、人は生きていられる。
日本人ほど神という意識がいいかげんな民族もいない。いいかげんでもこの生は成り立つ。そしていいかげんだから心の中に「神との関係」を持っていないかというと、そうともいえなくて、人が人や世の中を「裁く」ことは、神との関係の上に立ってしていることだ。人はこう生きねばならないとか、社会はかくあらねばならないとか、そういう絶対的な正義を持つこと自体が、すでに神との関係の上に立っていることを意味する。
われわれは、人類の歴史の無意識として、すでに「神との関係」の上に立たされてしまっている。おそらくそれは自意識の肥大化の問題で、「神との関係」を意識しようとしまいと、すでにそういう観念のはたらきを抱えてしまっている。
生き延びようとすること、すなわち文明人は多かれ少なかれ、無限に肥大化してゆく自意識をなんとしても守り育てようとする観念性を持ってしまっている。そうやって人や世の中を裁き、「天国」や「生まれ変わり」を想定したりしている。
人を憎むということ、それはなんとしても自意識(自我)の牙城を守ろうとしていることで、それは無意識のうちに「神との関係」の上に立ってしまっているということなのだ。それは、その相手とは共存できないと自覚することで、その相手を抹殺しようとしていることだ。その相手が気になって気になってしょうがないというかたちで自意識の中に侵入されていることであり、肥大化している自意識ほど侵入されてしまうし、肥大化している自意識ほどそれを激しく拒否する。そうやって文明人は、すでに絶対で全能の「神」との関係を持ってしまっている。「神」との関係によって自意識は、絶対で全能のものへと肥大化してゆく。
そんなの気にしなければいいだけなのだけれど、肥大化した自意識は、避けがたく「侵入(侵略)されている」と自覚してしまう。そういう強迫観念とともに、相手を抹殺しようとしてゆく。それが、「憎む」ということではないだろうか。
人類は、宗教の発生とともに「憎悪」の感情から逃れられなくなってしまった。そうやって、パンドラの箱を開けてしまった。

人類の知性や感性は「神」なんか知らなくても成り立つし、知能が発達すれば自然に「神」を意識するようになるというようなものでもあるまい。意識するようになるのなら、この世に科学者など存在しない。彼らは、幼いころにまず「神」を意識し、それから科学に目覚めていったというわけではないだろう。
道端にしゃがみ込んで蟻の行列を飽きもせず眺めている子供が、そのとき宗教に目覚めているというわけでもないだろう。
子供には神や精霊に気づく力がある、などとよくいわれるが、それは自然に対して驚きときめいてゆく心のはたらきが豊かだというだけのことであり、子供は自然そのものを神だと思うことはあっても、神が自然をつくったというような発想はしない。そんなものは、何かにつけて作為的に生きているすれっからしの大人の発想だ。この世界やこの生をつくっている(支配している)神とか精霊などという概念は、大人から植え込まれるのであって、子供はただもう率直に驚きときめいているだけだ。
ひとまず宗教におけるこの世界の構造は、神が自然=生きものをつくり、精霊(霊魂)が自然=生きものの生きるいとなみを支配している、ということになるのだろうが、人がそういう「つくる」とか「支配する」というようなややこしい関係に対する意識を先験的に持って生まれてくるわけでもないだろう。
ピーターパンやティンカーベルやトトロを空想することはべつに宗教でもなかろうが、この生を支配するものとしての精霊や霊魂の存在が子供の思考の中で成り立つとは思えない。
精霊や霊魂は不死の存在であり、不死を願う文明人の欲望から生み出されてきた。
この身体が有限であることは、誰でも自覚している。だからこそ、精霊や霊魂という不死の存在がイメージされる。それは自意識の要請であり、精霊や霊魂とは、身体が滅んでもなお生き延びたいという自意識の不死の形象化というか形代(かたしろ)なのだ。そんなものを、子供がイメージするはずがない。
文明人の自意識はまず、この世界をつくった「神」をイメージしていった。そうして自己と神との関係に入り込むことによって「全能感」に浸されていった。その「全能感」から、精霊や霊魂という自意識の形見がイメージされていった。
おそらく起源としての宗教のひとつに違いない古代メソポタミアで生まれたユダヤ教は、自分たちは神に選ばれた民であるという自意識の上に成り立っている。
人類が「神」という概念を生み出したということは、「神との関係」に目覚めていったということでもある。そうしてその自意識は、さらに不死の「霊魂」という存在をイメージしていった。宗教はそうやって「全能感」に浸って生きるための装置として生まれてきたのであり、その「全能感」を宗教的法悦というのだろうか。
神との関係に入り込めば、「全能」だし「不死」だし、何をしようと「正義」はすべて自分のもとにある。人殺しをしてもかまわない。そうやって彼らは、戦争の歴史に突入していった。宗教こそ、人類普遍の戦争の原動力なのだ。
現代社会においても、べつに宗教を持っていなくても「自己正当化」の傾向が強い人間はみな、心の中に「神との関係」を持っている。
ユダヤ的な自意識、というのだろうか。現代社会には、そういう唯我独尊の自意識が跳梁跋扈している。平たくいえば、そうやって「俺が、俺が」といいたがるし、ネット社会で「自分語り」のブログがあふれているのも、ひとまずそういうことかもしれない。

子供には、この生=自分やこの世界が存続しなければならないという自意識過剰の強迫観念などない。
ドーキンスは、遺伝子にはこの生を存続させようとする「目的」を持っているかのようにいうが、そんなことはたんなる「結果」にすぎないのであり、生きものの命のはたらきが生き延びようとすることにあるとは僕は思わない。
生きものは「もう死んでもいい」という勢いで生きているのであり、そこでこそ命のはたらきは活性化する。
生きものはこの世界の「異物」であり、生きてあることなんかどうでもいいのだ。どうでもいいのだけれど、それでも生きる仕組みだけが残ってゆく。それを「自然淘汰=進化」という。環境は生きられない仕組みは生きさせてくれないし、必ず死んでゆく存在であるわれわれ生きものは生きられない仕組みしか持っていない。そうして、生きられない仕組みの生きられる部分だけが残ってゆく。
進化は、「生きられない仕組み」であるところのいいかげんでおっちょこちょいの気まぐれから起きてくるのであり、この生に「最適化」してゆく現象ではない。この生からはぐれてゆくというか、超出してゆく現象なのだ。そうしてどんどん死んでゆき、その果てに四苦八苦しながらもなんとか生きられるかたちになってくる。この生なんか無駄なことばかりであり、生きものはみんなその無駄を抱えて四苦八苦しながら生きている。
まあ、「どうでもいい」ことに憑依してゆくことによって「進化」が起きてくるのだ。キリンの首が長くなってゆくことなんか「どうでもいい」ことだったのであり、彼らが環境に「最適化」して生きているなんて嘘だし、この世界に「最適化」している生きものなんかいない。

原始人が、両手に石を持ってぶつけ合わせてみる。こんな「どうでもいい」ことは、猿はしない。しかしこの行為こそが、人類史の石器の発達の契機になった。そのとき人類は、科学に目覚めたのだ。
人類史は、宗教(アニミズム)よりも先に「科学」があった。科学とは「どうでもいい」ことに憑依してゆくいとなみであり、この生からはぐれて(超出して)ゆくいとなみなのだ。
遺伝の法則を発見したメンデルをはじめとして、昔は科学の探求のための時間と資金を得るためにとりあえず聖職者になったという科学者はたくさんいるらしいが、神の存在を証明するために科学者になったという話はほとんど聞かない。
伊勢白山道という人はもともと理科系らしいが、けっきょく科学者になれなかった人だ。宗教者であることが、彼の科学者としての限界だった。
何はともあれ、現在の科学者のほとんどが無神論者であるということは、人の知能の発達に宗教なんか関係ないし、むしろそれは妨げになるということを意味している。
もちろん、神の存在を科学的に語るということはいくらでも可能なのだろうし、それによって民衆が洗脳されてしまうわけだが、それは宗教が科学を「くすねて」いるだけのことで、宗教は科学であろうとする本能を持っている。
人類の歴史は、まず科学に目覚めていった。そして、世界の構造を説明する科学として宗教が生まれてきた。そのとき宗教は、身の回りの自然とか、遠い星や月や太陽とか、生と死とかを説明する最先端の科学だった。
6世紀はじめに仏教を輸入した日本列島にしろ、近代になって「いつか白人の救世主があらわれる」と信じた南アジアの島々にしろ、文明社会の科学が、それを信じてゆく説得力になった。そのとき文明社会の科学を携えてやってきた文明人が、神や霊魂が存在するという世界の構造を説き、人々はそれを信じていった。
宗教者は、救世主のふりをしたがる。それによって自意識が満たされる。
人類の宗教の歴史は、まずはじめに人々の自意識が肥大化してゆく文明社会が出現したことにある。つまり、国家という共同体が出現したということ、そこからはじまっている。

では、国家という共同体は、どのようにして生まれてきたのか。
メソポタミアで最初に生まれた都市国家は、銀のインゴットを持っていて、それに憧れてあちこちから人が集まってきた。銀の精錬技術、それはまさしく最先端の科学だった。そしてそれは衣食住とはなんの関係もない「どうでもいい」ものなのに、人々はどうしようもなくそれに憧れた。そこは砂漠の中に築かれた都市だったのだけれど、まわりにはチグリス・ユーフラテス川の穀倉地帯が広がっていて、その生産物を銀と交換するためにどんどん人が集まってきた。そこは、世界の中心であると同時に、世界のヒエラルキーの頂点でもあった。その都市住民は、生きるための衣食住のことよりも、ヒエラルキーの頂点に立つという自意識の満足を追求していった。人間なんて、そういう「どうでもいい」ことに憑依してしまう存在なのだ。まあ、そうやって彼らは、ヒエラルキーの頂点に立つ「神」をイメージしてゆき、神と自分との関係を意識していった。もしかしたらユダヤ教を生み出した人々は、このような都市で育っていったのかもしれない。彼らはあくまで第一次産業とは無縁の人々なのだから、世界中のどこにでも住み着くことができた。そうやって彼らは、「世界宗教」の創始者になった。
人類の歴史は、まず「世界宗教」があらわれ、それが世界中に伝播していって原始宗教(アニミズム)が生まれてきたのだ。
宗教なんかなくても、人間ならやがて科学に目覚めるし、社会における祭りの習俗や人と人の関係の習俗はそれなりに育ってゆくが、神という概念に気づいて神と自己との関係を結んでゆくメンタリティは宗教がなければ育ってこない。そうやって自意識が肥大化してゆくことによって宗教が生まれてきたのだし、自意識が未熟のまま宗教を受け入れるなら、原始宗教(アニミズム)になってゆくほかない。